第7話

 虹色の獣といっても、本体はいったいどのような容姿をしているのだろうか。いままでも、ここまでくるまでに考えたことはある。虹といえば雨上がりの空にかかる、半透明の橋だ。手を伸ばしたところで、決して届かない。追いかけようとしてもあっさりと逃げられてしまう。その距離が縮まることは、決してない。そんな、あるのだかないのかよく分からない存在が、虹だった。


 虹色ならファンシーなイメージがある。カラフルと言い換えると、ポップだ。まるで夢の中にいるような感覚を受けるかもしれない。それくらい、虹は現実離れしているし、非日常の匂いをただよわせている。


 一方で、目の前にいるのは確かに虹色の獣だった。文字通りの容姿とでもいうべきだろうか。ただし、雰囲気はイメージとは違う。第一に色彩に黒が混じっている。グレイッシュに濁っているとでも言えばいいだろうか。見ていて不安になる色だ。先ほどは夢の中にいるようだと例えたけれど、これは悪夢の中の光景といったほうがいいだろう。あまりにも暗い色彩をしているものだから、それを虹だとは到底思えない。むしろ、体の外側をただよっている瘴気のほうが目についてしまう。


 もっというと、『獣』という呼び方は間違っていると、直感した。なぜなら、図体が大きすぎる。大きな翼に立派な体。トカゲのような体をしていながら、鱗まできっちりとツヤがある。これはいったい、なんなのだろう。動物というにはいささか厳かで、手を出せない。動物園やジャングル・サバンナなどにいる猛獣たちがかわいく見えるほどだ。


 大きさは山にひとしい。人間たちを見下ろせば、ゴミのように見えるだろう。明らかに手を出してはならない代物のように見える。これを獣扱いとは、名付け親はいったいなにを考えていたのだろうか。ゴクリとツバを飲む。恐怖が全身を包む。鳥肌が立って、足場が不安定になる。別段、地盤沈下したわけではない。純粋に力が抜けそうになって、ガクガクしているだけだ。


 実際に相対してみると、なんというプレッシャーだろうか。こんなものを現代――勇者が過去にいた世界に持ち込んでは、たいへんなことになる。元より、こちらの世界はそちらと似たようなものだ。魔法を使える者も、戦える者も少ない。人類は科学に頼り切っている。目の前にいる獣は災害そのものともいえる。いかに強力な能力を持った者たちでも、さすがに災害相手に戦えはしないだろう。それくらい、災害というものは驚異だ。相対してよい代物ではない。


 本当に勝てるのだろうか。

 絵本の中――古の伝説から直接登場したような容姿を持つ獣――ドラゴンを前にして、握りしめた拳を震わす。口の中に苦い味が紛れ込む。背筋をぞくっとした悪寒が走る。脳内では、血の海に沈む真っ白な少年の姿が何度も再生される。ハッキリいって、勝てる気がしなかった。人形のほうがまだ緊張感を持ちながらも、戦う気にはなれた。だが、目の前にいるドラゴンは、人ではない。明らかに人語が伝わらない雰囲気がある。もはや、話し合いなど不可能だ。


 そして、咆哮が轟く。ドラゴンが雄叫びを上げた。それだけで、衝撃波が発生する。遠くの山が消し飛び、こちらまで土のかけらが舞ってくる。


 とんでもないものを呼び出してしまったのだと実感する。いくら世界を破滅に追い込み、目的を達成するためとはいえ、涅も大それたことをした。もっというと、このようなドラゴンに取り憑かれた彼は、いったいどのような人格をしていたのだろうか。まともな生き方をしていたのなら、なにも起こらなかっただろうし、どうにかできなかったのだろうか。


 どうせなら、獣が顕現する前の時間まで戻したい。とはいえ、いずれ術式は発動される運命にある。おそらく爆弾でいう時限式だったのだろう。術者の身に問題が発生――殺された場合でも目的だけは達成されるように気を配っているはずだ。こちらからすると非常に迷惑な問題ではあるけれど、そこは飲み込むしかあるまい。


 とにもかくにも、気を引き締める。

 自分の周りには戦闘力を持った者たちが数名はいるけれど、いずれもドラゴンには敵わない。龍神ミドリが尻尾を巻いて逃げるしかないというのなら、おそらくこの世界にいるいかなる戦士とて、戦っても意味はないのだろう。返り討ちに遭うだけだ。


 ならば、どうすればいいのか。人類は、世界は、破滅を免れる方法はあるのだろうか。

 答えはすでに決まっている。そう、自分で戦えばいいのだ。そのためにここにきた。

 ずっと、真白は自分の存在意義について、悩んできた。自分はどうしてここにいるのか。なぜ、生まれたのか。なぜ、勇者を演じる羽目になったのか。その全ては、とうの昔にまっすぐに繋がっている。

 今日、この日のために生きてきた。目の前にいるドラゴンを倒すために、レールの上を進んできた。自分の水の属性はそのための能力だ。だからこそ、引くわけにはいかない。勝てると分かっているのが自分だけなのだから、その自分が逃げるわけにはいかない。


 全てを託された。神から、人類から。それならば、戦えるのが自分しかいないのなら、それを誇りに持って立ち向かおう。元より彼は存在意義がほしかった。自分がここにいていいという証明を。なればこそ、命をかけてでも役目を果たす必要がある。そのために、ここにいるのだから。


 かくして、戦いは始まった。

 最初にドラゴンが尾を振るう。途端に地面に亀裂が走る。衝撃波が真白のいる位置まで届いた。彼はとっさに後ろへ下がる。なんとか攻撃を回避したけれど、そこに叩き込むように、一撃がやってくる。とっさに剣で受け止める。淡いスチールブルーの刃が、尾を弾く。


 そして今度は、真白が仕掛ける番だった。彼は相手の体の上を走って、頭の上まで飛び上がる。そして、そこを足場にして、上から一撃を叩き込もうとする。刀を構えて、振り下ろす。日本刀の扱いに慣れているわけではないけれど、これでうまくはいくのではないか。


 実際にドラゴンの皮膚から鮮やかな血が飛び散った。鱗はくすんでいるのに血だけ妙に鮮やかで、目につく。


 なにはともあれ、やったと思った。しかれども、まだ動く。元より、傷は浅かった。そのつけたはずの傷もあっという間に再生する。これは、いったい。真白は眉をひそめた。警戒心を解かずに着地をして、距離を取る。


 やはり、いままでの相手とは違うと感じた。斬りつければ全てが終わるというわけではない。今回の相手は圧倒的な再生力と攻撃力を有している。警戒しつつ、少しずつ戦わなければならない。かといって、防戦一方になってはジリ貧だ。いくら自分が闇を払う能力を持っているとはいえ、火力によって叩き潰されては、意味がない。


 真白がそのような考察を脳内で練っていると、不意に炎が視界に飛び込む。ドラゴンの口から放たれた炎の魔法は、まっすぐに真白を狙う。火炎放射器など目にもならない。火災の現場を切り取って、そのまま持ってきたような雰囲気だ。バチバチとした火花が目に痛い。


 また、回避したところで、間に合わない。あっという間に炎に囲まれた。熱気が渦を巻く。見事に閉じ込められたといったところだろうか。見上げようとすると、炎が高層ビルのように広がって、壁を作る。


 ならば、仕方あるまい。

 真白は剣を振るう。見えない場所に水が発生して、炎を払う。あっという間に鎮火。あたりを霧が包む。水蒸気にムワッとする。これでは敵の居場所も把握できない。完全にしてやられたといった感じか。このままでは、一方的にフルボッコにされてしまう。そんな悪寒が体全体を貫いた。


 不利なのに変わりはない。なんとしてでも対策を練らなければならない。それなのに、どうしようもないのが現実だ。そこへ、気配を感じた。第六感が後ろを取られたと感じていた。だが、間に合わない。振り向くと、目の前に爪が迫っていた。まさに、顔を切り裂く直前ではないか。眼前――一ミリにも満たない距離に、刃がある。


 途端に総毛立つ。全ての光景がスローモーションに見える。切り裂かれる――たったそれだけの出来事がありえないくらいに引き伸ばされる。目を大きく見開く前に、痛みに備えるように目をつぶる。せめてもの抵抗をしなかった。このまま終わらせるわけにはいかない。だから、腕を動かそうとする。だが、遅い。


 時が再生される。刃は爪を抑えられず、かといって、爪は真白を切り裂くことはなかった。なぜなら、彼の体にラップのように薄い幕が出現したからだ。


「これは?」


 目を丸くして、立ち尽くす。

 実際のところ、真白はやられたと思った。絶対に助からないし、顔はおろか全身を真っ二つに裂かれると踏んでいた。今、こうして五体満足でいられることが不思議でならない。幸運や奇跡というよりかは、なにか、イリュージョンを見せられているような気分だった。


『私です』


 不意に脳内で女性の声がこだまする。

 彼女は妖精だ。いままでずっと、真白のそばについてきた者でもある。今回も、戦ってくれるのだろうか。自分を見捨てないでくれるのだろうか。

 そんな不安にさいなまれながら、真白は口をきく。


「なにか、いい方法ってありますか? 戦術とか?」

『あなたは素人です。能力を利用して戦うだけでは不可能でしょう。中には武力で全てを解決した者もいますが、あなたはそれではない』


 褒められているのかけなされているのか、分からない。

 純粋なゴリ押しのみで獣に打ち勝った者がいるとは言っているけれど、それはいったい、誰なのだろうか。いままでもずっと魔王と勇者の物語は繰り返されて、そのうちの何名かが虹色の獣と相対したというところだろうか。時間を考えると、三〇〇〇年前――ちょうど、先代の勇者ではないか。現在の神でもある。一瞬、驚いたし信じられなかったけれど、彼は神をも打倒したのだから、無理もないだろう。そこに

魔王の強力も加われば、恐ろしいことになる。


「どうやって倒したんですか?」

『ゴリ押しです。力のみで圧倒しました』


 でしょうねと、心の中でつぶやく。


 だが、真白は勇者ではない。自分の元の体の持ち主とは違って、圧倒的な能力を有しているわけではない。せいぜい、人間の中では強い程度だ。とてもではないが、小細工抜きの真剣勝負で虹色の獣を打ち倒せる気がしない。ならば、対策が必要だ。なにか、ヒントとなるようなものは転がっていないだろうか。たとえば、弱点――そう言いかけて、ハッとする。その弱点自体が、自分ではないか。炎には水だ。闇の属性を併せ持つ相手には、浄化の力も効く。すると、これは、誰にも頼れないという状況を暗示しているのではないだろうか。


 希望から絶望に変わりそうになる。すでに残りの対策が使い切られた後だとすると、もはや普通に戦う以外の方法はない。いっちあ、どうすればいいのだろうか。目の前が真っ暗になったとき、脳内で落ち着いた女性の声が響いた。


『この獣の特徴は体力が多く、防御力が高いことです。何度攻撃を受けても立ち上がってきます。硬い鱗はいかなる攻撃をも弾く。たとえ世界を破滅に至らせる爆弾を投下しても、この獣だけは生き残れるのです』

「そんな相手にどうやって傷をつけろって言うんですか?」

『傷ならもうつけているではありませんか?』


 当たり前のようにつぶやかれて、こちらのほうが驚く。

『なぜそのようなことを聞く必要があるのですか?』と言いたげだが、そんなものはこちらにとっては意味が分からないだけだ。

 自分が傷をつけた。なにを言っているのだろうか。現にドラゴンは無傷だ。傷を受けても再生するのだから――再生。

 そこまで考えて、ようやく気づく。そうだ、すでに傷は再生した。裏を返すと、真白はドラゴンに傷をつけられた存在ということになる。つまり、有効打はあった。まだまだ、戦えている。そんなポジティブでエネルギーに満ちた感覚が、体の底からあふれ出してきた。


「でも、現に倒せずにいるのは事実ですよね」


 不意に頭が覚める。

 心が冷えて、冷静になる。

 そうだ。いくら攻撃が効くといっても、ダメージにならなければ意味がない。ゲームに例えるのなら、HPと防御力がうんざりするほど高くて、おまけに強い再生力を持っているという感じか。ならば、どうしようもない。勝てる気がしない相手だ。否、逆に考えると、魔法防御力を持っていないのなら、魔法が通じる隙はあるのではないか。


 真白は顎に指をそえて考えて答えを出すなり、いきなり攻撃を仕掛ける。剣を振るって、水を出す。剣戟のかわりに水の刃で相手を切り裂こうとする。ドラゴンは避けなかった。いや、回避できなかったともいえる。とにかく攻撃の切れは凄まじく、スピードも相当なものがあった。


 傷が生まれる。肩の部分に赤いラインが走る。

 傷が再生されない。今も残っている。それはいつまでたっても消えない。ならば、つまり、通用するということではないだろうか。

 ほのかに希望が湧く。そうだ、これならいける。物理攻撃がダメなら、遠距離からチマチマ魔法を放てばいい話だ。思えば、簡単なことだった。全てのモンスターに弱点と有効な攻撃があるのだから、相手にもそれと似たようなものがあって、しかるべきだった。

 そんな真白のテンションに水を差すように、妖精が語る。


『ですが、これではいつまでたっても倒せません。相手の体力をみくびってはなりません。そんなことをしている間に、闇が世界を覆い尽くします。勝てないと分かるや、相手はにげますよ。尻尾を巻いて』

「なら、どうすればいいんですか?」


 わずかに首をかたむけて、尋ねる。

 有効打があっても、ちびちび削るだけでは意味がない。逃げられてしまう。戦闘力を持っているのなら最後まで付き合ってほしいと願ってしまうが、相手にも事情があるのだろう。つくづく厄介な問題だ。もっとも、倒しきれないこちらにも問題はある。自分の生命を脅かすような相手でない限り、戦っても無駄なのだ。つまり、もしも相手に背を向けられた場合、真白は戦うに値しない相手と烙印を押されたことになる。それはそれで、困る。なんというか、屈辱だ。


『急所を貫きなさい。一撃で粉砕する必要がありますが、その刃と水の魔法なら、可能でしょう』


 妖精に言われて、自身の持つ剣に視線を送る。淡いスチールブルーは沈みゆく太陽の光を反射して、鋭い輝きを放つ。おまえに金属は水と相性がいいと効く。なんでも水を清らかにして、魔力を高めてくれるとか。


 今の自分なら、いける。

 きっと、虹色の獣にも届くはずだ。


 そこへ咆哮が轟く。ドラゴンが威嚇をするように、大きな声を上げる。人語ではない。ただの叫び声。なにを言っているのか分からない。もしくは、なんの意味もなさないのかもしれない。だが、その叫び一つで全身の体力や気力を持っていかれたような気もする。


 あくまで、気がするだけだ。萎えたわけではないし、心が折れたわけでもない。まだまだ、これからだ。


 さすがに世界を滅ぼすだけあって、強い。


 威圧感があって、呑まれそうになる。

 だが、いける。根拠はないが、そう思った。

 いけてもいけなくても、やるしかない。できるではない。やるのだ。そうでなければ、世界を救えない。自分の力で大地に立ち、物事を成し遂げたことにはならない。

 真白は瞳に鋭い輝きを宿し、相手を見澄ました。

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