第14話

 そうだろうか。本当に誰かを救えていたと、言えるのだろうか。実感が沸かない。なにより、記憶自体も曖昧だ。いったい、なにを失ったのかすらよく分かっていない。それでも、なにかを失ったことは事実なのだろう。それだけは、ハッキリと頭に浮かぶ。だけど、なにを失ったのか否かまでは把握できない。


 いまのところは知識も揃っているし、まともに生活もできる。一人で生きていくには申し分はないくらいのスペックだ。


 それなのに、足りない。この心に空いた穴はいったいいつ誰が埋めてくれるのだろうか。そう、求めてはいるものの、やはりそのような人は現れない。


 元より彼自身がそれを拒絶しているとも言えた。現れないではなく、現れてほしくないと心のどこかで思ってしまう。それは決してよいことではないのだろう。けれども、確かに彼の気持ちは誰も求めてはいないという部分だけはハッキリとしている。確定しているともいえる。


 いずれにせよ、もう二度と真白は誰かと一緒に二人で並んで歩くことはできない。それでも、いい。一人でも生きていけるのなら、誰かの手を煩わせる手間をかけずに済むのなら、それにこしたことはない。現状以上のことを求める気もない。


 真白としてはこれ以上上を目指す気もない。とにかく、普通でいるのが一番だ。ゆえに、しがない作家を続けている。


 高い報酬をもらっても、世間やしがらみに縛り付けられては、意味がない。そんな仮初めの幸福よりも圧倒的な自由を求めて、真白は旅立ったのだ。


 ***


 そこから時計回りに各地を周り、真白は東の地方に戻ってきた。そこはかつて舞台が現れたことのある町だ。彼も何度か足を運んだ記憶がある。見慣れた町並みがあたりには広がってはいるものの、何度見ても新鮮な気持ちになる。それだけにこの華やかな空間は気持ちがいい。そうして、ダラダラとしつつ、歩く。


 そういえば、と思い出す。かつては舞台がやっていたというのに、最近は見かけない。なぜだろうか。その理由が分からない。


 けれども、自分には関係のないことだと決めつけて、深く探らないようにした。


 正確には、詮索をしないように気をつけたといったところだろうか。なんとなく、これ以上なにかを探れば、パンドラの箱を開けてしまいそうな気がしたからだ。


 なにが危険なのかは分からない。それでも、なにかを知った場合、今の自分が崩れてしまうかもしれない。そんな感覚が頭を支配して、仕方がないのだ。


 この感覚はいったい、なんなのだろうか。自分はいったい、なにを恐れているのだろうか。それは分からない。それでも、なにかを恐れているということだけは分かる。そして、無意識の内に記憶の蓋が開く瞬間を怖がっている。自分は知ってはならないと、思い出してはならないと何度も頭に、心に言い聞かせる。


 だけど、そんなことも長くは続かないことを知っていた。


 無意識の内に気づかない振りをしてきた。なにも知らない振りを、最初からなにもなかったことにして前に進もうとしていたのかもしれない。それでも、実際のところはどうだろうか。本当に自分は全てを忘れてしまったのだろうか。なにも忘れていない。記憶にはないと、自分に自分を嘘をついていたのかもしれない。


 なぜなら彼は、舞台がこの町でやらなくなった原因に心当たりがあるからだ。


 それにしても、あいにくの雨模様だ。空を見上げるまでもなく、大粒のしずくが降ってくる。道路はうるみ色で、ジメジメとした空気を全体から感じる。別段雨はきらいではないのだが、できるのなら晴れていたほうがいい。なんというか、靴の中がぐっちょりと濡れて気持ちが悪いのだ。


 そうした中、不意に何者かに声をかけられる。


「おや、そこのお兄さん。少し、寄っていかないかい?」


 パープルのローブ姿の女性が手招きをする。彼女はゴツゴツとした枯れ枝のような指に、銀のリングをいくつかはめている。たいへん、稼いでいそうな身なりだ。フードの下にある顔は影がかかってよく見えないけれど、顔立ち自体は整っているのだと、予想がつく。見た目からして、占い師だろうか。胡散臭い雰囲気がするものの、なぜだか真白にとっては心を許せそうな相手のように思えた。


 もっとも、彼は占いを信じるわけではない。むしろ、自分の未来は自分で切り開いていくものだと考えている。肝心なところで神に頼ったとしても、救いは訪れない。現状を打破したいのなら自分で努力するしかない。変わるしかないのだと、何度も自分に言い聞かせていたはずだ。


 それでも餌に釣られる小動物のようにそちらへ寄ってしまうのは、自分の中で知らないものがあるからだろう。なんとしてでも知りたい。パンドラの箱でもなんでもいい。なにかを知りたい。教えてほしい。そんな思いに突き動かされるように、真白は口を開いていた。


「あなたはいったい、俺になにを教えてくれるんですか?」


 小さな唇から澄んだ声が漏れる。

 いままで人とあまり会話をした機会がなく、旅の最中は独り言すら漏らさなかった。あらためて人に対してものを尋ねて、「そういえば自分はこんな声をしていたな」と思い出す。


「そうだね、知りたいことは山ほどあるだろう。だが、落ち着きたまえ。君が知る予定のものは教える気はない。ただ一つ、事実だけを教えてさしあげようかと、そう思っているのだよ」

「事実?」


 いったい、なんの話だろうか。

 眉をひそめる。


「事実といっても、君の感情のことさ」

「ああ、はい。でも、そんなことを聞いて、なんになると言うんですか? それに俺には感情なんて……」


 自分は虚無だ。


 他人に対して心を動かされることはない。人が倒れていたら助けはするけれど、誰かがやってくれるのならそれに任せるつもりだ。自分の危険を犯してまで助ける予定もない。


 要するに真白は誰に対しても平等に接する代わりに、誰に対しても無関心だった。


 いままで、誰かに対して強烈な思いを抱いた記憶もない。ゆえにこそ、真白はどうしようもないほど冷淡で――


 心の中で怒涛のような勢いで自分のことを分析しようとした矢先、不意に思考が止まる。急に周りの音が空白に沈み、周りの景色すらが霧吹きをくらったようにかすむ。


 彼の視線の先には、真っ赤に染まったバラがあった。太陽を浴びて、輝いている。ほのかにフローラルな香りが鼻孔をかすめて、心が波だった。


 このとき、心に抱いた感情の正体は、いったいなんだったのだろう。分からない。だけど、この曖昧で空虚な気持ちの中で確かに、自分が忘れた記憶がある。失くしたはずの想いも残っていた。


「君は確かに、彼女を愛していましたよ」


 その瞬間、頭を覆っていた透明のガラスが砕け散る音がした。


 記憶の中でオパールのようにきらめく髪が揺れる。確かに、知っていた。自分は彼女の存在を知っていた。白を目指して、それでも白になりきれなかった虹色の少女。虹色の女優。彼女の名を、知っている。彼女の性格を知っている。その素顔は決して見ることはできず、その存在自体は確実にいたと肯定できはしない。


 それでも確かに、知っていた。彼女と過ごした日々は記憶の内側に隠れていたのだと。


 その名は、花咲彩葉。


 記憶は戻らない。ただ、大切な人を失ったということは分かる。おそらくはなによりも救いたくて、守りたかった。なんとしてでも手に入れたかった。それなのに、彼女はすでに近くにはいない。その重みが今頃になって、すさまじい勢いで押し寄せてきた。


 ああ、そうか。自分は、冷たい人間ではなかったのかと。

 ようやく実感した。それだけで心をおおっていた氷が溶けたような気になる。


 たった一人の少女のために何度も過去に戻って、それでも救うことはできなかった。彼女は何度でも死んでしまう。それを防ぐ手段はない。なぜなら、彼女の死そのものが、真白を動かすためのトリガーとなっているからだ。ゆえにこそ、花咲彩葉の死をもってでしか、本物の真白は誕生しない。彼女の死は決して無駄ではなく、回避も不可能な代物だった。


 分かっていた。分かっていたのだ。

 それでも、もっと一緒にいたかった。もっと、かけがえのない想いを、後悔のない思い出を作って、無念などないレベルに昇華できてさえいれば、なんて幸せだったのだろう。


 つらいと思うのは、自分が彼女を愛していたという証だ。それは救いでもある。

 だから彼は、顔を上げた。


 雨が止む。

 見上げた空に虹がかかる。


 今、透明だった自分にも、ほんのりと色がついたような気がする。


 その頬を、淡い想いが伝った。

 目をうるませながら、彼はあじさい色の空を瞳に映した。

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