第三章

第1話

 ☆★☆


 散っていく命を見た。

 くすんだ土の色に広がる、鮮やかな血の色を覚えている。

 目の前で人が死んでいく。

 いやだと言った。

 恐怖に震えた。

 だが、抵抗もなかしく、虐殺は進む。


「こいつは?」

「いらん。手にかける価値もない」

「ああ、なんと、汚らわしい」

「奴隷にでもしてしまおう。生まれたことを後悔させるつもりでな」


 彼らの人形のように光を失った瞳を覚えている。

 人間たちによって、仲間の命が次々と奪われていった。

 けれども、彼らに裁きは起きない。

 むしろ、英雄だと褒め称えられる。無彩色の一族が消えたことを確認するなり、町の者は胸をなでおろす。「ああ、よかった。これでまた、世界が平和になった」

 なぜなら、涅の一族は常に悪者扱いだったからだ。


 町を歩けば石を投げられ、世の中の悪いことは全て彼らの仕業だと思われる。濡れ衣を着せられて仲間が投獄されたことも、一度や二度ではない。


 涅たちは、ただ、生まれただけだ。確かにほかの人間にはない『能力』を覚醒させた者が多くいるけれど、それは彼らの特徴というだけであり、悪用をする気はない。全ては魔王が台頭したせいだろうか。かつて、世界を統べ、ありとあらゆる命を蹂躙せしめんとした魔王は、勇者によって倒された。彼女の持つ属性は『闇』選ばれし者のみが持てる属性だ。対して、涅は『土』決して悪くはないけれど、地味だ。そしてなにより、彼が使うとどす黒くよどんだ術になってしまう。それは、彼自身が汚れているからだろうか。涅はそんな自分が大嫌いだった。


 やがて一族は人間を避けて、孤島へ避難する。大陸との連絡手段や通行手段の乏しい場所でなら、他人と関わる機会も薄い。誰にも支配を受けず、非難も受けない快適な環境だ。しばらくの間、島には平和な時が流れる。それで、彼らは満足したのだろう。いままでの出来事や歴史は完全になかったことにして、また新たな時間を歩み始める。


 トラウマなど胸に残るはずもない。全てを水に流してしまえば、後は過ぎたことだと片付けられる。


 ところが、涅影丸はそうではなかった。彼はいままで人間たちから受けた傷を忘れない。どれほどの理不尽な目に遭ったのか、あっさりと忘却するわけにはいかなかった。


 相手は自分を正義だと思い、悪を滅ぼしたつもりだろう。それはなにも知らない者からすれば、たいへん立派な行為のように思える。だが、間違った正義は悪そのものだ。そう指摘しても、しらを切るだろうか。なにしろ、人間たちは快楽を持って自身の邪魔をする者たちを排除しようとしていた。ここは自分の国だ。大陸だ。そうやって、邪魔者を追い出そうとしていたのではないか。


 自覚がないだけ、たちが悪い。


 元より、涅はこの先の人生や未来に、一ミリの希望も見いだせずにいた。いくら新たな人生を生きたところで、うまくいく保証はない。汚れた自分そのものが悪かった。それを消せない限り、どうあがいても、やり直しなど聞くはずもない。


 涅影丸は醜い少年だった。

 無彩色の一族の中でも、とびっきりの底辺だ。

 常にくすんだ色の、センスのない衣をまとっている。だらしない格好に、清潔感はかけらもない。負け犬であり、はみ出し者でもある。彼は仲間にも見捨てられ、誰からも肯定されない。

 普通の人間には人間として扱われず、奴隷としてこき使われた経験もある。殺され、処刑を受けなければマシだと思われるが、本人としては殺されたほうがマシだった。

 そんな扱いに耐えきれなくなり、家にいた者を全て殺して逃げ出した。彼の手はとっくの昔に汚れている。そして、母の島で母との再開を果たしたのはよいものの、おかげで完全に性根は腐り、ひねくれてしまった。


 要するに、人生に絶望していたのだ。

 その闇に付け込まれたのか、ある日、夢に悪魔が現れた。

 それは、虹色の獣だった。今は実体を持たないのか、輪郭が曖昧だ。だが、なんとなく、それが大昔に封印された存在であるとは分かる。なにやら、言いしれぬ不安に包まれ、涅は悪寒に震えた。

 相手は言った。「我と手を組まないか?」と。

 涅は決めた。心に悪魔を宿し、平然と生きていくと。


 元より世界でも故郷でも、嫌われている。

 ここから下へ落ちることはありえない。たとえ這い上がれないとしても、底が見えているのなら、まだいいほうだろう。

 同時に、神はいないと悟った。

 ここまで堕ちてなお、救いの手は伸びない。それは、自分が救われようとしていないせいでもある。なにより、もはや全てがどうだってよかった。

 だが、そもそも、もしも神がいるのなら、このような地獄を体験することもなかった。


 ああ、しかし、自分がこのような運命に堕ちたのは、果たして誰のせいだろうか。自業自得か。それとも、他人か、宿命のせいか。誰でもいい。だから、理由がほしかった。ただ、一つ頭にあるのは、母のことだ。彼女は常に酒ばかり飲んでいる。働きもせずに、家に閉じこもってばかり。かと思えば一丁前に娯楽には興じる。テレビは年がら年中、つけっぱなし。ならば、生活費は誰が稼ぐのかといえば、当然息子だ。


 それが嫌で逃げ出したというのに、今度は逃さないとばかりに母は束縛する。時には過去の傷口さええぐって、子どもを家に縛り付けた。

 けれども、そう簡単に稼げるはずもない。涅は窃盗を繰り返した。気づかれないようにこっそりと金品を盗み、畑に生えている果物や野菜を抜いた。

 もっとも、町よりは広いとはいえ、たかが孤島だ。彼の仕業であると、すぐに気づかれてしまう。そのたびに涅は殴られ、時には狭い空間に閉じ込められた。


 だから言っただろう、神などいないと。


 そう、何度天を仰いだことだろう。

 ここからいったい、なにをどう過ごして行けというのだろうか。

 そんな気持ちと、絶望感ばかりが高まっていく。いずれにしても、詰んでいた。無彩色の一族として生まれた――否、この世に生を授かったこと自体が、最初から間違いだったのだ。

 涅には、普通の人として生きる権利すら、受け取れなかった。


 全ては母のせいだ。

 何度憎んだことだろう。

 何度、逃げ出したいと思ったことだろう。

 だが、逃げたところで、どうにもならない。孤島から大陸への船は、出ない。誰に、彼をこの世から救ってくれる者などいない。

 唯一の理解者になってくれそうなのは、心に救う獣だった。


 どうせなら、全てを破壊するのも悪くない。

 どうせ神がいないのなら、邪教をはびこらせてしまえばいい。

 どうせやっても、意味はないし、神への裏切りや不信は厳罰の対象だ。

 どうせ……どうせ。

 そんな気持ちに突き動かされるようにして、涅は不良に虹色の獣について話すようになった。

 その口元は笑っていた。ニヤリと口角をつり上げて、軽やかに、歌うように語る。

 話すのなら、まともな人間よりも自分と同類の腐りきった者を誘うほうがよいと考えた。彼らは都合よく、こちらに食いついてきた。

 彼らも本音は一緒だったのだろう。

 生きていたところで、どうにもならない。神を信じて、いったいなにが救われるのだろうか。どうにもならないと知っているのなら、いっそ、世界を壊してみないかと。


 邪教ははびこった。

 邪悪な神を信じる者は現れた。

 魔王はまだ生きていて、それが神とかして世界を支配しているのだと言い出した者もいる。魔王のためになにかできないか。魔王のために、世界を破滅に導こう。そんな、バカな会話も耳に入った。


 とはいえ、それで涅の心の問題が解決したわけではない。環境自体は以前となんら変わらないままだ。いつものようにこっそりと気づかれないように少しずつ物を盗みながら、土の上に眠る生活。寒さや暑さを凌ぐので精一杯の、ギリギリの日々。


 精神がすり減っていくのを感じた。

 なぜ、自分がこのような環境で生きなければならなかったのか。なぜ、よりにもよって、どん底の淵に叩き落とされたのが、自分だったのか。全ては、運命だったのだろうか。

 分からない。だが、それでも、一つだけ。涅はどうあがいても、救われないし、報われもしない。落ちては行かない。かわりに這い上がることすらできずに、天を見上げるだけだ。結末など最初から見えているし、変えられもしないだろう。


 なにもかもをあきらめていた。信じても無駄だと、全てを悟った。信じたところで裏切られるだけだ。ならばいっそ、最初からなにも信じるべきではなかったのではないか。それが最も正しい選択だと、信じて疑わなかった。


 結局のところ、自分の居場所はどこにもない。

 村の隅にも、家の中にも。

 部屋にあるほんの少しの隙間すら、与えられない。

 誰も彼もが、涅影丸を罵倒した。軽蔑した。ろくでなしだ。非人間だ。同じ種族である彼らに言われたくはない言葉だった。

 だが、もはや、どうにもならないのだ。なぜ、こうなったのか――そんなことを考えたところで、答えは出ない。自分はなにをすればよかったのか。なにか行動に移しさえすれば、全ては解決したのだろうか。もっと、よい方向へ進んだのではないか? 否、分からない。


 いずれにせよ、意味のない議論だ。


 そうした中、不意に母のつけたテレビになにかが映っているところを見かける。


 西洋の鎧を身に着けた、整った顔立ちをした男。涅とは正反対に位置する、青年だ。やっているのは、舞台だろうか。娯楽にくわしくはないため分からないが、その大げさな身振りは一発で演技だと分かる。セリフには抑揚があり、動作も自然。それでも、やはり、それが本物ではないとなんとなく、分かってしまう。少なくとも、ノンフィクションではないと。


 同時に、どす黒い感情が胸の底から湧き出してきた。


 テレビには、のうのうと生きる人々が映っている。無彩色の一族など最初からいなかったという顔をして、舞台に興じる役者たち。

 それが、どうしようもなく、許せなかった。

 なぜ、彼らだけが今も無事でいられるのだろうか。どうして自分たちが、いや、自分だけがこのような仕打ちを受けなければならなかったのか。なにもかもが理不尽で、たまらない。誰かに納得する答えを提示してほしかった。

 だが、なにもないところに問いかけたところで、意味はない。答えなど出ないし、なんの言葉も返ってはこないだろう。


 同時に悟った。

 戦いはすでに集結した。

 この戦いをモチーフとした物語が制作されるにいたるほどの時間が流れている。


 いままで、孤島にいて外の世界と情報や時間が隔絶していたため、分からなかった。

 元よりこの島には時は流れない。

 外に出て、ようやく動き出すという仕組みだ。


 以降も、テレビは延々と放送を流し続けている。

 ヒーローの勝利を放映して、喝采を浴びる姿が目に飛び込む。

 なんとも胸糞の悪い光景だった。

 あんな物語の結末など、クソくらえだ。なんとしてでも、物語の結末を変えたいと願った。そもそも、魔王は本当に死んだのか。そんなはずはない。噂には聞いていたが、あの実力は半端な勇者では太刀打ちができない。そう簡単にくたばるはずもないだろう。

 それだけは、確かな自信をもって、言えることだった。


 同じように頭の中をぐるぐると、先ほどの映像が流れて回っていた。

 勇者は勝つ。それは正義だからだ。正義が勝ってこそのハッピーエンドであり、悪人が勝ってはつまらない。バッドエンドなど、誰も望んではいないのかもしれない。だが、いったどこの誰が、魔王側を悪だと決めつけたのだろうか。

 そして、その悪を一方的に押し付けられた者がいる。その事実を、下々の民は分かっていない。それがどれほどの人間を傷つけてきたのか。その罪を、贖う必要があるのではないか。


 なにが正義だ。

 認めない。

 認めてたまるものか。

 気がつくと涅は二つの拳を強く握りしめていた。

 皮膚に爪が食い込んで、血が流れる。だが、ちっとも痛くはない。依然として治らない心の穴と傷よりかは、なん倍もマシだ――もう、なにをされても痛くはない。ここまでの傷を負ったのだ。もう底を見たのだ。そこから這い上がれない変わりに、もうなにもかもを捨て去る決心はついた。

 なにもかもを終わりにしよう。


 息を吐いた。

 その息は長く、どうしようもないほどまでに、重かった。

 少しだけ、気は晴れただろうか。

 なにかを動かすと決めて。もう終わりにすると決意を固めて。

 これで、また、変われるのかと。

 底が割れて、さらなる地獄に落とされるのではないかと。


 どうでもいい。


 もう一度、繰り返すようにつぶやいた。


 今よりも深い絶望なら、味わってみるのも悪くはない。

 ならばいっそ、なにもかもを道連れにするほどの深い地獄へいざなってみせよう。

 心に巣食う闇に導かれるように、涅は顔を上げた。

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