第8話

 ミドリは今まさに、腕に巻き付けた蛇で、シスターの命を狙おうとしている。

 蛇が大きな口を開ける。

 口内に日本の牙が見え、長い舌も食事を求めているかのように、動く。

 シスターは身を縮ませる。

「ヒッ!」という悲鳴にもならない短な声を発した。


「さあ、やってしまいなさい」


 口角をつり上げて、豪快に叫ぶ。

 彼女は喜々として、使い魔――否、体の一分に命令を下す。

 直後に蛇はシスターに襲いかかる。

 とっさに彼女は目をつぶった。

 自身が蛇に食われて死ぬ光景を脳内で再生させる。死ぬとしか、思えなかった。間に合わないと。自分は助からないのだと、実感した。


 刹那、鮮やかな赤い血が飛び散る。

 地面に小さな頭が転がった。

 床にはあかあかとした汚れがつく。


 シスターは、生きていた。

 彼女はゆっくりと目を開ける。

 そして、下を見て、大きな絶叫を上げる。

 それは、幽霊屋敷の客のような声だった。自分が死ぬと分かったときよりも、大げさで恐怖心に満ちている。


 彼女の足元には胴体と頭を切り離された、蛇がいた。それはもう、死んでいる。頭と胴体が分かれたら、もう動かない。それは分かっているのものの、蛇は生命力が強い。頭だけでも噛み付いてこないか、不安になる。


 シスターは青ざめた顔で、後ずさった。


「よし、これで間に合った」


 真っ白な容姿をした少年が、肩で刃のついていないクリスタルの剣を担ぐ。

 まさかとは思うが、アレで蛇を倒したのだろうか。

 あんなオモチャのような――否、アレは確かに、勇者の剣だ。

 この目で見たわけではないものの、同じ種類の剣を伝説の英雄が使っていたと聞く。ならば本当に、彼は本物の勇者なのかもしれない。

 漠然とした期待感を抱きながら、シスターはぽかんとしてしまう。


「えーと、その……逃げてください。ここは僕が食い止めます」

「はい、喜んで」

「こんな僕じゃ、頼りにならないってのは分かりま――え?」


 真白がシスターのほうを二度見する。

 彼としては、本当にシスターが全てを任せてくれるかどうか、分からなかった。下手をすれば、自分も戦いますと言いかねない。もし彼女に戦闘力が備わっているとしたら、一緒に戦ってくれたほうがありがたくはある。だが、見たところ、相手は戦闘慣れしていない。ふわふわとした雰囲気をまとっているし、真白以上にどんくさそうだ。だから、進んで退場するのはありがたい行動だが――


「え、本当に、逃げる気なんですか?」

「ええ、神は言っていますもの。私はここで死ぬ運命(さだめ)ではないと」


 両手をクロスして、目を閉じる。

 祈るような姿勢で、少女は答えた。


「あなたは本物の勇者です。ならば、この状況にも対応ができるでしょう。安心して任せられます」

「え、ちょっと、それは……」


 明るく気持ちのよい声で繰り出された言葉に、少年の顔が引きつる。

 彼としては、期待なんてかけてほしくなかった。

 プレッシャーに早くも押しつぶされそうになる。

 どうしよう……。というのが本音だ。

 なぜ、よりにもよって、一人で目の前の危険な女の相手を任せられなければならないのだろうか。たった一人で残されるくらいなら、せめて足手まといでもいいから、誰かにそばにいてほしかった。気分はさながら、罰ゲームで嫌われ者の友達になろうと言う役を演じるような感じだ。

 まあ、自業自得だ。真白自身、シスターの身の安全を第一に考えている。もう二度と、悲劇は繰り返さない。あの、血の海に沈む、元は白かったであろう少女の姿を、何度思い浮かべたことだろう。

 もう、二度と、悲しい思いはしたくない。傷つきたくもなかった。だからこそ、全ての命を守る使命を、真白は受け取った。そんなことはできないけど、世界を救う度胸も実力もないが、それでも、目の前に見える命だけは、すくい取りたい。


「では、私はこれで。後はがんばってくださいね」


 軽い口調でそんなことを言い残して、シスターはスタスタと離れていく。

 彼女のステップを踏むような足取りは、なんともふわふわしている。

 その姿は、古びたビルの建ち並ぶ通りへ消えていった。


「ようやく行ったか」


 声がちょど、真正面から飛ぶ。

 真白は相手と距離を取る。

 一体の蛇を倒したところで、相手の腕には複数の個体がからみついている状態だ。倒しても倒しても、切りがないだろう。

 さて、問題はここからだ。


「私は貴様を殺すときを楽しみにしていた」

「理由はなんですか?」


 眉をひそめて、訝しむように尋ねる。


「僕が、どうして? まだ、なにもしてませんよ? まさか、勇者を演じたことを、根に持っているんですか? さすがに器が小さすぎますよ」


 雰囲気を和ませるように、あえておどけて見た。

 だが、案の定、火に油を注いだようだ。

 ミドリは眉間にシワを寄せて、額に血管を浮き上がらす。

 緑色の瞳が電光を走らせ、今にも炎を放ちそうだった。


「ああ、そうか。貴様は本当に白を切るつもりか? 私は貴様に対して、本気で怒り狂っている。この感情はもはや、怒りと呼べる次元ではない」


 いったい、なんのことだろうか。

 腕に巻き付いた蛇がうねって、今にも襲いかかりそうな躍動感を放つ。大きな口を開いて、牙をむき出しにする。噛みつかれてはひとたまりもない。真白はじゃっかんひるみながらも、相手との対話を試みようとする。


「本当に申し訳ないと思うけど、僕はなにもしていない。いったい、なんの話ですか?」

「とぼけるな。貴様は、自分がなにをやったのか、覚えていないのか?」


 覚えていないから言っているのだと、内心であきれる。

 なんというか、錯乱していそうだ。これでは話が通じない。こちらの言葉がハッキリと伝わっているのかも、定かではない。

 どうしたものか。

 今すぐにでも逃げてしまいたいところだが、それが相手が許すとは思えなかった。

 本格的に手詰まりだ。どうしようもない。生き残る術を探したところで、まずはミドリをなんとかしなければ話にならない。どうしろと言われても、戦うしかないのだろう。


「念のために聞くけど、逃してはくれない?」

「許さない」


 やはり、そうきたか。

 真白は内心で唇を噛む。


「私は貴様のために全てを滅ぼす覚悟でいる。もしも貴様が逃げるというのなら、この町の、いやこの国全てのものを消し去る」


 脅し文句にしてはスケールが大きすぎる。

 それでも、蛇を操る異能を持つ彼女なら、可能なのだろうか。

 イマイチ想像もできないけれど、この脅しを聞いて、無視できるほど真白は人でなしではない。

 正確にいえば、彼は冷淡な性格をしている。ただし、他人にどう見られているのかは気にする。だから、善行もするし、悪行はしない。

 もしも、ここで全てを投げ出しては、真白は全ての人間たちから批判を受ける。ならば、仕方がない。

やるしかない。そう自分に言い聞かせた。


「やっぱ、そうか。戦うしか、ないんだよな」


 自分自身に言い聞かせるように、つぶやく。

 思えばずっと、逃げてばかりだった。

 戦うことから、世界を救うことから。そんなことはできないと、自分は勇者ではないと思い込みたかった。彼は偽物の勇者を名乗ることを嫌っている。それはきっと、偽物にも関わらず本物になりきろうとする姿が、滑稽だったからかもしれない。正確なところは分からないけれど、少なくとも、真白にとってはそうだった。

 だが、たとえ偽物であったとしても、目の前の相手を黙らせることができるのなら、立ち向かうしかない。今、この状況で真白しか戦える相手がいないのだとすれば、進むだけだ。

 自分の正体はこのさい、関係ない。彼が覚悟を決めなければ、世界中の全ての人間が危機にさらされる。その可能性が一ミリも残っているのなら、誰だろうが、阻止をするために挑む必要がある。そのための力を、真白は持っている。

 自分の正体がなんにせよ、選択肢は一つしかなかった。


 一度目を閉じる。

 深呼吸をして、精神を押しつかせる。


 シスターは確かに真白を勇者だと認めた。その根拠は分からない。あっさりとした手のひら返しに戸惑っている。だけど、ちょうど今、水晶の剣を手にしている。オモチャの剣がどこまで通用するのかは分からない。それでも、不良を倒したという実績のある武器だ。今の自分なら、いけるだろう。

 決意を胸に、目を開く。

 オニキスのような曇りのない瞳で、相手を見つめる。

 そして、緑色の瞳は深く淀んでいた。憎しみに体を支配されて、今にも精神が乗っ取られそうになっている。さながら、発狂をしたアンデットのような洋装だ。半笑いを浮かべて、ケラケラと笑うその姿に、かつての女優の面影はない。


 救わなければならないのは、目の前の命だ。

 国民全てと天秤にかけるわけではないが、ミドリだって苦しんでいる。なにがどうしたというのかは分からないけれど、とにかく、理由があって真白を襲おうとしている。ならば、それを聞き出す。そして、問題を解決する。真白に課せられた使命は、以上だ。


 真白は剣を構えて、相手を見すえる。

 こうなれば、妥協するしかない。

 自分一人の命ならばどうでもいいと割り切れたが、今回は違う。他人の命がかかっている。いつも以上に本気でやるしかない。

 自分の実力は過信しない。慢心しては、全てが終わる。ミドリの戦闘力は未知数だ。だが、相当な実力を持っていることはうかがえる。暗殺を実行できるくらい、肝も座っている。一見すると、勝ち目は薄い。

 真白の心は、ただの一般人だ。辛口で批評を受けただけで砕け散るレベルの、ガラスのハートだ。戦闘をする意思はあっても、人を傷つけられるメンタルがなければ、話にならない。真白はまだ、人を殺しては、いなかった。

 だが、それでも、もう後戻りはできない。

 無関係の人は、これ以上巻き込みたくなかった。

 たとえ、この行為で自分の人生が無残にも食い荒らされることになったとしても、ミドリを止める。危険を犯して、生存する可能性を減らしてでも、やるしかない。

 これが、勇者に課せられた使命だ。

 真白は、それに従う。

 同時に、彼の心には一つの可能性が生じていた。それは、花咲彩葉に関してだ。自分の知らないことを、目の前の女は知っているのではないだろうか。それを聞き出したい。その意思が固まった。

 だから、誓った。

 必ず彼女を、まっとうな状態に戻すと。それが自分のせいで、壊れてしまったのだとしたら、余計になんとかしなければならないという気持ちが高ぶる。

 そうだ。なんとかする。自分はそれをしなければならない。そういう義務があった。


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