第3話

 時間軸は現在まで戻る。


「で、どうするよ? この俺を裁くか?」


 前方で、涅がふてぶてしい顔で、誘う。

 一方の真白は、まだ気持ちの整理がついていない。一度にいろいろなことが起きすぎて、心が追いつかずにいる。

 いったい、なにをするべきなのだろうか。

 第一に、真白の目的は王権の入手のはずだった。それが現在は奪われているとなると、相手から取り戻すしかないだろう。けれども、果たして本当に、敵うのだろうか。

 頭はしっかりと動くのに、心の動揺を隠しきれない。一度の失敗が原因で、完全にリズムが狂ってしまった。そんな感覚に全身を支配されているようで、なかなか行動に移せなかった。


「だろうな。今のお前なら、そうなる」

「いいえ、僕は」

「もう遅せぇんだよ」


 不意に、やけに冷え切った声が、男の口から漏れた。


 真白は目を丸くしたまま、固まる。

 彼としては確実にこの場で動いて、相手を倒すつもりだった。だが、一瞬でも、失敗するビジョンを浮かべてしまった。もう二度と、同じ過ちは繰り返したくない。その思いに引っ張られるような形で、躊躇してしまう。そのためらいが、取り返しのつかないレベルの隙を生んでしまった。


「じゃあな」


 男が王権を振るうと、前方から土砂のような勢いで、土が押し寄せてくる。真白はとっさに防御をしようとする。クリスタルの剣を振り回して、土を払う。ところが、目の前で土は一気に固まった。それはまさしく、崖のように。水を使っても、切り払えるものではない。むしろ吸収して、どんどん強度を増す。これでは、どうしようもない。


 かすかな心のどよめきを感じつつ、真白は剣を下げた。


 一方で、真白をあっさりと退けた涅は地下を抜けて、中央の町へ戻る。そこからさらに町を出て、国境をも抜けた。やがて、足を踏み入れたのは、圧倒的なまでに延々と続く荒野だ。あたりには人気がない。視界に入るのは枯れた木々と、乾いた大地のみ。吹く風は冷たく、皮膚に刺さる。鼻孔をかすめるのは、乾燥した空気と、舞い上がった砂の匂いだ。


 遠くを見つめると、青々とした山に隠れるような形で、一本の木が生えているのが分かる。ちょうど、となり町の近くだろうか。近づいてみると、蕾が大きく膨らんでいるところを確認できた。そして、日の出の勢いとともに、花は開く。


 涅は黒く濁った瞳を細めた。


 たった今、前回の開花から三〇〇〇年が経った。

 この瞬間を、涅は待ち望んでいた。否、真の意味でこの花を求めていたのはきっと、魔王だったはずだ。彼女はもう、この世にはいない。全ての希望を打ち砕かれ、空にかかる虹を見ずに、死んだ。その結末を滑稽だと思うと同時に、どことなく許せないと思っている自分もいた。もっと別の結末があったと、言うつもりはない。ただ、どうしようもなく、理不尽だった。


 風が吹く。

 花は舞わずに次から次へと咲き誇る。その色合いは様々だ。ちょうど端から赤・橙・黄・緑・青・藍・紫――ちょうど、七色揃っている。世にも珍しい。美しさよりも先に、禍々しさのほうが頭に直接響く、そんな印象を受ける。それは、この花の正体を、涅が知っているからだろうか。


 いずれにせよ、準備は整った。後は、術式の発動を待つだけだ。

 王権を手に入れた今、その権利も自分にある。涅はキュッと口元を引き締めて、まっすぐな眼差しで、木のちょうど前に空いた空間を見つめた。


 そこに導火線のようなラインが引かれる。別段、彼がやったのではない。ごく自然に、透明な人間に操られているかのように、ラインは光を放つ。さながら、本当に時限爆弾でも発動するのではないかという勢いで、複数の光はまっすぐ、放物線を描く。


 そして、大地は崩壊する。地面に亀裂が走った。

 それを涅は真顔で眺めている。

 いよいよだ。


 まさしく、ようやくといった感じだろうか。

 今日まで待った。

 涅は深く息をつく。


 それと同時に、荒野に生まれた亀裂の中心に、ある獣が出現した。虹色の体毛。大きな体。大きな牙。それはまさしく、自分と契約を結んだ獣――悪魔だった。


 そこを中心に、黒い渦が発生。大地は一気に黒く染まり、あたりを侵食する。森は枯れて、残った木々も飲み込まれる。闇は町まで到達して、家屋を消し飛ばす。タイルを黒く塗りつぶして、人々を黒い幕で覆う。なにもかもが、全て、闇に沈む。大地は崩壊する。世界は、一つの色で染まる。


 その中で一人、涅は冷静にある場所へ視線を向けていた。彼は闇の中であろうと、落ち着いている。むしろ、これを待ち望んでいたようなものだ。

 その視線の先にはなにもない。ただ一つの闇が広がっているだけだ。まるで、盲目にでもなったかのように、なにも見えない。なんの光もとらえられない。それでも、一つの可能性だけは生まれる。自分の故郷も、確実に闇色の泥に沈んだ。その気配を察知して、涅は満足そうに笑んだ。


 そして彼はふところから、水晶の玉を取り出した。


 ☆★☆


 いったい、なにが起きたというのだろうか。

 涅を取り逃がした後、真白は地下を離れた。鎧塚をそのままにしておくのは忍びないが、自分ひとりでどうにかできるとは思えなかったため、まずは別れを告げた。

 今晩はなにもかもを忘れて宿に泊まりたかった。朝になれば全てがなかったことになるのではないかとも、考えた。それはありえない妄想もとい願望に過ぎないけれど、今はそんなものにしかすがりつけない。


 ところが、この現状はなんだろう。

 世界が闇に沈んでいく。地面は黒く染まって、人々は闇色をした水に飲み込まれていくではないか。侵食は足場だけではなく、家を――城さえ飲み込んでいく。

 勢いは止まらない。禍々しい色をした水は、どんどん侵食していく。真白の目には黒い色しか捉えられない。鼻をつくのは、下水のような臭い。感じたのは一瞬だけだ。それでも、汚れきった、全ての汚染された物質を詰め込んだような臭いに、感覚が麻痺しそうになる。事実、あまりにもその濃度が強すぎて、今はなにも感じない。耳も澄ましてみたものの、音はなにも聞こえない。通常であれば生活音の一つや二つ、感じ取ってもおかしくはないが、今は全てが黒い泥に吸い込まれている。


 いよいよ、まずい事態になってしまった。

 口の中に苦い味を感じつつ、真白はツバを飲み込む。


 そうした中、不意にどこからか声が聞こえてきた。


『よう、今の状況、知りてぇか?』


 低い声。お世辞にも品がいいとはいえず、澄んですらいない。泥を飲んだような、汚らわしい声音で、彼は言う。


『世界は滅ぶぜ。闇に包まれてな』

「君は、その声は……」


 声が震えた。

 もしや、この事態は彼の仕業だというのだろうか。世界中が黒い渦に包まれるなんて、そんな非現実的な話は、なかなか受け入れられない。ただし、それでも、今現実で起きていることだけが事実だ。そうは分かっていたとしても、やはり、彼には不可能だろう。そんな大それたことを。たかが人間の身で。


『そうさ、俺は涅影丸。本来ならテメェなんかよりも、弱い存在だ。だがよ、俺には契約している悪魔がいるんのさ。ちょうどそいつの力も借りてるところでな』

「契約、悪魔?」


 黒魔術だろうか。真っ先にその単語が思い浮かんだけれど、相手はすぐには解答をよこさない。そもそも、口に出して確認を取っているわけではないため、当然のことだ。


『おいよ、俺はな、そいつの力を利用して、世界を滅ぼそうとしたんだよ』

「そんな……どうして、そんなことを。君は、君はいったい、なにを考えてるんですか?」

『なにって、そりゃあ、決まってんだろ? ぶっ壊すんだよ、この世界の全てをな』

「どうして……?」


 嘆くように口にした真白に対して、涅は愉快そうに笑うだけだ。

 その様子は悲壮感には満ちているわけではない。全てをあきらめて凶行に及んだというよりは、ただ楽しそうだった。例えるのなら、純粋に自分のやりたいことを実行に移すような感覚に近いだろうか。


「君はどこまで、腐りきってるんですか?」

『んなもん、とっくの昔に分かっていた話だろうが。俺はな、別にサイコパスとか、そういうわけじゃねぇよ。ことの分別くれぇはついてる。やっちゃいけねぇこととか、そういうのも分かってんのさ』

「だったら……」

『ああ? 説得でもする気かよ。悪ぃが、俺はそいつに関して乗る気はねぇよ』


 吐き捨てるように、涅はつぶやいた。


『俺はな、自分の意思で世界をつぶした。狂ってるわけでもねぇ。イカれたわけでもねぇ。ただ、純粋に、この世界に対して、復讐をしたかったのさ。俺を生み出した。こんな境遇にした。この俺の恨みを誰に向かって晴らすか? んなもん、相手は山ほどいるさ。だが、足りねぇ。一気に全部のやつらを見つけ出していたら、そいつらの寿命が尽きるもんでな。だったら、世界ごとぶっ潰せばいいのさ』

「そんな、そんなことをして、普通の人が巻き込まれたら」

『んなもん、知るかよ。そいつらの命なんざ、どうだっていいのさ。俺はただ、恨みを晴らしたいだけだったんでな』


 彼はまた、愉快そうな声音で、語る。

 対する真白は唇を噛む。

 どうしようもなく、彼を否定したくてたまらない。善悪を抜きにしても、彼の行動はおかしい。世界の破滅を導くなど、思いつきはしても、実行に移す勇気など出ないだろう。くわえて、自分以外の人間のことを毛ほども思わない意思――それはどうしても、理解ができない代物だった。


『俺を責めたところでしょうがねぇだろ。どうせなら、こうなる前につぶしておきゃ、いい話だったんだぜ? まあ、無駄だがな。発動する術者がいなくとも、あの術は勝手に発動する?』

「術? そんなものを仕掛けていたんですか? いったい、いつから」

『ずっと前さ。心に巣食う悪魔を現界させるための術とでもいうのかね。本来は人々に夢を届けるような代物だったがな』

「夢? 今のこの状況にどこにそんな要素があるんですか?」


 珍しく、取り乱す。

 とにかく、涅の言葉の意味をわかりかねて、心が波立っていた。

 なにしろ、夢だなんて、ありえない。今の状況は闇しかない。夢も希望もありはしないではないか。


『最後まで聞けや。この術の本来の目的はな、術者の理想とする世界に作り直すことなんだよ』

「術者の理想……それが、皆が幸福でいられる世界ってわけですか?」

『ああ、その通りさ。だが、条件があってな。そいつは三〇〇〇年に一度咲く花と同時にやらねぇといけねぇ。じゃねぇと、発動しねぇしな。もっと言うと、術者の魔力によって段階が変わるって感じか』


 もったいぶるような焦らすような、そういう感覚で、涅はゆったりと説明をする。


『本来はあの女が術者となるはずだった。だが、今王権は俺の手に渡っている。ならば、俺が発動させるしかねぇよな。だが、問題があってな。俺の魔力っていうのは実にくだらねぇ。並レベルだ。それじゃあ、理想となる世界なんざ作れねぇって話でな』

「じゃあ、幸福なんて、やっぱり……」

『ああ、そうさ。元より俺はそんなもん、求めちゃいなかったもんでな』


 苦渋を噛みしめるように言葉をつむぐと、嬉々とした返事が繰り出された。


『だからお前よ、俺を憎むのはお門違いってもんでもあんだぜ。むしろ、術を防げなかったテメェを恨めや』

「ああ、分かっている」


 青年の声音に、冷たい感情がにじむ。

 確かに、涅の言う通りかもしれない。

 勇者の役目は世界の破滅を防ぐこと。魔王を倒すこと。

 今の真白は勇者ではないけれど、託されたことは同じだろう。だったら、なんとかするべきだった。ほかの誰かが気づかなくても、自分だけは気づいて、敵の目的を寸前のところで防ぐべきだったのだろう。


『ああ、だがな、そいつは奢りって言うんだぜ? ほら、自分ならできたはずだって心のどこかで思ってんだろ? 無理だぜ、んなもん、テメェにできるわけねぇだろうが。テメェはよ、いままでだって失敗を繰り返してきた。それは甘さだったり、凡ミスだったり、いろいろとな。だから何度も何度も、あの女の死を見る羽目になったのさ』

「あの女……」


 ぼんやりと、無意識のうちに唇を動かしていた。

 今脳内に浮かんだのは、今までに見てきた死の数々だ。

 血の海に沈む人々を見た。血に染まった雪の町を見た。助けを求める叫びを聞いた。それらを救えず、今ものうのうと生き続けてきた。そして真白はなに一つ目的を成し遂げられず、まだ、天から届く声に耳を傾けている。


『俺はな、知っていた。緋色の女は何度も死んだ。そのたびにテメェは時を巻き戻した。そいつが無駄だと知っていながらな』

「ま、待ってください」


 唇が震える。

 額に汗をかく。

 頬(ほお)を冷たい汗が伝う。

 濡れた手のひらを握りしめながら、青年は問う。


「なぜ君が、知ってるんですか?」

『そいつぁ、簡単だ。理由か? 教えてやる。俺が、テメェの時間遡行に付き合っていたからだよ』


 堂々と繰り出された答えを聞いて、頭を鈍器でガツンと殴られたような衝撃が走る。

 途端に目は大きく見開かれて、口を半開きにしたまま、固まってしまった。


『テメェもよ、持ってんだろ? 水晶玉をな』

「はい。それが、どうかしたんですか?」

『重要なことだ。で、そもそも、テメェよ、その水晶、どこで拾ったか知ってか?』

「いいえ、気がついたら、手元に」


 記憶をたどる。

 今は曖昧にしか思い出せないけれど、確かに水晶は誰かに渡されたものではなく、気がついたら手のひらの中に収まっていた。


「君は、どうなんですか? 水晶のことを、知ってるんですか?」

『少なくとも俺は知らねぇ。元の持ち主じゃねぇしな。なんなら、神とやらに直接尋ねるのが手っ取り早いだろうな』

「神……?」

『ああ、だが、下界にゃ下りてこねぇだろ』


 はぐらかすように、男は語る。

 なんだか、じれったい。

 急かすように、青年は口を開く。


「答えを教えてください」

『分かった。なら言うぜ』


 一呼吸置いたのち、涅は答えを教える。


『そいつァな、神の所有物。神がテメェの補助のためにたくしたものだ。そして、俺はテメェからそいつを奪った。どうだ? 分かるか?』

「はい。でも、どうして? 僕が、こんなものを?」

『はぁ? 持たされても困るってか? んなこと言うなよ、いままでも役に立ってただろうが』


 からかうように、男は言う。

 え? と真顔になる。

 けれども、よくよく思い返すと、おかしな点もある。たとえば、時間遡行の件だ。いままではなんとも思ってこなかったけれど、普通はそんなマネ、できないだろう。なにかカラクリがあるはずだ。たとえば、時を遡るには、あるアイテムが必要だとか。


『そうさ、水晶を使って、テメェは過去にさかのぼってたのさ。全ては保険。テメェが失敗を繰り返しても問題がねぇように、何度もやり直せるようにな。で、俺も片方持っているわけだが、どうだ? 二つの水晶同士繋がってるもんだかあな。こうした会話もできるって寸法よ』


 それで、全てが繋がった。

 時間を元に戻せたのは、水晶が原因だったのだ。

 だが今はもう、使うべきではないのではないか。否、今こそ、使うときだ。元より青年は、世界の破滅を防ぐために、神によって派遣されたのだから。


『後悔はねぇのか。ここで消費しちまったら、戻れねぇぞ』

「分かっている。彼女にも言われました。それでも、使うのなら、このタイミングしかありません」


 確かな気持ちをこめて、告げる。

 視線はまっすぐに闇に染まった空間へと向けていた。

 途端に涅がそれは滑稽だというように、声を潜めて笑い出す。


『おいおい、もっと冷静になれよ。そいつを使った代償、知らねぇのか』

「代償? そんなもの、どこに?」

『だからよく考えろっつってんのさ。ほら、今のテメェは記憶がねぇ。その理由、心当たりはねぇのかって聞いてんのさ』


 心当たり――

 そんなものは、記憶にない。


『だったら、水晶に直接聞いてみるんだな』


 それを最後に、涅は通話を切ろうとする。

 そこをあえて遮るような形で、真白は呼びかける。


「待ってください」


 声を張り上げた。


「僕は必ず、君の目的を阻みます」


 それは宣言。宣戦布告だった。

 きっとこれが最後になる。

 今しか、世界を救うチャンスはない。だから、なんとしてでも、世界を元に戻さなければならない。闇が世界を巣食う前に、なんとしてでも。


 今は手の感覚すら確かではない。

 だが、ポケットに入れた小さな水晶玉はつかめる。そして、手に取る。このありえないくらいの闇の中でさえも、透明な球体は電球のような輝きを放っていた。

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