45.中級篇:小説は「心」を書く

 小説は人物を書きますが、とくに「心」を書いています。

 でも文学小説・大衆小説・ライトノベルでは「心」の書き方が異なっているのです。





小説は「心」を書くもの


 小説は「心」を書くものです。

 「文学小説」も「大衆小説」も「ライトノベル」も等しく同様になります。

 どんなジャンル、たとえばミステリーでもホラーでも歴史でもSFでもファンタジーでも。

 人間の「心」を描き出すと読み手は己が如く感情移入してくれるのです。


 一人称視点では「主人公の心の内」が書かれています。

 そして他の人については「この人はどういうことを思っているんだろう」と主人公の主観から見た推測によって知ることになるのです。


 三人称視点では登場人物いずれの心も第三者が傍から見た表面的な肉体的変化によってしか描けません。

 第三者の主観が入ってしまうと、それはもう三人称視点ではなく第三者が主人公の一人称視点となってしまいます。


 神の視点であれば誰の心も覗き放題です。

 誰がどう思っているのかを読み手はすべて正確に把握できます。

 でもそれでは読み手が白けてしまうでしょう。





文学小説の「心」

 「文学小説」は「心」を描くとき、多くが「繊細さ」「脆さ」を主眼に据えます。

 さまざまな状況に主人公を叩き込み、「心」が壊れてしまうのではないかと読み手を不安がらせるのです。

 読み手はハラハラ・ドキドキしながら読み進めます。

 その壊れてしまいそうなギリギリの状況をなんとかして耐え抜き、希望が訪れるのを待ち続ける。そんな小説が多いのです。

 「文学小説」とはそういうものなので、「ライトノベル」を含めた「大衆小説」と比べて派手さがありません。

 「文学小説」を読んで「楽しかった」と思う読み手はまずいないでしょう。

 おおかたが「安堵感」か「喪失感」を味わいます。

 それを「高尚」だと思っている文壇の重鎮が居座っている限り、その状況は変わらないでしょう。

 またそういった重鎮によって「芥川龍之介賞(芥川賞)」「直木三十五賞(直木賞)」を授かった書き手が「芥川賞」「直木賞」の選考委員になります。

 そうなれば「心」の「繊細さ」「脆さ」をテーマにして「心が壊れてしまうのではないか」という小説がまた授賞していくのです。


 ある意味で小説の描く「心」がまったく成長も変化もしてこなかった分野が「文学小説」だといえます。それを「純文学」と呼ぶのかもしれません。

 となれば「純文学」とは「楽しめる小説ではない」ということになります。マンガをよく読む中高生が「読んで楽しくない小説」を読みたがるでしょうか。


 「文学小説」は現在大きな岐路に差しかかっています。

 今のままでは「文学小説」は売上を大きく落とすことになるでしょう。

 以前より「芥川賞」「直木賞」の権威は落ちています。(『ピクシブ文芸』掲載時はこうでしたが、2019年5月を見てもやはりそうなっているのです)。


 現在の日本人の多くがマンガやアニメに親しんでおり、その「楽しさ」を日々味わっているのです。

 そのような方たちが「読んで楽しくない小説」である「文学小説」を尊崇する理由がありません。

 つまり「文学小説」はもう「読まれなくなった小説」であることを自覚しなければならないのです。


 第153回芥川龍之介賞を授かったお笑い芸人コンビ・ピースの又吉直樹氏『火花』は発行部数が二百万部を超えました。(『ピクシブ文芸』掲載時。2019年5月時点で三百万部を超えています)。

 しかし同時に同賞を授かった羽田圭介氏『スクラップ・アンド・ビルド』はその数字に遠く及んでいません。

 これは又吉直樹氏が「ライトノベル」の主な読み手である中高生にも「人気お笑い芸人で『読書芸人』として知名度があった」のに対して羽田圭介氏はそこまでの知名度がなかったからです。

 やはり「文学小説」は以前ほど売れなくなっています。


 「芥川賞」「直木賞」は過去から連なる「権威付け」で存在しているだけです。

 受賞すればテレビや新聞や雑誌などのメディアからコメンテーターとして呼ばれることもあるでしょう。

 ですが「権威」を追い求めるためだけに小説を書くのは、ある意味バカらしく感じませんか。


 小説家は「権威」こそすべてだ。

 そう思っていらっしゃる書き手の方だけが「文学小説」を正しく書けます。

 そういう書き手は「文学小説」を書き続けてください。





ライトノベルの「心」

 「ライトノベル」で描かれる「心」を簡単に言うならば、ずばり「決断力」「勇気」です。

 平凡な日々の中、今までやらなかったことを始めてみようとする意志「決断力」、それをやり遂げようとする意志「勇気」があって初めて物語は進みます。

 日常を変えようとする意志イコール「決断力」「勇気」が「ライトノベル」の物語には必要なのです。

 主人公が「決断力」「勇気」を出して頑張るから読み手は主人公に感情移入できます。


 このことは読み手でもある皆様も感覚でわかっていらっしゃると思います。

 平凡な日常だけが淡々と続く小説もないわけではありません。

 でもそれは「純文学」たる「文学小説」の領分です。

 「読んでいて楽しい小説」には、なにがしかの「決断力」「勇気」があります。

 だから「ライトノベル」を読むと主人公から「決断力」「勇気」を分けてもらえるのです。

 「ライトノベル」とは、人生を前向きに生きるために必要なものだといえるでしょう。

 そしてそれは「ライトノベル」の主な読み手である中高生の現在の心理にも現れています。(2022年は中年男性が主な読み手です)。


 現在の中高生は日頃からマンガやアニメに接し、その「楽しさ」を友人と共有しています。

 そのような中高生が好んで読む小説は、マンガやアニメで「楽しさ」を感じた作品の原典やノベライズです。


 中高生はお小遣いの範囲内で物を購入します。

 「楽しい」とわからないものを買うような経済的に余裕のある中高生は稀なのです。

 だから「大衆小説」とくに「ライトノベル」は新シリーズの第一巻第一刷はなかなか売上が伸びません。

 第一巻第一刷を購入するのは、すでに「ライトノベル」で育ってきた社会人が主です。彼らが大人買いをして「面白い」「楽しい」と感じた作品は徐々に売れ始めます。

 ある程度の数が売れれば(作品によって異なりますが、だいたい累計三十万部くらいでしょうか)、そこからドラマ化・マンガ化・アニメ化の話が出る運びになるのです。

 そしてドラマやマンガやアニメになったら中高生がそれを観ます。それを「面白い」「楽しい」と感じた中高生は、限られたお小遣いの中から原典を購入していくのです。


 このように「ライトノベル」はドラマやマンガやアニメがヒットすると原典が爆発的に売れます。

 そしてドラマやマンガやアニメをヒットさせるためには中高生が「面白い」「楽しい」を友人と共有できなくてはなりません。

 「恋ダンス」で一世を風靡したドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は、海野つなみ氏の同名マンガが原典です。

 そしてドラマが大ヒットしたらマンガも一挙に売上を伸ばしました。

 中高生がよく読むマンガですらこうなのですから、普段読まない小説なら効果はなおのこと高くなるのです。





大衆小説は二面性

 だからといって「悲劇」を否定しません。どんなに努力しても状況に流されるだけ流されて「悲劇」で終わる作品があってももちろんかまわないのです。

 その場合も「心」のなりゆきを中心に書くことになります。

 その代表例が「純文学」と呼ばれる「文学小説」です。


 多分に偏見を含みますが「文学小説」に「勇気」はなくてもかまいません。

 「運命」という状況に流されるありのままの人間の「心」を描き写すのが「文学小説」なのです。

 特別な出来事やアクシデントも必要ありません。

 「心」のありようさえ描ければそれでよいのです。


 「ライトノベル」も「文学小説」も「心」を描くという点では変わりありません。

 小説は「心のありよう」を描き写すものなのです。

 それだけでも知っていると書きやすくなるでしょう。


 「決断力」「勇気」のベクトルと「運命」(「繊細さ」「脆さ」)のベクトル、この二つが作品に深みを与えます。

 「文学小説」に「決断力」「勇気」を取り入れたり、「ライトノベル」に「運命」を取り入れたりすれば、物語がさらに奥深くなるのです。


 「大衆小説」は「文学小説」と「ライトノベル」の中間に位置します。

 ということは「繊細さ」「脆さ」と「決断力」「勇気」が程よく混ざった状態です。

 つまり「面白い」し「心に刺さる」小説となります。


 「ライトノベル」の創生期には「大衆小説」寄りの作品が多かったのです。

 田中芳樹氏『銀河英雄伝説』、水野良氏『ロードス島戦記』、冴木忍氏『〈卵王子〉カイルロッドの苦難』などは「文学小説」に寄った「ライトノベル」であり、現在の「大衆小説」と呼んでよいものでした。

 読んでワクワク・ハラハラ・ドキドキして「面白い」んだけど「心に刺さる」作品たちでした。


 その状況から現在の「楽しさ」を全面に出した「ライトノベル」スタイルを確立したのは神坂一氏『スレイヤーズ』です。

 これがブレイクスルーとなって「ライトノベル」は事実上「楽しくなければライトノベルじゃない」状態になりました。

 以後「ライトノベル」の定義は「読んで楽しい小説」の位置づけになっています。


 もちろん現在でも川原礫氏『ソードアート・オンライン』といった「心に刺さるライトノベル」は生まれ続けています。

 でも川原礫氏は後作である『アクセル・ワールド』のほうが先に「紙の書籍化」されており『アクセル・ワールド』と『ソードアート・オンライン』が同時にアニメ化された際に「ライトノベル作家」として認知されました。

 だからこそ『ソードアート・オンライン』が「紙の書籍化」したときに爆発的な人気を得ることになりました。





最後に

 今回は「心」について述べました。

 「運命」「繊細さ」「脆さ」を描けば「文学小説」になり、「決断力」「勇気」を描けば「ライトノベル」になります。

 つまり「心」をネガティブに描けば「文学小説」に、ポジティブに描けば「ライトノベル」になるのです。

 そして双方を程よく兼ね備えているのが「大衆小説」ということになります。

 「大衆小説」は幅が広いですね。


 「心に刺さるライトノベル」が「大衆小説」への扉でしょうか。

 でも現在の「ライトノベル」を見ると渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』が『このライトノベルがすごい!』で三連覇して殿堂入りするほどです。

 今後も当面の間ライトノベルの主流は「楽しい」作品になると思われます。(『ピクシブ文芸』掲載時の予測でしたが、よい意味で外れてくれました。「心」を正面から書いたライトノベルも売れるようになったのです)。



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