第13話
しばらくの間、ぼんやりとしていた。
気力が湧かず、体もクタクタで、立ち上がれる気がしない。
ぼうっとしていると、鉄の臭いが鼻孔をかすめる。手のひらは真っ赤になっていて、洗っても落ちなさそうだと思わせられた。
頭は空白に染まっている。いままで自分がなにをしてきたのかすら曖昧で、なんのために自分がここまでやってきたのか分からなくなった。
それでも一つだけ、理解している。血の海に転がっている少女は、もう二度と目を開くことはないということを。
「ここにいたか、なるほどな」
足音を背後で聞いて、ぼんやりと振り返る。
いつの間にか入り口が開いていて、血の飛び散る床の上に、黒紅色の衣装をまとった男が立っていた。一瞬だけ、敵が現れたのかと思って身震いしたけれど、すぐに冷静さを取り戻す。
「なんですか、その服」
「奪ったのさ。悪いか?」
「いいえ」
保身のためなら仕方がない。
おおかた、敵にまぎれこんで隠れながら逃げるという算段だったのだろう。
「さっさと行くぞ、いつまでもここにいるわけにはいかんのでな」
ボサボサの頭をかきながら、その男――涅影丸は前進する。
「ちょっと、待って、ください」
そのまま真っすぐに壁のある方角へ進む彼を、呼び止めた。
「んだよ?」
「そこ、なにもありませんよ」
「あるんだよ」
男が手をかざす。
すると、無地の壁の一部が陥没する。そして、ドミノのように壁は倒れて、床に空いた穴にスッと落ちた。
隠し扉。
目の前にあるそれは、確かにそうとしかいえないものだった。
なお、すぐにはそうだと思いつかず、真白はしばらくの間固まってしまった。
彼が棒のように突っ立っていると、涅は勝手に通路へ出ていこうとする。こちらの心情などおかまいなしで、この空間で死んだ少女のことなど気にしてはいない様子だ。そんな態度に釈然としないものを感じつつも、真白は気を引き締めて、後を追う。
最後にもう一度、振り返る。真っ赤な床の上に倒れている少女は、やはり、動かない。
彼女の姿が遠くなっていく。
もう二度と会うことも、建物に戻ることもないと、実感する。
そうして彼らはアジトを後にして、外に出た。久しぶりの空気を吸う。やはり、田舎よりも清涼さが欠けている。それでも、鬱屈として気分を和らげるには十分な効果があった。
それから二人はあらかじめ決めておいた宿の個室に泊まる。
空はいつの間にか漆黒に染まっていて、無数の星がちらちらと瞬いていた。
彼はベランダでぼんやりと夜空をながめる。
心は虚無だ。大切な人の死を経験したはずなのに、嫌というほど落ち着いている。
抱いたのは哀しみでも怒りでもなく、底のない喪失感だ。
ただ明確に、なにかを失ってしまったという感覚は、胸の底から喉元までこみ上げてくる。
復讐心は心に宿らず、真白はいつまでも腑抜けたままでいる。悔しいとは思う。だが、それでもどうにもならなかったのが事実だ。自分がもしも完璧だとして、確定された死をなんとかする方法など、あったのだろうか。同時に、このままでは終わらせられないという気持ちがないわけではない。けれども、相手はおそらくは魔王だ。彩葉は魔王と戦って、破れた。いわゆる決闘と呼ばれる代物に、外野がとやかく言う資格はないだろう。それでも、尋ねてみたかった。あのとき、なにを思ったのか。どのような経緯で二人は戦うことになったのか……。
また、自身がずっと前から空虚であったのは、彼女の死を見たからだと思い出す。
今も、むなしくてたまらない。心が空っぽになって、冷たい風が吹き抜けていく。
果たして自分は、彼女を愛していたのだろうか。恋愛経験のない真白にとっては、そのような感情がどのようなものか知らない。ただ一つ言えるのは、彼が他人を愛した経験のない人間だったということだ。他人に対して無関心だから、恨まない。ただ、それだけのことだったから、きっと、自分は人を愛せない人間なのだと、思い込んできた。だから、自分の彩葉へ対する気持ちは恋でも、愛でもない。いいようのない気持ちだ。少なくとも、真白はそのように考えていた。
結局、ゲームは曖昧なままに終了した。今回は花咲彩葉の死亡で幕を閉じたというところだろうか。真白は主役にはなれなかった。本来の目的である魔王の討伐なんて、できていない。守られて、捕まって、逃げただけだ。なんの成果も上げられていない。自分の無力さを痛感した。このままではいけないと分かっている。それでも、まだ一歩、踏み出せない。ただ今は、なにもかもを失って、前に進む気すら湧いてこない。
夜の闇は深くなっていく。真白は部屋に戻ってベッドに横たわると、まぶたを閉じた。
眠れない。しばらくの間、余計なことを考えすぎて、頭が冴えた状態になる。それでも、目を閉じ続けるしかなかった。何度も何度も、七色の女優と過ごした日々が頭を巡る。彼女の死が、万華鏡のように繰り返し、脳内に再生される。何度も見た、その光景を、また突きつけられた。もう、発狂しそうだ。全てを忘れたい。記憶の一部だけを削除して、なにも見なかったことにして日常に戻りたい。されども、そんなことは叶うはずもない。全てを受け入れて、踏み越えて、先へ進むしかない。それは分かるのに、乗り越えることなどできない。彼女の死が、今も頭に焼き付いて離れずにいる。
根拠もなく、ずっと一緒にいられると思っていた。だから、彼女が敵だと知って、騙されたと知って、ショックを受けた。だけど、もっとショックなのは、彼女がもう、この世にいないということだ。当たり前にあるはずだった者がなくなって、今は心に空白がある。この目で彼女の死をきちんと目撃したはずなのに、まだ、嘘ではないかと夢ではないかと思っている自分がいる。
ほかはともかく、彼女だけは永遠に失われるはずがないと、思っていた、はずなのに……。
唇を噛む。思いを噛み締めた。
それはあまりにも突然すぎて、心に現実が、追いついていかなかった。
あの声が、あの顔が、あの笑顔が――もう二度と、見られないなんて……。
ああ――できるのなら、彼女には、ずっと一緒にいて、見守っていて、ほしかった。
それから、いよいよ疲れて限界になったのか、強制的に真白は深い眠りに落とされた。
次に目を覚ましたとき、空は青灰色に曇っていた。
ポストには手紙が投函されている。差出人は、花咲彩葉だった。彼女の名前を見た瞬間、目を大きく見開いた。頭を覆っていた雲と霧が晴れたような気がして、飛びつくように中身を確認する。
『真白くんへ。
指定された宿に届くように住所を書きました。そのときには私はきっと、この世にいません。実は、そのことをきちんと知っていました。
人の未来を観測する能力を持った存在を、知っていますか? 私は彼に頼んで、一年分の未来を読んでもらいました。結果は今年の三月末で途絶えていました。聞いた話によると、その占いは未来を確定させる力を持っているそうです。だから私は悟りました。どのような経緯になるかは不明ではあるけれど、確実に自分は死ぬのだと。
私が魔王の仲間になったのは、スパイのようなことをするためです。『のような』と言ったのは、本当はスパイでもなんでもなかったからです。というのも、私は、私個人のために、魔王を裏切る気でいました。私には、成し遂げたい目的がある。それは、王権の奪還です。
だけど残念ながら、詳細は教えられません。君にはまだ、話すのは早いのです。
かわりに言いますと、私には過去がありません。記憶を失っていました。最初の記憶は、とある島に流れ着くところから始まります。その自然が豊かな絶海の孤島には、二人の夫婦が住んでいました。
彼らはとても優しく、私の無彩色の髪と瞳を見ても、愛を注いでくれました。後に、私は聞きました、自分の正体を。夫婦は答えました。
「君は悪魔の血を引く一族とされている。その髪と瞳の色は、その証だ。もっといえば、変化の術を持ち、異能を使うさいに瞳がその色に輝けば、確定する」
ハッキリと、隠しもせずに告げました。
そして、彼らは言います。
「それでも、君は君だ。悪魔の血を引く者がたとえ悪だったとしても、全ての命は平等だ。邪険に扱う理由がない」
夫婦はそう、断じてくれたのです。
私の一族は呪われた一族でした。一度悪魔に魅入られたことにより、一族に異能を与えられました。それは特異な性質を表しています。さらにいうと、汚れた者だともされていました。一族が他者と交われば、呪いは伝播します。だから私たちには人を愛する資格がない。誰かを愛するという好意自体が、罪になるのでしょう。
それでも私は、あなたを愛してしまった。
真白という名の少年と近くにいると、完璧だったはずの自分の芝居がひどくもろくて、不完全なものだと気付かされます。自分の嘘がいつバレるのか不安で仕方ありませんでした。同時に気づいてしまいました。私が本能的に彼を求めていると、自分にはない本物の白さを求めていたのです。
私は完全な白を求めていました。それになれたつもりでいました。けれども、実際は違う。白く見えているだけで、実際はありとあらゆる色を内包しています。それが光の反射によって白く見えているだけであり、本物にはほど遠い。
ずっと、騙していました。あなたに近づいたのは、魔王にそう命令されたからです。彼女は自分の城に勇者を連れてくる計画を立てていました。そのための駒として動かされました。そんな私は、いい子だと思わせておきながら、本性はとんだ性悪です。自分の核となっているのは悪魔の一族としての能力――世界から嫌われた、排除すべき人種です。こんな者は、近くにいるべきではありません。
もっといえば、恨んでほしかった。だけどあなたは私を許しました。あなたとしては自分が悪いということにしておけば全てが解決すると思ったのでしょう。だけど、私はそれこそ、許せなかった。
なにをしても無駄だと、分かっています。それでも、まだ、なにかを成し遂げたかった。だから私は私のために、最後の舞台を演じます。そして、あなたを逃します。
だから、どうか、覚えていてください。血のような赤色に染まった私こそが、真実なのだと。
ごめんなさい。私はあなたからなにか大切なものを奪っていく。それなのに、こちらからはなにも残せない。
最後に、感謝します。一緒に過ごした時間は楽しかった。
とても満ち足りた、日々でした』
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