第2話

 今一度、母の姿を目でとらえた。のんきにテレビを見ている。なんとも、無防備だ。背中から刺そうものなら、あっけなく逝ってしまうだろう。チャンスは今しかない――とも言い難い。この通り、母は常にぐうたらだ。隙ならいくらでもある。元より、ここは家であり、近くにいるのは実の息子だ。油断をし切るのは、当然だろう。


 しかし、母は本当に自分のことを見ているのだろうか。ずっと……この場にいることにすら、気づいていないような気がする。記憶の中で、涅は母と会話をした覚えがない。目を合わしたことすら、なかったのではないだろうか。そう考えると、モヤモヤとした気持ちが心の中に流れ込む。


 だが、もう全てはどうでもいいことだ。

 唇をかんでいた歯を、外す。

 涅は母に背中を向けて、部屋を出た。小さな部屋を後にすると、後は廊下と玄関しかない。台所や風呂――そんなものはない。そういえば、温かいものなど食べたことがなかったなと思い出す。食べ物は常に生だ。あまりものをかじるだけの日々。ただ、別に味など気にしたことはない。食べられるものであれば、なんでもよかった。難なら、そこら辺に生えている雑草でも、土でも。


 自分の容姿は汚い。泥だらけで、髪も肌も汚れている。きちんと川や海で洗っているというのに、いつまでたっても清潔にはならない。そんな姿を同族に目撃されるたびに、涅は相手に眉をしかめられる。彼らは自分を、なんだと思っているのだろうか。まるで、バイキンのように。不快なものでも見るような目で。


 だが、もう、終わりだ。なにもかも。

 涅はいつしか、他人に対する興味が失せていた。


 邪教は着実に周りに広がっている。それで、どのような結末を招くのかなど、知るよしもない。ただ、ろくなことにはならないと予想がつく。最終的に島の住民が危険な目に遭おうが呪われようが、知ったことではなかった。死ぬのなら勝手にしてほしい。むしろ、そのためにこの宗教をはやらせたまである。


 とにかく、涅はこの世にある、ありとあらゆるものにうんざりしていた。それで全てが解決するのなら、もうメチャクチャに壊し尽くしてしまいたいほどだった。


 次第に、住民たちの瞳が淀んでいく。濁っていく。

 狂気だ。

 四六時中、妄想が突き抜けるように島中に伝播する。皆はありもしない話を喜々として語る。そして、それこそが真実だと疑っていない様子だった。そんな根も葉もない話を誰が信じるというのだろうか。少なくとも涅にとってはそうだったが、住民たちには関係がない。作り話は規模を増して、やがて、世界の破滅を呼び寄せる。そう、予言を受けても、住民たちは止まらない。むしろ、実行してみようと言い出すものがいた。


 かくして彼らは独自に邪悪な術の研究を進める。古い本をかき集めたり、皆で話し合ったり。それを繰り返して、ついに完成した。

 魔法陣だ。明らかにまがまがしいオーラを放っている。そこに、皆の呪詛が集まって、とんでもない圧力を感じる。ただの魔法陣ではないことは、明白だった。


 だからだろうか、案の定、外の世界に察知される。

 島に、死者が現れた。


 虐殺が始まる。

 かつて経験した、無彩色の一族が殺される風景がふたたび、頭をよぎる。されども涅は、かつてのように動揺することはなかった。ただ、島の端で待機して、様子を眺めるだけだ。

 全てが他人事だった。同族だろうと、関係ない。興味もなかった。あんなものはただの他人に過ぎない。世界を破滅するようなバカな真似をした輩は滅びるべきだ。もっとも、自分は彼らと同じような末路をたどるつもりはない。


 一方で、住民たちはなにも知らない。

 自分たちの行動は正しいと信じていた。だから、邪神を呼び出そうとしたことは、悪だと思っていない。もしくは、無彩色の一族を狩りにきた、王国の兵士ではないかと疑う。


「なぜだ、なぜ我らを狙う」


 武器を両手に襲いかかる。

 無彩色の一族は団結して、侵入者を排除しにかかった。だが、相手も甘くはない。鉄砲や槍――ありとあらゆる武器を駆使して、襲いかかってくる。髪も色や容姿――使う武器すらバラバラだというのに、彼らの動きは揃っていた。くわえて、攻撃の威力も凄まじい。時代に取り残され、時を停止させた一族とは、雲泥の差だ。


 そして、次から次へと、無彩色の頭をした者たちが地に伏せていく。


「貴様ら全員が殺戮の対象だ」

「貴様らは悪魔と契約し、あわや世界の破滅を招いた。これを見過ごす義理はなかろう」


 ゴミのように転がる躯を、兵士は見下ろす。

 こっそりと、様子をうかがう。

 彼らは生き残りを探している。

 なんの罪もない命までもは奪われた。

 あの日の再来といったところか。

 それでも、涅の心は冷めきっている。これでよかった。こんな、なんの役にも立たない最低な心しか持ち合わせていない者は、殺されるのが正しい。そう信じて疑わなかった。だから、この心は凍りついたまま、溶ける気配を見せなかった。


 兵士の目的は世界の破滅を防ぐ。ただ、それだけだ。頭の色など、関係ない。世界を危機に陥れるような真似をした輩は誰であろうと粛清の対象。たとえそれが善人であったとしても、殺される。当然の話だ。

 納得も納得。なんの矛盾も生まれない完璧な理由。差別でもなんでもない。だからこそ、少しの希望を涅は感じていた。


 行き慣れた道を進んで、家に戻る。

 扉を開ける。

 廊下を通って、一つしかない家に入った。


 中には相変わらずの母の姿。だらだらと肥え太った醜い姿。ピンクの衣装も相まって、まるで豚のようだ。解体――してしまおうか。


 彼女は外の騒ぎなど興味はないとばかりに、菓子を食べ続けている。いったい、どこから手に入れたのだろうか。時折空を飛ぶ船が通りがかったが、そこからだろうか。手元にはなにやらスイッチが握られている。シグナルレッドが点滅した、銀色の小物。その正体を知らない。ただ、なんらかの通信を送っているものだとは分かった。


 だったら、いいか。同罪だ。


 頭の中でなにかが外れた。

 そして次の瞬間、涅の瞳は茶色い光を放つ。

 直後に、屋根を押しつぶすような形で大量の土が降ってくる。


「あんた、いったいなにを。それでも息子かい? 私が育てたんだ。その恩を仇で返すつもりか? ふざけるな、ふざけるな。人間のクズめ」


 最後の一言で、最後の枷が外れた。

 カチンと音がなる。

 そして、無意識のうちに涅は土で母親を圧殺した。


――『人間のクズめ』


 最期の言葉が頭をかすめる。

 動揺が胸に広がって、しばらくの間、震えていた。

 それは、恐怖ではない。

 怒りだ。

 屈辱でもある。

 同時に、肉親に対する嫌悪感でもあった。


 心にグサッと、ナイフでえぐられたような痛みが生じる。

 歯を食いしばる。

 とにかく、全てを否定したくてたまらなくなる。

 この家も、この島も。

 だから、飛び出した。


 どす黒い瞳は茶色い光を放つ。瞬間、全てが土に埋もれた。畑も家も――生存者も。兵士も、なにもかもが埋もれていった。


 体は無傷なのに、やけに消耗する。

 心が波立つ。

 それは、その理由はきっと、自分の痛いところを、突かれたからだ。


 人でなし。人殺し。

 人間のクズ。


 その通りだ。

 否定できない。

 母を殺した。自分の手で、手を下した。それなのに、能力を使ったせいか、実感が沸かない。この手には、なんの実感も沸かなかった。


 それなのに、まだ、あの言葉だけが耳の奥で何度も再生される。


 事実だったから。そんな自分が一番キライだったから。否定したいと思ったから、指摘されて、図星を突かれて、ショックを受けた。傷ついた。それが、母親から受けた言葉なんて、なんとも皮肉な話だ。


 それから涅は兵士に化けて、船に乗り込む。

 無彩色の一族に変化の力が備わっていることは、夢に出てきた悪魔から教えてもらった。


 狭苦しい通路を抜けて、席に座る。

 その途中に、ふと誰かとすれ違う。手に枷をつけられた老人たち。穏やかな目をした彼らは、淡々と歩く。今は着陸した飛ぶ船から下りて、島に立つ。その容姿は見覚えがあった。衣装こそくすんで、平民のようにみすぼらしくはなっているけれど、確かに彼らは国の実権を握っていた者たちだ。


 結局のところ、一族が滅ぼされたのは、彼らを島に送ることのついでだったのだろうか。世界の破滅を防ぐことは確かに重要だ。だが、それはただの理由付けに過ぎない。なんせ、彼らの術は不完全だ。見よう見まね。付け焼き刃の知識で実行しようとした魔術に、いったいなんの効果があるのだろうか。


 船が飛び立つ。

 プロペラが回る。

 二人の老人を置き去りに、船は飛行していく。

 島が小さく、遠ざかっていく。


 その様子を、涅は無感情に眺めていた。


 以降、あっけないほど簡単に、人生が変わった。いままで、苦労をしても得られなかったものが、あっさりと手に入る。理由は悪としての活動に抵抗がなくなったからだろうか。

 彼は町に降り立つと、真っ先に金目のものを探す活動に出た。無論、本物を得る必要はない。似てさえいれば、十分だ。模造品を作り、売りさばく。他人は蹴落とし、のし上がる。そうすれば簡単に、金は稼げる。

 顔も名前も自由自在。一人目の自分が失敗すれば、また新たな自分を作り上げればいい。そうして、無限ループは完成する。完璧な仕事だった。

 

 とにかく、涅は解放された。母も一族もいない。また新たな人生が始まる。いままでの日々は灰色に閉ざされてはいたけれど、今は違う。客の笑みを見るたびに心が踊り、なにも食べていないのに口の中に蜜の味が広がる。その夜に飲んだワインは実に美味かった。

 国で起こる悲劇を目撃するたび、胸が高鳴る。人ひとりの命が散っていくたび、世界がバラ色に染まっていくような気がした。


 もはや、失うものはない。下がる株もない。どうせ、汚いものにしかなれないのなら、貫き通すのも悪くはない。どうせなら、完全な黒に染まる。誰も口出しのできないほどの悪に成り上がったのなら、誰も涅を否定などできないだろう。


 そんな思いに突き動かされるようにして、涅は何度もレプリカを作った。そして、本物の宝石だと偽って、いろいろな人物に送りつけた。人脈を増やし、時には鑑定士すら騙し切る。完璧な商売だ。いつしか自分のイミテーションこそが本物だと扱われるようにもなった。本物が偽物だと断じられ、詐欺師として訴えられた善人も現れる。そのざまを見届けるのは、実に愉快だった。


 殺人を好んでするほど狂気に満ちているわけでもないが、やるときはためらわない。金目のものは殺してでも奪い取る。警察が駆けつけたのなら、抹殺する。そうすれば、誰も自分を追い詰められない。逃げる必要などない。堂々と構えていればいい。それで、なにもかもが丸く収まるのだ。


 自分は汚い。ああ、それでよかった。

 軟弱な精神と体躯を持った、卑劣な男。戦いでは真っ向から挑んだところで勝ち目はないが、彼には能力が備わっている。使い方によっては、あっさりと町ごと潰せてしまっても、おかしくはない。

 武力が下がらないのは厄介だが、ある程度は満足している。


 それでも、満たされないものはあった。

 なぜ、自分の人生はここまで歪んでしまったのだろうか。

 もっとほかに方法はあったのではないか。そう、考えるたびに、否定する。どうあがいても、自分の運命は変わらない。

 この地に生まれたときから、涅はきっと、呪われていたのだろう。いずれは一族を捨て、母を捨て、新たな人生を歩むと決められていた。抵抗をしたところで、意味はない。受け入れるしかなかったのだ。


 だが、黙って見ているわけにはいかない。だからこそ、実行に移したといえる。

 涅は人生を受け入れた。もう二度と、光の道へと進むことはない。それは、それで結構だ。二度と日の当たる道を歩けなくなったとしても、後悔はない。殺されても、構わない。これは、自分で決めたことだからだ。もうなにもいらないのだ。地位も名誉も、なにもかも。金すらも、要らない。


 悪趣味でゲテモノとしか呼べない料理を口にしながら、涅は天を見上げた。

 都会の空は濁っている。汚染されたように灰色で、あたりには煙の臭いが充満していた。体に悪そうだが、気にする必要もないだろう。

 ふてぶてしくテーブルに足を載せながら、行儀悪く、紫色のパンでは挟まれた青色の野菜や肉を頬張る。


「ちょっと、勘弁してくださいよ」


 そんな店員の声は脳を通らず、耳から耳へとまっすぐに通り抜けていった。

 さあ、殺すか、生かすか。無視するか。すべては彼次第。はてさて、店員の運命は――

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