第7話

 真白は逃げ出した。ゲームのRPGでもあるまいし、突然出てきた敵に立ち向かうなんてマネはできない。今は命を優先すべきであり、無駄な戦闘は避けるべきだ。公園を出て分かれ道に出る。上は平地で左は上り坂・右は下り坂だ。上のほうはしばらくは楽だが、後にどうしても上り坂にぶつかってしまう。どうせなら、下り坂のほうがいいだろう。迷っている暇はないし、即座に選択を下す。真白は角を右に曲がって、駆け出す。ちょうどそこは川の近くであり、右端には高い崖がある。民家がところどころ存在するだけで、あとは山だ。崩れてこないか心配でもある。そのあたりは自分の運に期待するしかないだろう。せっかく敵から逃げられても、岩に押しつぶされるような最期を迎えては、どうしようもない。

 それから彼はひたすらに歩道を駆けて、何度か足を止めながらも、息を整えては走り続ける。このあたりはもはや町というよりただの道路だ。右側へ行けば民家も密集しているだろうが、坂道は厳しい。せめて平地に人の姿があればいいだろうに、これでは助けを求められるか心配だ。

 それよりも、頭をよぎったのは町で散っていった者たちのことだ。あそこには多くの知り合いがいる。交流こそ少なかったが、彼らとは仲良くすべき存在だったはずだ。それを、果たして見捨てられるのだろうか。否(いな)、見捨ててもいいものだろうか。これは別に、良心の呵責などではない。実際、彼はありとあらゆる人間に対して心を動かされない性質を持っている。現在、真白が一般市民について気にしているのは、自分自身が白であることにこだわっているからだ。もしも悪事をしようものなら、心はあっという間に黒く染まってしまう。今の自分をどうしてもたもちたくて、善意を振りまこうとする。誰かを見捨てるようなことをしてしまえば、きっと白ではいられなくなるだろう。それだけは避けたかった。だけど、そんなことのために引き返して、なんになるというのだろうか。

 悩んだ。悩んだすえに、少年は足を止める。前方の道路が封鎖されていた。先へは進めない。交通事故でも起きたのだろうか。だが、今は車の通りは皆無だ。よく見ると、黒い影がある。黒紅色の装飾を身に着けた、忍者のような者だ。

 真白は近くにあったカフェに身を隠して、様子をうかがう。

 同じ装束を身に着けた者たちが一箇所に固まっている。手には武器を手にして、肌の一部は血に濡れていた。彼らはこのような場所でも、殺戮(さつりく)を繰り返してきたというのだろうか。暗闇の中で一層白く映える雪にも、赤い液体が飛び散っている。

 すぐ近くで、唸り声がする。道路の真ん中で、誰かが倒れていた。見たことのない容姿だが、いちおうは味方側であるはずだ。なぜなら、相手は複数の敵に囲まれているからだ。


「真白という名を持つ男はどこにいる?」

「もしくは、どこへ逃げた?」


 一瞬、自分のことを話題に出されているとは、思わなかった。

 だが、理解した瞬間、自分がまさに問題の渦中に放り込まれたような気がして、血の気が引いた。体は勝手に震えだして、目を大きく見開く。

 まさか、標的は自分だとでもいうのだろうか。そんなはずは、自分はただの一般人であり、特別な能力など有していない。ましてや、悪人の標的になる価値すらないだろう。なのになぜ、こんなことが起きているのか。たった一人の無能のために、なぜたくさんの人が犠牲にならなければならないのだろうか。

 理解ができない。モヤモヤとした感情が心を満たす。それなのに頭は妙に冷え切っていて、目の前で起きている現実をあっさりと受け止めようとしていた。

 とにかく、今は同じ場所に留まっている場合ではない。逃げ出す。一般市民のことは気になるけれど、自分の命を優先しなければならない。本当にそれでいいのかと、何度問いかけたか分からない。だけど、どうしても、相手を助けるなんて選択はできそうになかった。それが一番悔しくて、自分自身に負けてしまったような気がして、唇を噛む。

 全ては言い訳だ。自分の命惜しさに逃げ出したにすぎない。自分の身が一番かわいかった。いままで、ごまかして周りにはいい人だと見られてはいたものの、本当は違う。偽善でしかない。八方美人だとでもいうのだろうか。このようなときに本当の人格は顕になるのだ。自分自身が、本当は善人でもなんでもない自分勝手な者であったと気づかれてしまう。そして、誰かに軽蔑される。それは、どうしても避けたかった。誰かと対立をしたくなくて、嫌われたくなくて、普通のいい人を演じてきた。特別な目で見られたくなかった。悪い意味で注目されるくらいなら、空気になったほうがマシだ。だけど、現実はこうなってしまう。自分はダメだ。化けの皮が剥がれてしまった。

 その折、ふと頭をよぎったのは敵が身につけている黒紅色の装飾だ。街灯に照らされた彼らは、和風の衣装を見に付けていた。それはさながら、忍者のようだ。彼らと似た色をした服を着ている者を、見たことがある。スポットライトに照らされた舞台に、黒紅色の着物をまとった少女が立っている光景が頭に浮かぶ。そうだ、彼女だ。魔王。彼女が着ていた着物の色は、彼らの装束と一致している。だからといって確定はできない。だけど、確かなものが頭をかすめた。もしかして彼らは、魔王の部下なのではないだろうか。

 現在行われているのは、勇者と魔王の再演だ。ラスボスは必然的に魔王になる。相手と交流をして悲恋で決着をつけるもよし、最初から敵同士で終わらせるもよし。だが、敵は彼女以外にはとどまらない。その部下とも戦う必要が出てくる。いままでもたくさんの人間が勝負を仕掛けてきた。そのために打倒してきたが、今回は違う。彼らに、自分の力は通用しない。それに、いままでの相手は黒紅色の服なんて身につけていなかった。だとすると、今回こそが本物なのだろうか。真白という名を持つ少年を勇者だと仮定した彼らが、殺しにかかってきた。ゲームが現実に置き換わった。否(いな)、迫ってきたというべきだろうか。

 途端に頭を抱えたくなる。緊張感のない戦いに飽き飽きしていたところではあったものの、こんなサプライズは求めていなかった。

 黒紅色の影が魔王軍の者だとすると、相手は自分が倒すべき敵だ。だが、もう無理だ。倒せる気がしない。真白は逃げ惑う。来た道を引き返して、行く宛もないまま時間稼ぎをしようとする。けれども、その足は突然止まる。怖気づいたように立ちすくむ少年の前に、足音が近づく。街灯に、彼らの姿が照らされて、闇にとけ込むような黒紅色の装束があらわになる。

 真白は硬直する。ついに追い詰められてしまった。逃げ場はない。前方にも敵がいるし、引き換えしたら引き返したで、同じく敵の襲来。実質、挟み撃ちにされたようなものだ。自分が生き残るビジョンは当の昔に消えていた。

 ああ、終わってしまうのか。全てが泡沫に消えた。一度見た夢すらも、今は思い出せない。ここで、少年真白の冒険は終わってしまう。そう全てを諦めて、覚悟を決めようとしたとき、目の前で数名の敵が一気に倒れた。

 なにが起きたのか分からなかった。だが、事実として、彼らは倒された。それはどういうことを指すのか。もちろん、なにもせずに倒れたわけではない。なんらかの原因があるはずだ。そして、その原因となった人物が、目の前に姿を現す。


「なんでこんなところにいるのかね、この役立たずは」


 蔑んだ目を向けられた。

 低く、品のない声だ。酒焼けしたようにかれている。

 ごてごてした装飾に悪趣味な服を着た、泥臭い雰囲気のする男を、彼は知っていた。


「涅影丸」


 少年は、彼の名前を口にした。

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