第4話

 だが、本当に大丈夫だろうか。いくら時を巻き戻せると分かっていても、即座に使えるほど、真白は勇気を持っているわけではない。むしろ、警戒しすぎて、いつまでたっても実行に移せないだろう。

 本当に、水晶を使えばなにかが変わるのか。世界を救えるのだろうか。そんな考えばかりが頭を満たす。こんがらがってきた。モヤモヤとした霧におおわれた脳では、正常な判断すらつかないだろう。途端に頭を抱えたくなる。なんでたって、自分がこのような事態に巻き込まれなければならないのだろうか。いささか理不尽ではあるものの、当たり散らすという発想はない。誰かを恨んだところで仕方がないし、その相手がいないことくらい、自分でも分かっていた。


 とにもかくにも、下手に動けない今、なにをすればいいのかさっぱり分からない。やはり、同じ位置にとどまり続けるべきだろうか。否、水晶の効果さえ発揮してしまえば、それも関係なくなる。

 うーんとうなりそうになったとき、不意に周囲の景色が一変する。真白はある部屋の一室にいた。真っ先に視界に飛び込んだのは、光だ。妙にまぶしい。先ほどまで世界をおおっていた闇は晴れて、今は平穏を取り戻している。かわりに退廃的な雰囲気だけがいまだに残っている。まるで、廃墟にでも足を踏み入れたような気分だ。


 ゆっくりと周囲を見渡す。グレイッシュな壁に無機質な照明。家具はない。ストーブはつけっぱなしだ。てきとうに消しておく。床を踏むときしんだ音が鳴る。廊下は冷え冷えとしていて、吐く息が白くなる。音はしない。生活感のかけらもなく、雑誌すら近くには置いていない。ゴミも皆無であるため、実に清潔な空気が漂っていた。

 廊下を抜けて、玄関から外へ出る。外は凍てつくような寒気に包まれていて、空気に触れるだけで肌が真っ赤に染まった。

 長靴にはきかえて、町を歩く。懐かしい雰囲気のする町だった。何度も通って、何度も人とすれ違った道。

 行き交う人々の並は、都会と比べると少ない。むしろ、自動車のほうが多いくらいだ。ぐるっと家の前を通る道を歩いて、川に架かった橋を渡る。国道に差し掛かったところで、足を止める。三角屋根の建物と縦向きに設置された信号機を確認して、白い息を吐く。

 真白はこの町を知っていた。この町はずばり、故郷だ。生まれ育った場所。本来は自分を封印した結晶を隠していたところなのだろう。国道の歩道をまっすぐに歩いて、開けた場所にやってくる。自動販売機の前で足を止めたけれど、あいにくと、買うものはない。

 途方に暮れる。

 どうしたわけか、滅んだはずの町が当然のように目の前にあって、自分はその町を歩いている。これはいったい、どういうことなのか。いったい、なにが起きたというのだろうか。

 わけが分からないまま首をひねりそうになったとき、不意に手のひらに握りしめた水晶が、熱い輝きを放つ。


『再構築が完了した模様です。リセットするのなら今しかありません』


 その声は、凛とした少女のものだった。

 一瞬、それが水晶から発せられているものだとは分からず、周囲を確認する。しかしながら、周りに人は行き交わない。目の前にある大きな建物の窓越しに時計を確認すると、午前九時のようだ。学生ならすでに学校で授業を受けているころだろう。当然、通学路に彼らは現れない。


『私です』

「君は?」


 眉をひそめて問うてみる。

 本当に水晶が語りかけてきているのかに関しては、半信半疑だ。


『世界は破滅しました。代わりに現れた世界がこの町と、あの島。お分かりでしょうか?』

「ごめん。全然分からない」


 頭をかきながら、本音を言う。


『でしょうね。地図をごらんになれば分かると思います』


 無機質な声につられるような形で、建物の壁に張り出された地図に注目する。確かにそこには深い闇が広がっていた。その中でポツンと表示されているのは二つの島だった。

 やれやれと、真白は大きく息をつく。

 つまり、どういうことなのか。余計に頭が混乱する。


『つまり、あらかじめ王権を使って彼が滅んだ場所を修復しました。それによって、人々は人形として大地に根を下ろした。そして、世界は滅んでも一度修復した部分はそのまま。だから世界が闇に落ちた今、その修復された部分だけが浮き上がっているのです』


 滅ぼされたということは、やはり世界は闇に包まれたままということ。今の真白は故郷に転送されたといったところだろうか。いったい誰の力によるものかは定かではないが、おおかた、涅の仕業だろう。彼が真白の心を乱させるために、最後に故郷を見せようとしたのだ。


『ああ、転送自体は私が行いました』

「君ですか。そんなこと、できるんですか? ただの水晶なのに」

『私は、妖精ですよ』

「妖精?」


 あっさりと、当たり前のように口にされて、驚く。

 実際のところ、そのようなことを口にされても、反応に困る。バリバリのファンタジーの世界ならともかくとして、この世界は表面上だけなら現代に似ている。妖精なんて存在しないと思っていたし、なにより、似合わない。


『私は妖精。それは間違いありません。そして、神によって水晶の中に封印され、あなたのサポートを行うべく、派遣された存在でもあります』

「じゃあ、分からないことがあったら、君に聞けばよかったのか」

『そうなります』


 一人で納得したようにつぶやくと、淡々とした言葉が返ってくる。


『正直、面倒なんですよ。私も早く帰って、バラエティ番組を見たり、せんべいをかじりたいんです。なんでったって、こんな役立たずのサポートをしなければならないのでしょう』

「は、はい?」

『あなたがもっと自分で考えて行動できる人だったらよかったのに、いつまでたっても優柔不断。これではいけません。もっと矯正するべきでした』

「えーと、その……」


 つまり、自分が悪いのだろうか。

 真白は眉をハの字に曲げる。

 すると水晶の中の妖精はコホンと咳払いをすると、話を軌道修正する。


『失礼。その、あなたは今、自分のやるべきことがなにか、把握していますか?』

「僕はきちんと、世界を元に戻さないと、いけないんですよね?」

『はい。そのためにあなたを呼び出しました』


 実際に相手からそのような答えが返ってくると、緊張してしまう。自分のこの手に世界の命運がかかっていると思うと、失敗は許されない。なんとしてでも、元の世界に戻す必要がある。

 その前に一度、情報を整理しておきたい。


 まず、水晶に入っているのは妖精だ。彼女は真白のサポートをするために、神に派遣された存在でもある。また、真白の役割は世界の破滅を防ぐことだ。そのために、何度でも再挑戦できる機能を備え付けられている。ただし、使用回数に限りがある。その回数は残り一回。つまり、もう二度と、失敗は許されない。

 そして、今いるこの世界は作り物だ。本物の世界は闇に沈んでいる。町は修復されたものの、失われた命は戻ってこない。今自動車に乗って国道を走っている者たちは全て、人形だ。例えるのなら、ゲームのNPCだろうか。


『念のために尋ねます。本当に、水晶を起動してもよろしいですか?』

「と、いうと?」

『リスクがあります』

「リスク? 水晶を使うのに、ですよね」


 涅の言葉が頭をよぎる。

 彼は自分が記憶を失った理由を探れと、端的に言っていたような気がする。つまり、水晶を扱う上のリスクとは――

 だが、それは自分の口からは確認したくはない。

 なぜなら、真白にとっては過去であろうが現在であろうが、思い出は思い出のままにとっておきたい主義だ。全てをリセットする力を所持していて難だが、全てをなかったことにはしたくはない。だが、大切なものを取り戻すためには、なにかを犠牲にする必要がある。だから、真白は――


『あなたは、記憶を失う必要があります』


 実際に、彼女の口から静かな言葉が漏れたとき、体からすーっと力が抜けた。

 心を覆ったのは圧倒的な絶望感だ。

 分かっていた。なんとなく、読めていた。察せないほうがおかしい。だけど、心が追いつかない。頭では理解していても、本当は違うのではないかと。そんな可能性に望みをかけたかった。

 だが、現実はまってくれない。水晶の中の妖精も、残酷な真実を、否定してくれなかった。


『記憶には種類があります。前回は失いたかった記憶。では今回は……』

「なんですか?」


 失う記憶にも、種類がある。

 ならば、大切な記憶はそのままに、どうでもいい些細な出来事を捨てることも、可能ではないだろうか。

 心に希望があふれてくる。これなら、決断できそうだ。

 ところが、妖精は淡々と、真実を口にする。


『あなたが、失いたくなかった記憶です』


 途端に地獄の淵にたたきつけられたような感覚になる。

 そりゃあ、甘くはないと分かっていた。一瞬でも希望を見た自分がバカだということも。

 それでも、少しは期待してしまう。もうなにも、失わなくてもいいのだと、思ったこともある。しかし、そんな都合のいいことがあってたまるかという話だ。だが、それでも、このような結末は望んでいなかった。


『真に大切にしている記憶。それは、彼女――花咲彩葉の存在そのもの。そして、彼女と一緒に過ごした日々・思い出――そうですね?』


 心が重たい。

 背筋に戦慄が走る。

 自分の言葉一つで全てが変わってしまう。ガラリと、大切なものが音を立てて崩れてしまう。それだけは避けたくて、時間稼ぎをしたくて、なにもかもが怖くて仕方がなくて、真白は答えを繰り出せなかった。

 死刑執行のカウントを進めるかのように、時計の秒針が大きな音を鳴らす。

 刻一刻と、約束の時が迫ってきているかのようだ。

 真白はツバを飲み込む。

 追い詰められたような心境の中で、抜け道を探す。

 そんなものはありはしない。運命は最初から決まっていた。心に宿った希望を打ち消すように口の中でつぶやくと、今度こそ彼は口を開く。


「待ってください。少し、時間をください」


 あと少し、心の整理をする時間がほしかった。

 それで全てがあきらめられるとは思っていない。本当はただ、逃げたいだけだ。なにもかもを忘れて、自分の使命すら、なかったことにしたい。自分もNPCと一緒になにも考えず、人形のような生活を送る。それはそれで、ありかもしれない。彼にとって世界とは故郷一つ。自分にとってはそれだけが全てのようで、ただ、それでも、関わってきた者たちのことは頭に浮かぶ。

 彼らが過ごした世界は美しかったのだろうか。自分は美学というのが理解ができない。空っぽで真っ白な少年にとっては、どの環境もひとしく平等だ。それでも、失いたくないものがあるのは確かで、どうしても優先順位がついてしまう。


 そうした中、不意に足音が迫る。

 一瞬、誰かに追われているのかと警戒する。涅が直接現れたのかとも。

 ゆっくりと顔を上げた。

 短くて淡い息遣いが前のほうからやってくる。

 淡く雪の降り積もった道路に、一人の少年が立っていた。どこにでもいそうな平凡な外見。だけど確かに、真白は彼に見覚えがあった。その気の強そうな顔立ちは、以前に公園で出会った少年そのものだった。


「こんなところでなにをしてるんだ?」

「いえ、こちらのセリフなんですけど。学校はどうしたんですか?」


 がんをつけるように睨みつけてきた少年に向かって、真白は真顔で答えた。

 実際、小学生なら学校で授業を受けているべき時間帯だ。おまけにこの薄暗い中、外で遊ぶにしても気が滅入りそうな環境である。この少年はいったい、外でなにをしているのだろうか。


「まず、お前が答えろよ」

「仕方ないですね」


 ため息をつく。

 ここで逃げるのも大人げない。真白は素直に真実を打ち明けた。無論、全てというわけではない。ただ、なんとなく、自分の今の気持ちを打ち明けたくて仕方がなくなる。誰かに聞いてほしくて、同情してほしくて、アドバイスは求めてはいなかったけれど、なんとなく、心の中身を吐き出したくてたまらなかった。


 記憶を失えば、いままでの自分が否定されたような気になってしまう。いままでの経験すらなかったことになって、また違う自分になってしまうのではないだろうか。なにより、彼は花咲彩葉を忘れたくなかった。真白にとって彼女はアイデンティティにひとしい存在だ。いままでも彼女のためにいろいろなことに挑戦してきた。彼女との関係が消えてしまえば、自分が自分でなくなってしまう。なんのために行動をすればいいのか、分からない。だから、恐れるのだ。積み上げてきたものが消えてしまうことを。


「花咲彩葉は戻りません。きっと、そして僕も彼女を忘れなければならない。でも、今の僕があるのは顔所のおかげです。それなのに……」


 鬱々とした語りに対して、少年は真顔だった。

 つまらないというべきか、興味が薄いというべきか。ただ、その釣り上がった眉と眉間に刻まれたシワからは、明らかな怒りと嫌悪感が浮かんでいた。


「つまりお前ってさ、自分に自信がないってか?」

「そうなるんじゃ、ないですかね」


 真白は自分の心の内側すら読めない人種だ。彼にとって自分とは他人にひとしい。自分の思考すら読み取れないため、図星を突かれたつもりになっても、実際はよく分からないのが現状だ。


「ああ、うるっせぇな。俺なんかさ、あんな大女優と仲良くなったことなんざ、一度もないんだよ。それなのにお前はそんな恵まれた環境にいながら鬱々と。なに考えてんだ?」

「だからこそじゃないですか? 僕は彼女との思い出を、忘れたくはないんです」

「それが鬱陶しいっつってんだ。お前さ、俺に対してない惚気てんだ? リア充か? 俺がコミュ障で根暗だってこと、知った上で話してんじゃないだろうな」


 少年の怒気のこもった発言を聞いて、ようやく合点がいく。確かに、今の真白はのろけていたような気がする。花咲彩葉との思い出が大切で手放したくなかったから、相手の気持ちも考えずに、ペラペラと語ってしまったのだ。


「言っとくけど、花咲彩葉はお前のもんじゃない。俺の……全員のものだ。それを忘れるんじゃないぞ」


 指をさされる。

 彼は本当なら自分だけのものと言いたかったのだろう。だが、そこを遠慮して、全員のものとした。まあ、確かに独占するのはよくない。元より真白では、大女優の隣に立つのにふさわしくない。元より彼らは、本来であれば交わるはずのない存在だった。それが、組織の任務という名目で大女優本人が近づいてきた。そこから全てが始まった。ただ、それだけのことだ。


「離れ離れになったくれぇで、なにへこんでんだよ。お前が全てを忘れたところで、俺は忘れないんだ。あいつはな、いなかったことになんか、ならないんだ。それを分かってんのか? ああ? どうせ痛みから逃れちまえば、全てなくなるだけだ。ぽっかりと胸に穴が空く感じがつらいのは分かる。だが、痛まなければ後はなんの問題もない。全てを忘れちまえば、終わりだ。分かるだろ?」


 それでも、逃げてはならないと、真白は思う。

 だからこそ、決断をくださなければならないのだと。

 そして、その逃げない選択というのは、自分のやるべきこと。神にたくされたミッションをこなして、世界を取り戻すことだ。

 だが、本当に、やりたいのだろうか。自分が、ただの人間にもなりきれなかった自分が、この世界を救いたいと、思っているのだろうか。


 勇者を目指していたころの自分なら、『はい』と答えるかもしれない。世界を救えば勇者らしくもなるだろう。だから嬉々として、ノリノリで悪を滅ぼす。世間からは英雄として祭り上げられて、町には銅像が立つ。それに憧れていた。

 だけど、今は目指さない。自分は英雄ではないと知っているから。そんなものになってはならないと、分かっているから。自分は自分らしく、あればいい。だけど、その自分というものがつかめない。自分は、真白は、いったい、どのような人間なのだろうか。


「で、お前はいったいなんなんだ? 言え。言ってみろよ。いったい、なにがしたいんだ?」


 睨むような視線を前方から感じる。

 この歳が二桁くらいは離れていそうな少年から説教を食らう。なんとも、シュールな光景だ。少しだけ笑ってしまいたくはあるけれど、にらまれそうだったので、やめておく。


「そうだな……僕はいままで彼女のためだけに生きてきた。その行動理念はずっと、彼女だけ」


 自分がなかった。

 自分という意思がなかった。

 だから、失敗したのだろう。

 だから、勇者にはなれなかった。


 ならば、なにをしたいのか。自分という存在を模索している今、なにをするのが正しいのか。

 本当にやりたいことが分からない。自分の望みが分からない。

 勇者になる気がないのなら、世界を救う義理もない。真白は巻き込まれただけだ。役目を放棄すれば、神はまた新たな使者を送り込むだろう。そして、役立たずは世界から消える。


 そのおり、ふと頭をよぎったのは、いままで関わってきた人々の顔だった。彼らはもう、今の世界にはいない。とっくの昔に闇に飲まれて、無と化したのだろう。

 彼らとこの世界を天秤にかけるわけではない。だけどきっと、この修復された世界は生きてはいないのだろう。本物は、あちらだ。こちらはただ細かく似せただけど、偽物にすぎない。


 この世界には愛が満ちていると、聖女は言った。

 本当に、そうだろうか。それで、世界を救う価値があるのだろうか。

 でも、やはり、未練が残る。

 鎧塚の件にしてもそうだが、もっとたくさんの人を救えたらよかった。自分の手で、捨てられるはずの命を拾い集めることができたら、なんて幸福だったのだろう。最初から勇者としての能力を備わっていたら、それはそれで、よかった。実に充実した日々を送れただろう。


 その未練の正体――無念は、もう二度と、自分の足で世界に足をつけたとは言えないことか。この白い世界は自分の故郷。だけど、その先へ進んだことはなかった。まだまだ世界は広かった。そこで暮らす者たちだって、たくさんいる。いい人に出会えたかもしれない。そんな可能性は、今はない。今はわずかな広がりすら、うかがえない。


 そうだ、自分はまだ、なにも成し遂げてはいないのだ。自分の足で立ってすらいない。いままでもこれからも、現在も、誰かに依存するように生きてきた。誰かがいなければ、生きていけない。


 本当にやりたいことはなんなのだろう。

 その答えは出ない。

 それでも、心に浮かんだ未練があるのなら、その拾い損ねたものを回収する機会があるのなら――


「僕が全てを忘れても、確かに彼女はここにいた。存在した。そうだね? そう、なんですよね?」


 瞳が揺らぐ。

 花咲彩葉という女優はすでにこの世にはいない。ただ、それだけが事実。舞台に立ち、テレビの中で役者を演じていたのは、緋色の女。彼女が聖辺花純を演じていただけに過ぎない。本物の彼女は元から存在しない。架空の人物。それでも、いたのだ。きちんと。そんな不確かな彼女に、自分はなにを思ったのか。

 なんでもいい。なんでも、でも確かなものだけはあるのだ。

 ああ、そうだ。花咲彩葉はここにいた。その存在は決して揺るがない。たとえ全てをなくしても、過去がなかったことにはならない。きちんと胸の中に残り続ける。そしてその死をいつまでも引きずる羽目になるのだろう。自分が、演劇を嫌ったことと同じように。過去にある忘れた記憶。舞台の上で倒された勇者。その光景がふたたびよぎっった。ならば、いいかと思えた。彼女の残した爪痕が、胸に刻まれたまま、離れないのなら。自分の、やり残したことを、拾い上げるチャンスを得たのなら。


 真白は今一度、水晶を強く握りしめた。


「僕、行きます。もう二度と、こちらには戻ってこれないだろうけど。それでも、やらなければならないことがある。だから――」


 言いづらかった。

 彼らを、一度失われたものに背を向けるなんて。それこそ、苦渋の選択だった。

 それでも、少年は笑顔で、言ってくれた。


「おう、頑張れよ」


 拳をギュッと上へ持ち上げて、晴れやかな顔をする。

 それを見て、いささか胸が痛んだ。

 本当に、いいのかと。

 一度下した決断に背くことはできない。たとえ神に逆らったとしても、自分の意思だけには――


 そうした中、唐突に少年の唇が動く。


「俺さ、知ってたんだよ」

「なにをですか?」

「俺たち、もう終わった存在だってこと」


 それは、衝撃の告白だった。


「死んでるんだろ? 滅びたんだろ? 俺たちは人間の振りをしているだけで、実際はただの人形だって、分かってたんだよ。この魂だって空っぽだ。それっぽい言動を繰り返しているだけに過ぎないんだよ」


 ありえないと思っていた。彼らがそれを知っているなんて。

 自分だけが知っていればいいと思っていた。

 そうでなければ、それはあまりにも残酷で。


 そんな運命をこの小さな少年に背負わせるなんて、なんとも酷な話だ。

 それでも、切り捨てざるをえなかった。なにもかもを拾い上げるために、彼らだけを救うことなんて、不可能だ。この傷は真白に永遠に残り続ける。甘い幸福など存在しない。夢はいつかは冷めてしまう。だから、もう、終わりにするのだ。


「行ってくれ」


 背中を押すよに、少年は叫んだ。


「俺たちは停滞しているだけだ。でも、お前には多分、続きがあるんだろ? 未来があるんだろ? だったら、掴んでくれよ。俺たちの分まで、俺が成し遂げられなかった分まで。そうじゃないと、救われないんdな。報われないんだ。俺じゃない。俺の本体が。死んだはずの魂が」


 泣き叫ぶように彼は言う。

 それはもはや慟哭だった。

 決して救われない。置いていかれた命の叫び。だから確かにその意思は本物だ。皮ではない。確かに、本当の心が、悲痛な叫びを上げていた。


 だから、だったら、行かなければ。その思いに答えなければ。

 突き動かされるように、走り出した。

 ポツンと取り残された少年に背中を向ける。

 地面を蹴る。

 苦くて酸っぱい思いを噛みしめるように、下を向く。

 ただひたすらに腕を降って、雪に濡れた大地を駆け続けた。


 頭に浮かんだのは、過去の記憶。

 この頭に刻まれるはずのなかった、何度も繰り返した日々の話。


「お前、出てけよ」


 トゲのある声を背中で聞いて、振り向く。曇り空の下、濃い灰色をした道路に、まだ背丈の低い子どもが立っていた。彼の表情は険しくて、眉をつり上げて、大きな瞳でこちらを睨みつけている。しかしながら、真白には心当たりはない。なぜ、この少年は怒りを表に出しているのだろうか。


「なあ、お前、お前だよ。花咲彩葉に近寄って、なにがしたいんだ。なにを考えてるんだ。あの人から離れろよ。あの人はな、お前ごときが側にいていい存在じゃないんだ」


 それを聞いて、「あー」と納得する。要するに、目の前にいる彼は嫉妬をしているのだ。心の底から面倒な案件ではあるものの、相手を一方的に否定する気にはなれない。


「まあ、僕も悪いところがあるのは自覚しています。でも、行く宛がないのも事実です」

「だったら死ねよ。のたれ死んじまえ」

「いや、そんな言葉を吐いていい年頃とは思えませんけど」

「いいんだよ。年なんか関係あるか。俺はお前が気に食わねぇだけなんだ」


 参ったなと、真白は視線をそらして、頬をかく。


「別にそれで気が済むのなら言葉で殴ってくるなり、なんでも構いませんよ。僕は別に、自分が嫉妬しっとされないなんてこと、考えてませんし。彼女に拾われたのは運がよかっただけとはいえ、幸運でした。だから、離れる気はありません」

「ふざけんなよ。俺はな、お前らみたいな苦労もせずに幸せを勝ち取れる人間が、大嫌いなんだ」

「だから、どのような言葉もかけていいと言いたいんですか?」


 真白が冷静に問いを投げると、急に少年は黙り込む。


「うぜぇよ、どっか行けって言ってんのが分からねぇのか」

「ああ、はい。別にここからは離れる予定ですけど、生憎と、僕は一人では生きていけそうにないので」


 不満げな目で見上げてくる子どもに対して、青年は淡々とした言葉を返す。彼としては、目の前にいる者から嫌われようが知ったことではなかった。誰に好かれようと嫌われようが、興味がない。人助け自体もそれが正しいと分かっているからしているのであって、そこに善意は存在しなかった。


「どうしたの?」


 不意に甘い声が鼓膜こまくを揺らす。

 とっさに振り向くと、建物の影から彩葉が顔を出していた。


「なにやらうるさかったみたいだけど」

「ああ、それは……この子どもか」


 体を彼女に向けたまま、前方を指す。


「いないけど」

「え?」

「子どもはどこにいるの?」


 相手が首をかしげたため、こちらも慌てて振り返る。そこには確かに子どもの影はなかった。今は濃い灰色の道路が延々に伸びているだけだ。


「でも、トラブルがあったことは分かるわ。なにか困ったことがあったら、言って。肩代わりしてあげるから」

「いや、その心配はないよ」


 晴れやかな顔で告げる少女の言葉を、曖昧な態度で振り払う。今回に関しては自分だけの問題だ。彼女は関係ない。余計な心配もかけたくないし、なにより自分は悪意を向けられても平気でいられる。だから、彼は平然と彼女と別れてから、先ほどの少年を探しにいく。


 ぐるりと大陸を半周するような形で道路を歩くと、そこそこの時間で北にたどり着く。そして、広場にたどり着いたころ、なにやら子どもたちの高い声が響いてくる。


 開けた空間、人通りの少ない場所で、一人の少年が弱々しい子どもを蹴っていた。相手はなんの抵抗もできないまま、されるがままになっている。明らかないじめだ。もしも彩葉が同じ場面に出くわせば、迷いなく助けるだろう。しかしながら、真白は余計なことを考えてしまって、体が動かない。だが、結果的に助けに入る必要はなかった。なぜなら、途中でいじめっ子本人が振り向いて、硬直したからだ。その隙すきを突いて、いじめられっ子が立ち上がって、逃げていく。


「なんだよお前、なにしにきたんだ?」


 目をするどく尖らせて、睨む。本人としては、怖い顔をしているつもりなのだろうが、所詮は子どもだ。真白には通用せず、どちらかというとかわいらしくさえ思える顔だった。


「別に。ただ、君の行動は正しくはないだろうと思っただけです」

「は? お前もそう思うのか? 正しくないって。俺だけが間違ってるってか?」

「え、あの、『お前も』と言われても、当然としか言えません。だって、君のやっていることっていじめですよね。明らかにそちらに非があるとしか」

「ふざけんなよ。いじめられるほうが悪いに決まってんじゃねぇか」


 ダメだこれ、と真白は内心でため息をつく。


「あいつら、なんの苦労もせずにテストでいい点数取ったんだ。学校じゃモテモテ。反対に俺は劣等生だぜ。なんもできやしない。なあ、こんな待遇の違い、あるか? 人気なあいつと違って、俺は一人なんだ。しかも、あのフローラと仲良くって、いじめから助けてもらってばかり。結局、あいつは一人じゃなんもできないだ。それなのに、俺ばかったりが悪者扱い。誰もこっちの視点には立ってくれない。納得できねぇよ。ああ、そうだ。復讐しちまいたいくらいだ」


 声音から明確な憎悪がにじむ。このままいけば、未来の彼は立派な魔王だ。おめでとう、などと言うつもりはない。


 だが、確かに一理ある。真白は冷静に顎に指をそえて、考え込む。いくらいじめが悪だといっても、彼は目の前にいる子どもを軽蔑する気にはなれない。彼にも彼なりの事情があるのだろう。よほど、悪い環境にいたのか、このような性格になった境遇が不幸だったのか。いずれにせよ、まだまだやり直す機会はある。なんせ、相手はまだ子どもだ。


「気持ちは分かります。僕は平凡ですから。優れている。しかも天才で、努力とは無縁な人を恨む気持ちは分かります」

「なに言ってんだ。お前なんか、フローラと付き合ってんだろ? そんなやつが平凡であってたまるか。嘘つくんじゃねぇよ」

「まあ、本当に嘘ですけどね」

「あ? なんだと?」


 相手に眉間がシワを寄せる。


「はい。僕、他人を恨む気持ちなんて持ってないので」


 平然と、素面のままに言ってのけた。


「なんだ。なに、言ってんだ。他人を恨まねぇ。そんな人間がいるのか」

「はい。なので、僕は他人に復讐をする気持ちというのが分かりません。そもそも、遂行して得られるものなんてなにもないのに、なぜ人はそれを実行に移すんですかね」


 素のままに、純粋に疑問を口にする。


「でも、僕はたいへん恵まれた環境にいます。なにもしなくても生きていけるなんて、これほどの幸福はありませんよね。だから、憎まれてもおかしくないんです。それで殺されたとしても、文句は言えません」

「なんだよそれ、おかしいだろ。なんで自分のことを、そんな風に言えるんだろ。んなの、理不尽じゃねぇか。なんも悪いことをしてねぇのに殺されるとか、それでお前は平気な顔で他人を許せるのかよ」

「許せるんじゃないですかね。正直、僕は自分のことなんてどうでもいいんです」


 真白はただひたすらに、周りに――いや、自分のことにすら無関心だった。だから、なにをされても落ち着いていられる。たとえ、どれほどバカにされたとしても、プライドを傷つけられたとしても流せる。なにしろ、彼には守るだけのプライドが皆無だった。


「やっぱり、君は根はまともだ」


 ただの感想を口にしてみる。


「なんでだよ。俺が、まともだと? おかしいって。そんなわけねぇ。だって俺は、俺は」

「ほら、自分が悪いと自覚しているじゃないですか。本当は自分の中でも、これはいけないって理解してるんじゃないですか。だから君は、悪い子じゃないんです。悪いのは感情を現し方であって、君の心じゃない」

「擁護するのか。この俺を」

「さあ。いじめられっ子にとってはたまったもんじゃないでしょうし、露骨にやるのは避けますよ」


 目の前で、子どもが何度か瞬きを繰り返す。


「君が苦労をしてきたのは分かります。花咲彩葉に想いを寄せているのも。だからといって、ただ憎んでいるだけでは状況は変わらない。僕も動く気はありません。だから、こういうときは自分で前に進むしかないんでしょうね。他人に当たり散らすのではなくて、自分が変わるところから始めないと、いけないでしょう」


 説教をするつもりはないけれど、ただ自分の中で情報や気持ちを整理するつもりで、口に出してみる。


「とりあえず、僕と仲良くなりませんか?」


 真白はおもむろに手を差し出す。


「はあ? 誰がお前なんかと」

「でも、僕だけは君の味方になってあげられるかもしれませんよ」

「味方なんて要らねぇよ」

「ああ、ならいいです。僕も友達なんて要りませんし」


 少年の意地っ張りな返答を聞くと、真白もすぐさま手を引っ込める。

 途端に相手が焦りだす。


「ちょっと、待ってくれ」

「なんですか?」


 白々しく、首を傾ける。


「俺、本当は。もっと、こう……」


 言いづらそうに、目をそらす。彼はこちらから顔をそむけるか、はたまた逃げ出しそうな面持ちで、訴えてくる。


「誰かと仲良くしたかったんだ」


 その本心は確かに真白の耳にも届く。されども、以降はなにも口に出すことはできない。少年とも別れる。去り際、彼は真白にこう告げた。


「その、ゴメン。俺、バカみたいだった」




 意識を現実へ戻す。

 なにかに突き動かされるように、真白は顔を上げて、民家の壁に背中を預けた。


「妖精、もう、いいです。時を動かしてください」

『本当に、いいのですね。でも、ちょうどよかった。あと少し遅れていたら、永遠にあなたはこの世界に取り残されるところでした』

「あ、はい。そうですよね」


 頭をかく。

 まだ、心には苦い気持ちが残っている。

 それでも、やらなければならないことは分かっていた。なにより、自分はあの少年にたくされたのだ。終わってしまった者のためにも、前に進むと。生の世界で生きるのだと。

 ああ、そうだ。生きたかった。人間として、自分は確かに。

 だからこそ、振り出しに戻る。スタートラインに立たなければならない。自分はまだ、そこにすらたどり着けていない。なればこそ、行かなくては。


「やってください」


 ハッキリと、告げた。

 迷いはない。憂いもない。後悔など、あるはずもなかった。

 覚悟はすでについている。

 自分の甘さが招いた結末ならば、その尻拭いも自分がやるべきだ。けじめはつける。そのためだけに、自分は挑む。最初で最後の戦い――災厄の獣に。

 

 刹那、透明な水晶玉から真っ白な光が漏れ出す。両手にそれをかかえている真白は、目を細める。まぶしくて、とてもではないが、じっとしていられない。表情を固めてすらいられない。それでも、見開く。もう二度と、帰らなくてもいいように、周りの景色を目に焼き付ける。周囲を見た。崩れていく。白が溶けて、闇に飲まれる。なにもかもが、消えていく。これが星の終わりだと突きつけられたような気になった。


 少し、胸が痛む。だが、これでよかったのだと確信した。そうでなければ、ダメだ。生き残ったのなら、彼らの、本物の魂のためにも、生き残らなければならないと。


 目を閉じた。

 真っ暗闇の中で浮かんだのはオパール色の髪を持つ、花のような少女だった。淡い微笑みを見せる彼女の顔が、陽炎のように揺れている。手を伸ばすと煙のようにかき消えてしまった。まだ、手を伸ばす。見えないもを追いかけようとした。

 だけど、輪郭が薄れていく。抵抗をしようとする。だけど、逆らえない。運命には。


 忘れたくない。まだ覚えていたい。そう、願ってしまった。

 まだ、すがりつきたくてたまらない。

 自分の想いすら、消えてしまうのが恐ろしくて、仕方がなかった。

 いずれは名前すら思い出せなくなる。

 その事実に押しつぶされるようにして、青年もまた闇の底へと落ちていく。


 次に目を開いたとき、真白は無機質な町の中心に立っていた。


「よう、待っていたぜ」


 目の前には汚れた衣装を身にまとう男がいた。

 彼は堂々とした笑みを浮かべて、こちらを見る。

 敵だ。まぎれもなく、倒すべき相手だ。記憶を失い、欠落した部分はあれど、それだけは確かだ。ならば、まだ、戦える。自分の意思は変わらない。

 ごく自然な雰囲気で、青年と男は向き合っていた。

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