第8話

「よく覚えていたな、俺の名を。しかし兄ちゃん、いけないぜ。俺ぁこう見えてお前よりは年下だ。いきなり仲良くもない相手を呼び捨てにすんのはいかがなもんか」

「あ、あの、すいません」


 今のは無意識の内に口を動かしていただけであって、意図して目の前にいる男を呼び捨てにしたわけではない。

 真白が頭をかきながら謝罪をすると、相手はどうでもいいとばかりに視線をそらす。


「礼儀がなってないぜ、全く」

「いや、ほんと、すいません」


 普段から心の中で色々な人を呼び捨てにしていたため、肝心なところでボロが出る。通常であれば相手との波風を立たないように、温和に接するところが、たった一つのミスによって全てが台無しだ。本格的にやらかしたと悟ったとき、不意と涅は口を開く。


「さっさと行くぞ。お前もボサっとしてんな」

「え、でも、道が封鎖されてるんですよ」

「知るか。んなもん、物理的に突破しちまえば済む話だろうが」


 そう言って彼は腰に携えた剣を抜くと、足元に転がっている黒紅色のかたまりを踏み越えで、前進する。そして彼は、道を閉ざしているバリケードに向かって、刃を一閃した。刹那(せつな)、壁はガラスのように切り裂かれる。真っ二つに割れた断片は地面にたたきつけられて、周囲に重たい音を響かせる。一方で、その様子を黙ってみていた真白は、その発想はなかったと感嘆の意を内心で唱える。また、突然の行動にあっけに取られていて、しばらくの間無言でたたずんでしまう。


「ほら、終わったぞ。ん? どうした、なにかあったのか」

「いえ、別に。あの、すごいですね」

「どこがな。すごいのは俺ではなく、剣のほうだ。いや、大したもんだ。さすが、世界一の鍛冶屋から奪った甲斐(かい)がある」


 涅は刀身を上に向けて、そこから放たれる稲妻のごとき光を見つめて、満足そうな顔をする。


「それにひきかえお前はなんだ? 不可能だと決めつけてあきらめやがって。これだから最近の若い者はひ弱なのさ。お前みたいななんの役にも立たないような輩はさっさと野垂れ死んじまいな」


 ハッキリいって正論ではあるものの、さすがに言い過ぎではないだろうか。

 真白は肩を落として沈んだ気持ちになっているが、言い返す気配はない。内心も、相手の言葉は正しいと踏んでいるため、怒りすら湧き上がってこずにいる。


「ほら行くぜ。ぼさっとしている暇はないんだよ」


 闇夜の中を、男は移動を始める。あわてて少年の後を追う。相手はついてきているかの確認も取ってくれないまま、自分のペースで足を動かし続けている。

 かくして二人は町を出て、安全と思しきエリアまで逃げてきた。周囲には黒紅色の影は見当たらず、人心地ついたところで、近くにあったベンチに腰掛けて休憩を取る。


「あいつら、魔王の部下であるという事実を隠そうともしていなかったな」

「え、本当に、そうなんですか?」


 顔を上げて、数回ほど瞬きをしながら、尋ねる。


「あんな格好してる連中だ。黒紅色の装束を着ているようなやつは、そうに決まっている」

「確かに僕もぽいなって思ってたんですけど」

「まさかお前、黒バラの女王という異名を知らないのか?」


 釈然とせずにいると、驚いたような声がとなりからかかった。

 黒バラの女王と言われても、いまいちピンとこない。

 真白が素直に「はい」と認めると、涅は大きな声で嘲笑した。


「今どき珍しい。さすがはなにも知らないガキときた。だが特別だ。教えてやろう。黒バラの女王ってのは、魔王の異名だ。文字通り、黒い格好をしているから、そう言われるのさ。もしくは魔女だったか。よく言われるもんでな、この国の地下には魔女が潜んでいるとな」

「地下、ですか」

「いずれお前も行くことになる」


 そういえばいままで地下に足を踏み入れたことがなかったと、真白は思い出す。田舎にも地下道は存在したものの、現在地においては全く見当たらない。まさかとは思うけれど、地下への入り口がないのだろうか。


「で、だ。魔女は自分の部下を同じ色に染めた。いくら黒とはいえ、集団でいりゃあ大層に目立つ。だからな、ああいう輩は魔王の部下以外はありえないのさ」


 自身も内心は確信を得ていたので、彼の考察は否定しない。

 だがそれよりも、真白の中ではもっと気になる問題が存在した。


「彼女は、花咲彩葉はどこにいるんですか?」


 途端に涅が黙り込む。

 頭上では灰色がかった空を雲がおおって、月を隠す。光がさえぎられて、あたりが一層暗くなる。闇の中で相手は真顔のまま回答を繰り出す。


「攫われた」

「そんな、まさか」


 信じられない。

 これはゲームではなかったのか?

 脳内を混乱が満たす。心が波立つ。


「まさかではない。俺がこの目で見たのさ。やつが連れさらわれる瞬間をな」

「じゃあ、あなたは見ていただけなんですか?」

「おっと、人聞き悪いことを言うもんじゃないぜ。俺は間に合わなかっただけだ。逃げ惑うだけだったお前とは、雲泥の差だろ」


 彼にそう言われてしまうと、なにも言えない。

 事実、真白は逃げてばかりだった。未知の敵に立ち向かうことはできず、住民を見捨てた。誰だって自分の命が一番大切だ。命をかけて他者を優先する、英雄のようなマネはできなかった。


「まあ、俺こそが泥そのものなわけだが、するってーとお前はなにか? 泥以下の存在になるのか」

「なんとでも言ってください」


 悪意のある言葉に対して、真白は抑揚のない声で答えたあと、視線をそらす。

 彼としては挑発に乗るつもりはなかった。相手になにを言われたところで、いくら理不尽な内容でもあっても、事実であれば受け入れるしかないと踏んでいる。自分への評価に関してはさほど深刻にとらえずに、受け流す。


「でも、帰ってくるんですよね。全て終わったら」

「お前次第だ。お前が本物の勇者のように強ければ、それで全てが解決する」

「そんな……でも僕は、勇者にはなれないし」


 すでに自分は勇者を演じることをあきらめたのだと、脳内で無意識の内に言葉をつぐんでいた。少年は無表情のまま、唇を一文字に結ぶ。その漂白されたような彼の顔を見てなにを思ったのか、涅は憎たらしい笑みを浮かべて、少年を煽る。


「なにを言っている。お前にその自覚がないから、あの娘は捕らわれたのではないか?」


 なおも真白が無反応を貫いていても、構わず彼は続きを述べる。


「本当はお前も分かっているのだろう、これはすでにゲームではないと。すでに現実をそいつが侵食しているのさ。それを受け入れない限り、どうにもできやしないぜ」


 それは分かっている。自分だって、現実逃避をしている暇はないと、理解していた。それでも、もしもこれが全て嘘であったのならどれほどよかったかと思うのだ。たとえるなら悪夢を見たあとにこれが夢でよかったと思うのと似たような感じで、少年は現在、全てが夢であってほしいと願っている。

 自身がなにかとんでもないことに巻き込まれて、ゲームの敵が現実に現れたのだと理解しても、だからこそ、その現実から目をそらしてしまう。自分は夢を見せられている。ありとあらゆるものが幻であると思いたかった。

 それでも、たとえドッキリを仕掛けられていたとしても、彩葉のことが気になるのは事実だ。どうか、彼女には無事でいてほしい。だから、ゲームの世界だと判明したとしても、少年は必ず少女を助けにいくだろう。むしろ勇者なら、そうでなければならない。だが、今の自分は違う。真白は、ただの高校生だった少年だ。誰かを救うなんてマネはできない。

 彼女と離れて、誰にでも手を差し伸べられる少女の姿が、勇者のように映る。それがなんとも情けなくて、うつむいてしまう。彼女にはたくさんの恩をもらった。居候させてもらったこともそうだし、励まされもした。彼女のために今、なにができるのか。そんなものは決まりきっている。助けなければ、彼女の命を守らなければ、借りたものを返せない。せめて、報いらずにはいられない。この行動こそがゲームから勇者と任命された男に課せられた義務だった。

 顔を上げた。足が震えている。

 不意にビジョンが浮かぶ。開けた空間で、白い床に赤い血を流して倒れている少女の姿を。それは、幻想であると信じたい。考えすぎだと思い込みたかった。だけど、それはあまりにもリアルで、明晰夢よりも現実感があった。

 心が震える。彼女にもしものことがあったら、立ち上がれるような気がしない。彼女を失ったら、自分はどこへ向かえばいいのか、どのように生きればいいのか。

 ああ、完全に依存していた。自分は、もう彼女なしでは生きていられない。きっと立ち上がることすら、自分の足で立つことすらできないのだろう。

 どうしても嫌だった。自分が死ぬことよりも、花咲彩葉という少女が目の前からいなくなるのが。今も、すがりつきたくて仕方がなくなる。もう一度、彼女に慰めてもらいたくて、あの幸福な日々が失われると思うと、体が震えた。

 少年に勇気という概念はない。敵と鉢合わせをすれば、真っ先に逃げ出すような性格をしている。決断力もないし、怖い人に見つかったら守ってくれそうな人間の陰に隠れることしかできない。他力本願だし、今も心の底ではとなりにいる男に全てを丸投げしたいと思っている。


「お前はいいのか? それで。逃げてリタイアすれば自分は無事でいられるが、かわりに――と、言わなくても分かるよな?」


 男は選択肢を投げ込む。

 逃げてもいいし、立ち向かってもいい。

 要は自分を優先するか彩葉を救うことを選ぶかの違いだ。

 なまじ二本の道を自力で選ぶことを突きつけられてしまい、心がぐちゃぐちゃにかき乱される。

 せめて強制されて命令さえ下っていれば、素直に従えた。今は自分の意思で黒にも白にも染まることができる。だけど、真白は黒にだけはなりたくなかった。大切な人を見捨てるなんてマネは、してはいけない。そんな脅迫概念に突き動かされている。それでも、本音を言えば逃げたかった。逃げるか立ち向かうか――その二つの意思を心の内側に秘めている。

 まだ、覚悟が足りない。なにもなかったことにして日常へ戻ってしまったほうがいいと、自分の黒いところが訴えかけてくる。しかれども、日常に戻ったところで自分はどうなるのだろうか。自力で生きていけるなんて思えない。やはり、少年には彩葉という少女が必要だった。

 頭をかきむしって、無造作ヘアをぐちゃぐちゃにする。

 少年はついに結論を出す。

 彼女のためではなく、まぎれもなく自分のために――


「行くよ。僕は、彼女を助けにいく」


 立ち上がった。

 勇気を振り絞るのなら、今しかない。物語の主役になるのなら、このタイミングに限るだろう。今こそが、人生の中で最も輝きに満ちた瞬間だった。

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