第2話

 武器を取ったのはよいものの、やはり重い。手にずっしりとくる重さだ。これを振り回すとなると、至難の業で、体勢を崩さないようにこらえるだけでも精一杯だ。


「でもお前よ、そんなナマクラ、いらないんじゃないか?」

「ナマクラァ!?」


 後ろのほうでとんでもない発言が耳に入った気がするので、思わず振り返る。


「まさかこれ、役に立たないとでも言うんですか?」

「ああ、そうさ。だからお前に渡したんだ」

「そんな外道な……」


 ハッキリと絶望的なことを聞かされて、へこむ。

 肩を落として、ぼうぜんとする。

 刀の重みがさらに増して、なにもかにも押しつぶされそうになった。

 とはいえ、そんなことをしている場合ではない。目を真っ赤に血走らせた殺人鬼が向かってくる。彼は人間ならば誰でも構わないとばかりに、剣を振り回す。無差別だ。老若男女は関係なく、無機物であると視界に入るものならすべて、なぎ倒してしまう。今も、街路樹が切断されて、シルバーグレーの道路に横たわる。ずっしりと重みのある音が鼓膜こまくを揺らす。自分も樹木と同じようにあっさりと斬られるのではないかと想像すると、背中にゾクッと戦慄が走る。ほおを汗が伝う。手のひらがやけにぬめぬめする。

 状況は悪い。勝てるビジョンが浮かばない。それでも、やるしかない。

 汗が消える。蒸発したかのように一瞬でなかったことになり、さらっとした風が皮膚を撫でる。真白は一歩、足を前に出す。敵も勢いに任せた状態でこちらへ向かい、青い宝石のついた剣を振り下ろす。その剣筋は剣道に似ていた。西洋の剣が似合いそうな戦い方だ。

 果たしてうまくやれるだろうか。背中に冷たいものを感じながらも、引き締まった顔をして、向かい討つ。

 剣と剣がぶつかり合う。

 火花が散る。

 やはり、相手の力のほうが強い。

 押しつぶされそうになる。

 それでも、斬られはしない。

 とっさに距離を取る。


「しかし、なんだ、あの男は?」

「あの動き、なにかに操られているようにしか見えない。見ろ、あの目を」


 貴重な情報を得られたような気がするけれど、今はそれどころではない。目の前の敵に集中する必要がある。とにかく、相手から目を離すわけにはいかなかった。

 敵が動く。

 斬りかかってくる。

 動きを見て、見事なタイミングで受け止めた。

 どちらかとうと、操られているような感覚を覚えているのは、真白のほうだ。戦闘経験はないはずなのに、体が勝手に動く。空白の記憶から知識を引っ張り出すような感じだ。混乱して取り乱しそうになる頭とは対照的に、体は冷静だ。そのアンバランスさが奇妙で、何者かに憑依されているのではないかという疑惑がある。

 そのとき、相手の手のひらから黒い闇のようなものが湧き出していることに気づく。

 真っ先に気づいた真白が目を見開く。

 敵が動くよりも先に、後ろへ下がる。

 距離を取った。

 気がつくと、息が乱れていた。

 命の危機を紙一重で回避したようなスリルを味わいながら、前を向く。

 まだ、戦いは終わっていない。

 そればかりが、闇は昼の空を埋め尽くすかのごとく、凄まじい速度で迫る。

 その正体は分からない。相手がなにをしたのかも理解できず、脳が混乱する。それでも、直撃を喰らえばひとたまりもないことは分かる。

 不意に脳内をよぎったのは、炎に包まれたアジトだ。

 炎の原因は真白の視点からはつかめない。とはいえ、今、目の前に魔法使いらしき男がいることを考えると、おのずとなにが起きたのかは分かってくる。

 それでも、やはりというべきか。脳内で冷静に情報を処理する余裕はない。

 闇が迫る。

 空気を侵食していく。

 逃げなければならないと思った。

 すべてを投げ出して、背中を向けたくなる。

 それでも、足が地面に張り付いたかのように動けない。

 本当は戦う必要はなく、野次馬たちのことなど気にする必要もなかった。彼らに対する感情は特にないし、赤の他人が自分の知らないところで殺されたとしても、所詮は他人事だ。しかれども、真白はきれいな人間でありたいと願っていた。だから、善意をふりまく。そして今も、逃げられずにいる。

 命の危機を前にして、下手に動けない。

 素直に降参ができれば、どれほどよかっただろうか。

 とにかく、剣ですべてを対処するよりほかはない。

 真白は挑む。

 漆黒の闇を切り裂くように、剣を振るう。

 銀色の線が黒い霧を破ろうとする。

 けれども、通用しない。

 剣だけでは、実体のないものを倒せない。

 圧倒的な絶望感。もはや、どうしようもない段階まできている。完全に、詰んでしまった。

 思わず、剣を落としそうになる。

 死のビジョンが頭に浮かぶ。

 汚れた地面に倒れる自分の姿を思い浮かべる。そして、それを払拭できずにいる。

 闇が体に直接する。

 近くで悲鳴が上がった気がした。

 周りの雑踏がやけにハッキリと耳に入る。

 野次馬たちが逃げていく。

 見物している場合ではないと察したらしい。

 一方で、真白の心に後悔が生まれた。自分も一般人だ。人の手にあまるようなことを、自力で解決しようと思うのではなかった。不可能だと思うのなら、やらなければよかったのだと。なにごとも、最悪の事態を迎えてからでは遅い。敵わないと分かった相手であれば、逃げるのが正解だ。また、選択をミスしてしまった。

 ところが、真白は死ななかった。

 ケガすら負っていない。体には傷一つついておらず、完全なる無傷だ。

 どういうことだと、首をかしげる。

 自分の身になにが起きたのか、理解ができずに硬直する。

 されども、相手は止まらない。

 闇の魔法が通用しないと分かると、戦闘機のような速度で突っ込んでくる。

 真白もすぐに顔を上げて、なかば強引に体を動かす。

 使えない刀は放り投げる。

 夢を見ながら目を開けるような感覚で、両手を突き出す。

 先に、剣を振り上げる右手を抑える。

 次に、左の肩に触れた。

 途端に相手がおとなしくなる。

 次の瞬間には敵意が消えて、白目に毛細血管のよう広がった血の色も引いていく。


「あれ、俺は……いったい……?」


 洋風の格好をした彼は、夢から覚めた直後のように、純真無垢な顔をする。

 それはこちらのセリフだ。

 いったい、なにがどうして、このような事態になったのだろうか。

 相手の体から力が抜けて、剣が地面を転がる。

 近くにやってきていた人たちが、妖しげな武器を見て、距離を取った。

 みなは安全圏から眺めながら、持ち主の手から離れた剣を見下ろす。

 一方で、目の前にいる男は質問に対する答えを求めていた。そちらならなにかを知っているのではないかと問いかけてきそうな目をしている。彼は本当になにも覚えていないのだ。とぼけた様子でもなく、瞳は先ほどからは考えられないくらい、澄んでいる。


「えっと、その……僕にもなにが起きたのか、よく分からないし」


 頭をかく。

 彼の視点からすると、一か八かで相手を取り押さえようと頑張ったら、なぜか勝手に向こうがおとなしくなったという雰囲気だ。

 そもそも、なぜ相手が暴れていたのかも分からない。

 剣が原因だろうか。地面に転がった獲物へ視線を送る。

 見た目こそ普通であるが、青い宝石がついているあたり、ただの剣ではないとうかがえる。自己主張こそしない大きさではあるものの、神秘的な青い光は無機質な町並みの中でも非常に目立つ。

 

「ああ、なるほど。ここにいたか。ったく、俺が関わるとろくなことが起きねぇな」


 不意に、聞いたことのある声が耳に入る。

 振り向くと、人の波をかき分けるような――むしろ、周りの人々が勝手に道を作って、その中を一人の男が進む。その様子はまるで、海が目の前で割れていくかのようだった。


「そいつは妖刀だ。生半可なやつじゃ、取り憑かれて、殺戮に走るんじゃねぇの?」


 男が足を止めた。

 真白はへこたれたようにかがみながら、彼を見上げる。

 目つきの鋭い男だった。常磐ときわ色の和服も相まって、侍のような雰囲気がある。背中にも一本の剣を背負っている。よく見ると、赤い宝石のついた刀だ。屈強な肉体が服の上からでも分かる。顔は強面で、睨まれるだけで死んでしまいそうだ。


「君は、花咲彩葉のアンチですね」

「アンチじゃねぇよ。ただの客だ」


 名を、なんといっただろうか。

 少しばかり頭をひねって、過去の記憶をたどる。


「鎧塚武将たけまさですよね」

「他人の名前を呼び捨てにしてんじゃねぇよ」


 文句を言われたところで、内心で呼び捨てにするのがデフォルトであるため、仕方がない。

 相手が訂正を求めてこないので、フルネームは合っているのだろう。


「それで、この人はいったいなんなんですか?」

「ただの客だ」


 鋭く尖った瞳が、硬質の光を放つ。

 彼の目線は地べたに座り込んだ、なにもかもを忘れている男に向けられている。


「客ということは、商売相手。それで、君の職業は、いったい……?」

「そこのナマクラばっかり作ってるやつと同じだよ」


 指で示されたほうを見ると、先ほど刀を提供した者が休憩していた。彼は古びた石のイスに座って、煙草を吸う。天井まで紫がかった灰色の煙が立ちのぼっている。

 要するに鎧塚の職業も彼と同じ、刀を作る仕事だ。

 同じ装飾のついた武器を背負っているところからなんとなく読めてはいた。


「つまり、売ったんですね? よく客に提供できますよね、そんな剣。明らかに妖しいものが取り憑いてましたし、妖刀ですし」

「なに全部知ったような口で言ってんだ。俺はな、いちおう持ち主に確認は取ってるんだぜ。それでも相手がよこせというもんだから仕方なくな」


 本当は意地でも買わせるつもりだったのではないだろうか。

 彼が原因で辻斬りが発生した可能性もあったため、罪は重い。そろそろ警察に出頭するべきではないだろうか。


「そいつに聞いてみりゃいいじゃねぇか、くわしくよ」


 やけに冷めた目つきで、現在の妖刀の持ち主を見下ろす。

 そこまで潔癖を主張するのなら、確かめるしかない。


「あの、いったい、なにをしたかったんですか?」

「ああ、それなんだが、俺は、恋人を殺したくてな」

「え……」


 思わぬ答えが返ってきて、硬直する。


「あいつ、浮気をしてるんだ。俺のことを財布としか思っちゃいない。だから、目にものを見せてやろうと思って。ついでに、その浮気相手も殺して、もうなにもかも、きれいさっぱり無にしたかったんだ」


 淡々と、他人事のように語る。

 その内容は妙に殺伐としていて、血なまぐさい。

 なるほど、完全に黒だ。妖刀騒ぎに関しては、購入した本人にも問題はあったと判明して、なにやら乾いた笑いが出てしまう。


「でも、なんだか今は落ち着いているんだ。気持ちも晴れやかで、なにも起きていないみたいで。どうして昔、あんなに怒っていたのかすら思い出せない」


 その様子に恨みや憎しみといった感情は出ていない。

 彼は正直にありのままを話しているようだが、イマイチ釈然としない。いくら妖刀に感化されていた部分があったにせよ、短時間で人が変わりすぎではないだろうか。先ほどまで無差別に殺戮を繰り出しそうな見た目をしていた者とは思えない。今はどこにでもいそうな青年であり、妖刀を奮っていた者は別人か別人格ではないのかと疑ってしまう。

 いったい、なにが起きたというのだろうか。

 憎しみなど、そう簡単に失せるものではない。妖刀を手放したくらいで負の感情が和らぐとも思えない。それなのに、なぜ目の前にいる青年は人が変わったようになったのか。

 首をかしげる。

 真白が抱いた疑問は解決することなく、やがて日がくれようとしている。見物客が引いて、入れ替わるような形で武装を固めた戦士たちがやってくる。彼はおとなしくなった青年を取り押さえると、流れるように署まで連行していく。

 本人もきちんと反省をしている様子で、抵抗をしない。暴れもせずに、ただ、周りの大人たちに従うのみだ。

 彼らの背中が遠くなっていく。この場に残った真白は、どことなく気まずそうに頭をかく。

 なんだか、悪いことをしたような気分だった。妖刀の持ち主はひょっとしたら操られていただけで、本当は人を斬るつもりなどなかったのではないだろうか。だからなにもかもを忘れていたし、恋人に対する恨みも戦闘が終わった途端に失せたのだ。

 無実の罪で捕まるようなものだし、たまったものではない。真白もできれば、同じような立場になりたくないと考えていた。


「そ、そうだ。妖刀、どうするんだ、これ」


 地面に転がったまま放置してある剣を見下ろす。

 今のところ、誰も回収する様子は見せないけれど、いずれは処理しなければならない。同じ場所に残していれば、いずれ誰かが拾って新たな悲劇が発生する。


「お前が回収すりゃ、いいじゃねぇか」

「え、イヤですよ」


 軽い気持ちで繰り出された提案に、即答する。

 なぜ、そのような危険なことを言うのだろうか。

 もしも妖刀に触れてはどうなるか分かったものではない。

 一度つかんだだけで操られて、人生は暗黒に閉ざされる。そのようなことは避けるべきだ。


「お前ならいける。実際、気づいてんだろ? お前はな、普通の人間じゃねぇんだよ。いろんなものを浄化する力を持ってやがる。だからさっき、闇に触れたときも問題はなかったんだ」

「え、ちょっとまってください。なにを、スラスラと、登場人物の設定を語るような風に」


 唐突に自分の正体を突きつけられて、混乱する。

 目を丸くしながら、彼に近づく。

 脳内では先ほどの情報を処理しようと試みるも、失敗する。普通の人間ではないなんて受け入れられないし、なにより自分の能力の詳細など、一度説明されただけでは頭に入ってこない。なにより、なぜ相手は知っているのだろうか。真白本人すら知らない能力の詳細を。


「言っただろ。見ていたって。さっきの戦いをみりゃ、確信に至るのは造作もねぇ」

「さりげなく言ってますけど、つまり、見殺しにしようとしてたってことですよね」

「ああ、そうだ。この世に必要のねぇやつはさっさと消え失せな」

「それはいいんですけど、問題は僕に関してですよね」


 売られたケンカをさらりと流しつつ、真白は真剣な顔で問いを投げようとする。

 あっさりとした少年の反応に、鎧塚は不満そうに舌打ちをする。


「さっきのセリフ、本当なんですか? 妄想とかじゃ、ないですよね」

「真実だ。お前は少しは自分の頭で考えてみやがれ。今までだって、似たようなことは起きてんじゃねぇのか? ああ、なにも起きなかったとは言わせねぇ。とにかく、いつまでも現実逃避してんじゃねぇよ」


 正論だ。

 真白自身、身の回りでなにも起きなかったわけではない。

 たとえば、初めて彩葉の別荘に足を踏み入れたとき、汚れていた廊下や玄関がなにもしていないのに勝手にきれいになった。洗い物も手を取った瞬間に、ピカピカになる。皮膚に汚れが付着しないため、本当は体を洗う必要すらなかった。

 考えてみると、切りがない。

 明らかに特殊な能力を持っていなければ説明のつかない出来事が、頻繁に起きていた。


「言っとくが、俺は本当の意味で無実だ。ただ、妖刀をどうしてもというから譲ってやっただけだ。青い宝石のついたやつを買っていったやつは、刀を持つ前からどうしようもねぇ性格だった。すべてを他人のせいにして、裏切られたと思ったら素で殺しにいくようなやつだ。まあ、妖刀に支配されて、誰でもいいから殺したいという欲に駆られて動いていたって事実は、否定しねぇがな」


 罪は半々といったところだろうか。

 相手が正直にすべてを話しているとは思えないけれど、見えている地雷を購入した客も悪いということになる。妖刀に操られている前からどうしようもない性格だったのなら、自業自得とも言えるだろう。


「でもあの人、まともそうな人間でしたよ」

「そいつはお前が浄化したからだ」


 あっさりと答えられたけれど、なにを言っているのかさっぱり分からない。

『浄化』――それが真白という少年に備わった能力名だとでもいうのだろうか。


「お前が触れると、悪の心すらきれいさっぱりなくなるのさ。闇を払ったのもお前の能力だ」

「へー、まるで聖女みたいですね」

「自分のことを女だと勘違いしてんのか? しかも聖女だと? 気持ち悪ィな」

「本気じゃないです。引かないでくださいよ」


 彼自身、特別な人間であると思っているわけではない。ましてや聖女など、畏れ多い。それでも、浄化と聞かされるとそのような単語しか思い浮かばないのも事実だ。


「とにかく僕がいると、犯罪も撲滅できるってことですよね。これで誰も苦しまずに済むと」

「やれるもんならやってみた。俺は関与しねぇよ」


 さすがに全ての罪を消しに全国を走る気力はない。

 それでも、楽に犯罪を阻止できるのなら、それに越したことはないだろう。

 真白の心に、ほんのりと勇気が湧いてきた。


「あー、そうだ。あの、君、ケガはないですか?」


 唐突に、人斬りに追われていたシスターのことを思い出して、彼女のほうを向く。

 相手はなにやら目を丸くしたまま、硬直している。


「おーい、大丈夫ですか? 聞こえていますか?」


 こちらの声は聞こえていないようだ。目の前で手を振っても、反応しない。まるで石像にでもなったかのように固まっていて、大丈夫か? と素で不安になる。

 石化を解く術を知っている者を探そうかと本気で思い出したころ、不意に両腕を掴まれる。


「あ、あなたは、まさか……伝説の、勇者ではなくて?」


 気がつくと目の前に、シスターの顔があった。

 彼女は生気を取り戻したような顔をして、キラキラと目を輝かせる。


「僕が、ですか? そんなの、ありえませんよ。僕はただの人間で」

「ですが、先ほどの戦いを見る限り、そうとしか考えられないのです」


 熱く語るけれど、真白の心は冷めていた。

 彼からすると、自身が特別な人間であることなんて、考えられない。

 いままでも誰かを救えたわけではないし、むしろ守られる側にいた。そのような人間が勇者だなんて、到底思えない。


「覚醒、したのではないですか? なんらかの事象がトリガーとなって、いままで隠れていた能力が表に出たのです」


 能力自体は彩葉と同居を初めて間もないころから存在した。表に出て活躍したのはたった今ではあるものの、関係はないだろう。

 灰色の表情をしている真白に対して、相手の気持ちなど知ったことではないとばかりに、シスターが盛り上がっている。


「私は知っています。夢を通して、神さまの顔を拝見したこともあります。確かに、覚えているのです。神さまの顔は、あなたと瓜二つでした」


『あなたと、瓜二つ』


 脳内でシスターの言葉を復唱する。

 急に冷水をかけられたような感覚がした。

 まさか、そんなはずはない。

 目を丸くしたまま、硬直する。

 ぎこちなく相手と視線を合わせにかかると、シスターは満面の笑みを浮かべる。


「ようこそ、勇者さま。ここげ現世です。よくおいでくださいました」


 彼女はなにもかもを信じて疑わないといった雰囲気で、真白を歓迎する。

 そのノリについていけない。

 自分が勇者であるという事実など、あっさりと受けいられるはずがない。

 ありえないと、なにかの詐欺ではないかと疑う。

 自分が特別な存在だと――誰かの役に立てるような能力を持っていると――そのような都合のいい展開が起こってたまるものなのか。

 それでももしもおのれが真の勇者だとするならば、暗闇に閉ざされた未来を変えることができるかもしれない。

 もっとも、大切な存在を救えなかった事実は変わらない。勇者ならばきっと、彼女も救われたはずだ。

 真っ黒に染まった脳裏に、血まみれに倒れる白い少女の姿が浮かぶ。

 苦虫を噛みしめるような表情をして、真白は拳を握りしめて、震わす。

 自分の正体がますます分からなくなる。

 いちおう、いままでの自分は勇者として覚醒していなかったと言われると、そうかもしれない。彩葉の死を経験したことによって、心の中に存在した楔が外れて、能力の制御がなくなったという可能性もある。

 もし、そうなら……せめて、彼女が死ぬ前に覚醒していたかった。そうすれば、たとえ、運命に決められていたことであったとしても、救えた可能性があった。

 否、結局のところ、運命は絶対なのかもしれない。たとえ勇者であったとしても、花咲彩葉という少女だけは救えない。

 それでも、もしも、真の勇者になれたのなら、これから先の悲劇を回避することもできるはずだ。

 胸に確かな希望を抱く。

 シスターの言葉を肯定したいという気持ちと、否定せざるをえないという理性が、胸中でせめぎ合う。できるのなら甘い幻想でもいい。自分も勇者でありたかった。それが叶わなかったから、彼は今も落ちこぼれたままなのだ。

 なにかを成し遂げなければならないというプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、真白は顔を上げた。

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