第17話
「幻術にかかったか、洗脳されているか……その両方か。こいつぁ、傑作だな」
哄笑がとどろく。
彼は愉快だと言わんばかりに声を出して嗤うが、真白にはどういう意味か、理解ができない。
幻術。
洗脳。
その二つの単語の意味を理解できても、それが自分となんの関係があるのかは、分からない。
ただ、なにも考えていなさそうな顔で、武器を握りしめることしかできなかった。
「おいおい、この期に及んで現実から目をそむけるつもりかよ?」
「いったい、なんのことですか?」
いぶかしげに問うた。
真白としては、本当になんのことか分からなかった。
彼自身、現実から目をそらすつもりはない。
「確かに君との力量の差はハッキリしています。でも、僕は勇者なんですよ。君に、負けるわけにはいかない。王権だって、渡しません」
「それだ」
やけに冷ややかな響きを持った声が、鼓膜を揺らす。
「いつまで茶番を繰り返すつもりだ? お前はよ、最初からそういう男じゃ、なかっただろうが」
眉がつり上がる。
低い声で、彼は言う。
怒っているのだろうか。
その言葉の意味をはかりかねて、この期に及んで真白は間抜けな顔をしたまま直立している。
そこへ銀色の軌跡が走る。あわてて剣で受け止めたけれど、勢いを殺しきれず、後ずさる。そのまま、尻もちをついてしまう。そこへ、常磐色の衣をまとった男が迫る。
「俺は知ってんだぜ。『自分のかわりをしてもらう』と個人を指して言った男をな」
頭の中に、かすかにノイズが走る。
その『自分のかわりをしてもらう』と口走った男のことを、知っているような気がした。
根拠はない。ただ、なんとなく、そう思っただけだった。できるのなら、杞憂で終わってほしい。されども、頭痛は強まっていく。なにか、よからぬものの封印を解かれてしまうような、そんな気がした。
気が気でない。手のひらが汗ばむ。瞳が泳ぐ。
いてもたってもいられなくなる。
この場から逃げ出したくて、仕方がなくなった。
「全部、あの男のせいだ」
鎧塚が剣を振るう。
禍々しいオーラが宙を舞う。
地べたに座り込んだまま、黒い影を目で追う。
なんとか立ち上がろうとした矢先に、影が真白に襲いかかる。
彼の体に赤いラインが走った。
斬られた。
血にまみれながらも、それでも歯を食いしばって、立ち上がろうとする。
見た目の割に、傷は浅い。まだまだ、戦える。だが、そこへ止めを刺さんとばかりに、上から鎧塚が攻撃を仕掛けてくる。
「本当にお前が誕生したのはいつなのか。本当にお前は、自分が勇者だと信じたのか?」
強い響きを持った声が、降り注ぐ。
魔剣はふたたび少年の体を切り裂く。
鮮やかな色をした血が灰色の空間に飛び散る。
服がボロボロになっていく。
なんの抵抗もできないまま、ただ、攻撃をされるがままになってしまう。
「都合のいい幻想だな。『自分』がないから、操られるんだよ」
声がした。その声が、遠くなっていく。
ただ、剣が振り下ろされた感覚だけが、体にしみこむ。
真白は地面を転がっていた。
これはいったい、なんなのか。
生ぬるい液体の中に沈んだまま、動けない。
指先を動かそうとしたところで、立ち上がる気力すら沸かなかった。
いったい、なにが起きたというのだろうか。
気がつくと、倒れていた。
戦いにすらなっていない。
相手が本格的に攻撃を仕掛けてきたその瞬間には、全てが決着していた。
本当はこんなはずではなかった。
本来の自分なら――勇者としての自分ならば、善戦できたはずだ。
事実、倒れるのが早すぎた。ただ、それでも、真白が動揺をしていたのは事実だ。脳の中に入ったフィルムに異物が紛れ込んで、それに気を取られている。果たして、この記憶こそ、定かなのだろうか。わけが分からない。いったい、なにが起きて、なにがどうなったというのだろうか。
ただ、事実として、決着はついた。
真白の敗北だ。
それを理解した瞬間、脳内でなにかが弾け飛んだ。
パリーンとガラスのように、あっけなく、フィルムが砕ける。
敗北がトリガーとなって、幻想が崩れ去った。
これは、これは、いったい。
口の中でつぶやいた。
頭が文字通り、真っ白になる。
いままで確かだと思っていた思い出が、一瞬で失せた。異世界にたどり着く前の現実世界での記憶は、今はなにも思い出せない。自分の正体すら、今はつかめずにいる。いったい、なにが起きたというのだろうか。まさか、いままでの記憶は全て、偽物だったとでもいうのだろうか。納得ができない。嘘だと、これこそが幻術だと、思いたかった。
必死に記憶を手繰り寄せようとする。だが、失敗。依然として記憶は空白に染まったままだ。
「勇者の真の名前を教えてやろうか?」
上から声が降ってくる。
心の底から忌々しいと思っていそうな、冷徹な声だ。
「コウスケ・ヒナタとか、いったか。
つまり、真の勇者の名は日向煌輔。
一瞬、彼の言いたいことを理解できなかった。日向煌輔とはいったい何者なのか。一つだけハッキリしているのは、彼は自分ではないということ。真の勇者の名は、真白ではなかったということだ。
こんな現実、信じられるものか。
真白は地面に爪を立てた。
コンクリートの床に細長い溝が生まれる。
爪が砕けて、指先に血がにじんだ。
「ったく、くだらねぇ男だった。やつは魔王に止めを刺さずに、姿を消したんだ。そして、お前を自分のかわりになる存在に仕立て上げるために、偽物の記憶を植え付けた。分かるか? お前は人間ですらねぇんだよ。勇者の殻だけを被った。あいつの脱ぎ捨てた抜け殻に入った魂。つまり、そういうことだ」
なにを言いたいのか理解ができない。というより、信じたくはなかった。まさか、自分が本当の意味で抜け殻だったとは。この肉体は確かに勇者のものだ。だけど、その内側に日向恒輔の魂は入っていない。残っているのは自分を持たない透明な少年のみだ。彼には過去がない。ただ、こつ然と生まれただけの存在。本来なら、この世に誕生するはずのなかった存在だった。
「やつはな、大切な存在を傷つけたことを悔いて、自分には他人を憎む資格はないと言った。だから、お前に、誰かを憎む心を与えなかった。そいつを、許しはしなかった。ったく、くだらねぇことやってんなって思うだろ? 自分の都合で余計なものを他人に押しつけるとはな。いや、お前は他人ですらねぇか。人じゃ、ねぇんだもんな」
アイデンティティが崩壊する。
自分がなんのためにここにいるのか、分からなくなる。
どうして、自分は生きているのだろうか。このような現実は受け入れられない。もはや、全てが嘘に見えてしまう。自分以外の全てが――否、逆だ。自分そのものが嘘だから、なにも信じられなくなってしまった。自分のことを一番に信じられないから、それ以外も同じように、全ては偽物だと思えてしまう。
「違う。違います。勇者がほかにいるというのなら、なぜ、現れないんですか? 今こそ、魔王と決着をつけるとき。三〇〇〇年前につかなかった決着を、つけるべきです。こんな、赤の他人ですらない相手に全てを押しつけたところで、どうしようもなりません。なにより、なぜ君は、そんなことを知っているんですか?」
とにかく、自分が本物であるという材料を手繰り寄せたくて仕方がなかった。
そうだ。常磐色の着物を着た青年が、そんな情報を知っているわけがない。デタラメだ。自分を追い詰めるためについた、嘘なのだ。それ以外は考えられない。むしろ、そうであってほしかった。
だが、現実は全てを否定する。
常磐色の男は、ただ淡々と事実のみを口にする。
「やつはもう、この地上にはいねぇよ。あいつはもう、勇者ですらねぇんだよ」
確かな恨みのこもった、低い声。
彼の怒りの矛先は真白の裏――正確にいえばその殻に向けられていた。
「俺なんだよ。あの男とおそらくは最期に対面したのはな」
舌打ち混じりに、青年は語る。
彼は本当に忌々しげに、眉間にシワを寄せて、伝えた。
「コウスケ・ヒナタは神に昇華した。先代の神を追放して、そこに空いた穴を埋めるために、自らがその後釜に入ったわけだ」
その言葉で、全てが繋がる。
なぜ勇者が現れないのか。
なぜ真白が勇者と同じ顔をして、代わりを演じる羽目になったのか。
そうだ。勇者はもう、地上にはいない。天に昇ってしまった。だから今、地上で魔王を御すことのできる人間はいなくなってしまったのだ。
だけど、それでも、これほどまでの材料が揃っているというのに、真白は一縷の希望にすがりつきたくて、たまらなくなっている。
自分が偽物だなんて、なんの価値のない人間だなんて、思いたくなかった。
確かに真白は勇者だ。ただ、それはあくまで代わりだ。いままでは自分を勇者だと思いこんで、それを演じようと必死になっていた。ところが実際はそうではない。ただの洗脳だった。
「まさか、自分自身が三〇〇〇年前に魔王を取り逃がした勇者本人だとでも思っていたのか? こいつァ、滑稽だな。んなわけねぇだろ。勇者は敗北しちゃ、ならねぇ。勇者だったら、この俺に敗北なんざするわけがねぇんだ。そうだろ、分かるだろ? なんせあの勇者はこの俺が一度も勝てなかった存在。この俺が倒せない相手である魔王なんざ、倒せるわけがねぇんだ」
その容赦のない罵声が、心に突き刺さる。
今、真白が地に伏せていることが、最大にして唯一の証拠だった。自分が勇者ではないという、確固たる証拠。
勇者はヒーローでなければならない。弱い者に手を差し伸べ、強者を打ち倒す。魔王を倒すためだけに生まれた存在。その役目を終えたら、勇者は消失して元の場所へ戻る。逆にいうと、魔王を倒せない勇者には価値がない。魔王ですらない者に敗北をした者は、勇者ですらない。鎧塚武将に敗北を喫した真白は、偽物だった。
もっといえば、真白には記憶がなかった。
過去の思い出など、もはや思い出せない。
地球という惑星の存在など、今は記憶にすら浮かばない。あそこはいったい、なんだったのだろう。ぐるぐると、疑問ばかりが浮かんでは脳内をただよっていく。
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