第6話

 地図に従って森を抜けて、トボトボと北に戻る。彩葉の別荘までたどり着いたものの、当然ながら彼女とは出会えない。いちおうは連絡先を交換しているため、部屋に置き忘れた電話を使って、相手を呼び出す。されども、繋がらない。彼女はどこでなにをやっているのだろうか。連絡さえ取れれば全てが解決すると思われたが、現実はそううまくはいかないらしい。

 ため息をつく。通常であれば繋がるはずだが、いったいどうなっているのだろうか。彩葉も通話機自体は盛っていたはずなのに、繋がらないのはおかしい。もしや、彼女の身になにかあったのだろうか。薄汚れた男のことに関しても平等に心配すつつ、彩葉のことが最も心配だ。なにより、今、彼女がそばにいないことが心細しくて仕方がない。自分一人だけ残されて、いったいなにができるのだろうか。やはり、一人にはなりたくない。一刻も早く合流しないし、せめて声を聞きたかった。

 あたりは真っ暗だ。電気をつける暇もなく受話器を取ったためだ。今は夜目が聞いているため、なんとかやっていける。外には街灯がついておらず、光が全く差し込まない。漆黒(しっこく)の闇にとざされた空には、月すら浮かんでいないのだろう。気分まで暗くなりそうだが、なんとなく明かりをつけにいく気すら出ない。ついつい、部屋の中でぼんやりとしてしまう。

 しかしながら、いつまでも同じ場所に留まっていても意味がない。今は彩葉たちとの合流が最優先であり、休憩している暇もなかった。彼女たちと合流をするために立ち上がって、外へ出る。

 やはり、真っ暗だ。なんとなく、肌寒い。夜に出歩くことはないためなんともいえないが、いつの以上に気温が低い。吐く息も低い上に、鼓動が高まる。胸騒ぎがした。なにか、よからぬことが起きそうな気配がする。

 ほどなくして、住宅地が密集する区域にやってきた。人気はない。窓には暖色の光が差し込む。周囲の雪に吸収されているのか、無音だ。圧倒的な静寂があたりを包んでいる。

 そのとき、近辺でなにかが破裂する音がした。別の場所でもなにかが飛び出して、凄まじい勢いでどこかへ突き刺さるような音が響く。

 一気に気が引き締まる。その音の正体が分からないなりに、背中に戦慄(せんりつ)が走った。緊張感が高まって、頬(ほお)を汗が伝う。体が硬直する。縮こまって、壁の隅(すみ)に寄った。ゆっくりと近くにある窓へ顔を近づけて、外を見る。闇の中を黒い銅像のようなものが走っていく。一寸の光も見いだせない黒の中で、銀色の線が閃く。

 なにやら、周りが騒がしい。

 彼方(かなた)で悲鳴が上がり、パニックを起こした人の声も聞こえる。聞き覚えのある声たちだ。彼らはなにかにすがるように叫びを上げて、何者かに助けを求めている。やがて、その声が途中で途切れて、そう遠くない場所で発砲音が響く。

 とっさに逃げた。とっさにどこかに逃げ込める場所はないかと右往左往して、公園に広めの屋敷があったことを思い出す。ちょうど、坂を下った先の角を右に曲がったところにある駄菓子屋の近くだ。

 意を決して走り出す。不意に視界を黒い影が横切る。闇の中で自分の姿は大変目立つ。そのことを恨めしく思いながらも、走るしかない。どうか、なにも起きませんようにと祈る。そして、たどり着く。息を切らして屋敷の前に足を止める。勇気を振り絞って扉を開けて、中へ入る。やはり、ここに人は住んでいない。真っ暗なのも相まって、幽霊でも出そうな雰囲気だ。だが現状は見えないおばけよりも、実際に起きていることのほうが恐ろしい。タブレットの明かりを頼りに、進む。中は埃っぽい。足元になにが転がってもおかしくはなく、慎重に進まなければならない。

 やがて階段を上って、二階までたどり着く。老朽化こそしているものの、まだまだ利用できそうな家だ。規模も相まって、手放すのが惜しいように思える。

 窓に近づくと、外の景色が嫌に鮮明に見えてくる。人気のなかった町に、人の声が響く。まるで、隠れていたものが一変に表へ叩き出されたようだ。それは決して、活気に満ちているわけではない。

 真白は耳を塞いで、窓から目をそらす。背中を壁に押し付けて、できるだけ小さく固まって、身を隠そうとする。家は真っ暗で、周りの様子はうかがえない。うかがえないなりに、とんでもないことが起きているということは分かる。

 状況を整理する余裕はない。ただ、自分が巻き込まれないことを祈るだけだ。でも、本当にそれでいいのだろうか。確かに自分の身が危険にさらされないことは重要だ。できるのなら傷つきたくないし、怖い思いもしたくない。だけど、真に真白が求めていたのは恐怖する必要のない展開であり、自分の身に関しては特に考えていなかった。

 自己犠牲といえば聞こえはいいだろうか。見ず知らずの他人であったとしても、傷つくくらいなら、自分が犠牲になったほうがいい。ちょうど、今の自分は役立たずだ。就職すらつけずに、家でダラダラするだけ。家事をこなしているなんて、言い訳に過ぎない。それならばいっそ、誰かの未来を守るために、自分だけでも犠牲になる必要があるのではないか。

 ただし、それをしたところで、全てが解決するとは思えない。自分一人の命を差し出したところで、果たして相手は引くだろうか。今、この場で起こっている出来事は、一言でいえば殺戮(さつりく)だ。なんの説明もなしに、理不尽に、人々の命が散っていく。弱者は唐突に現れた強者によって淘汰されて、数を減らす。

 実際のところ、真白は自分を犠牲にすることで、自己を正当化していた。自分は他人のことをきちんと考えられているし、誰かが傷つくことで自分も傷つく人間だということを。

 彼は自分の気持ちを理解できていない。自分がこの現状に悲しんでいるのか、怒りを感じているのかすら、分からない。強いていうなら、本当はなにも感じていないのかもしれない。

 誰かのためではない。自分一人が生き残ってしまうのが恐ろしいから。糾弾されたくないから。客観的に見て、自分を犠牲にしたほうが正しいと思うから、あえてその道を選択するべきだと考えているだけだ。

 だが、正直な話、自らすすんで危険の中に身を投じるマネは、できそうになかった。結局のところは、口だけだ。いざ、見えない敵に立ち向かおうと思い立ったところで、動けなければ意味がない。途中で身をすくませてしまえば、たとえいくら自己犠牲を視野に入れていたとしても、言い訳にしかならないだろう。

 結局は自分は他者を犠牲にしてでも、生き残る羽目になる。

 まるで悪夢を見ているような状況だ。これが現実に起こっていることなんて、信じられない。なにかのドッキリではないだろうか。なにしろ、こんなことは通常ではありえない。昨日まで、いや先ほどまで平和だったはずの町に、赤い花が咲いている。窓へ身を乗り出すと、町の惨状は部分的ながら、明確に目に飛び込む。子どもたちは逃げ惑い、追い詰められて、殺される。黒い影は無慈悲に、人間たちの命を奪っていく。

 窓の外で飛び散る血も、闇の中で散っていく命に対しても、なにも心を動かされない。それは、なんて冷淡な人間性なのだろうか。全てが客観的に見えて、他人事にしかならない。そんな自分が嫌(いや)だった。やはり、どうしても、現実だとは受け入れられない。夢ではないかと、悪夢ではないかと、考えてしまう。強引に現実世界のまぶたを開けば、覚めてくれるのではないだろうか。もしくは、誰でもいい。自分をこの世界から解放してほしい。闇のない、光に満ちた世界に導いてほしい。

 だが、心の中でいくら叫んだところで、みじめな少年の声に答えてくれる者などいるはずもなかった。

 少年は打ちひしがれたように、下を向く。うつむいて、自分にできることはないか考える。生きているのなら、誰かの役に立たなければならない。軽蔑(けいべつ)されるのが嫌だから、汚いものを見る目を向けられるのが我慢ならないから、せめて、なにかを成し遂げるべきだと考えている。

 別に、住民たちに対して、本当の意味でなにも思っていないわけではない。事実として、町の住民たちはなにもしていない。それなのに、殺される。なにもかもが理解できなくて、困惑する。だが、不思議と怒りは湧いてこない。心は相変わらず無のままで、自分自身がなにを考えているのか理解ができない。やはり自分は何事に関しても、無関心だったのかもしれない。

 逃げられるタイミングはないだろうか。下手に町へ飛び出す勇気はない。誰かの役に立つなんて、自分を犠牲にして一人でも多くの命を救うなんて、ただの妄想だ。

 なぜ、よりにもよってこのようなタイミングで戻ってきてしまったのだろうか。せめて、となりに誰かがいてほしかった。誰でもいいから、恐怖を分け合いたかった。そうすれば、きっと、自分も救われたはずだ。もしくは、敵の排除にも協力して、生還することだって可能だった。

 もっとも、それは仮定の話だ。実際に協力者なんて現れなかったことを考えると、思考を練ったところで意味はない。

 そうした中、不意に闇の中を歩いていた黒い影が足を止める。彼はゆっくりとこちらを向く。目があった。ギラギラとした、瞳は月のように輝いている。体が向きを変えて、足がこちらを向く。迫ってくる。

 鼓動(こどう)が激しく脈を打った。即座に窓に背中を向けて、逃げ場を探す。パニックに陥って、正常な判断がつかない。

 目をつけられた。殺されると悟った。

 自分はいったい、なにをすればいいのか。

 頭は真っ白になる。心は疾るばかりだ。焦燥感の中、必死になって希望の光をたぐり寄せようとして、玄関へと走る。二階の階段の前にたどり着く前に、扉が開く音がした。

 心臓が止まるかと思った。体は凍結されたように硬直する。顔だけでなく、全身に汗をかく。生きた心地がしない。わけのわからないエイリアンのように狙われているような気分だ。ようなではなく、実際にそうだった。相手は人形とはいえ、得体が知れない。数は複数人いるのだろうか。誰もが似たような服を着ている。狙いは不明だ。なんのために人を襲っているのかが分からない。だけど、一つ言えるのは、逃げなければ死ぬということだ。

 危機的状況。最悪の状況の中で、白い服を着た少女の姿を頭に浮かべる。どうせこうなるのなら、彼女とはぐれてよかった。彼女が無事なら、それでもいいと。だけど同時に、もっとなにかやれなかったのかと思う。例えば、もっと、友好的な関係を――いや、もっと深くまで食い込めていたら……。

 いいや、そんなことを考えている場合ではない。まだ、生存をあきらめるわけにはいかない。心の内側に熱い炎を燃やす。まで、希望は残されている。ここで潔く死を受け入れるわけにはいかない。

 真白は階段へ背を向けて、走り出す。向かう場所なんてない。今一階へ下りたところで、殺されるだけだ。相手は喜々として襲ってくるだろう。ならば、逃げ込む場所なんて一つしかない。

 鍵(かぎ)は意味がない。外で木材が破壊される音が響く。家一つが傾いて、どっしりとした音がする。真白は無我夢中で駆けて、ベランダへ身をさらす。後方から足音が迫る。発狂しそうだ。だけど、なんとか気を落ち着かせて、下を見る。

 後ろは振り向かない。敵の姿を視界に入れた瞬間、思考が完全なる無に化してしまいそうで、まだ振り返りたくはない。

 大丈夫だ。まだ、こない。敵は自分の姿を見つけていない。そう考えた。

 いま一度、地上を見下ろす。アスファルトにはおびただしい量の血が飛び散っている。路上に放置された塊は、おそらくは人だったものだ。彼らは血を流して、倒れたまま動かない。まだ間に合う者もいれば、即死したであろう塊も見える。そのどれもが、いつかう失うものだった命だ。そして自分もいつかはアレになる。

 戦慄(せんりつ)に体を支配される。

 逃げるのなら、飛び降りるしかない。だけど、大丈夫だろうか。すんでのところで躊躇(ちゅうちょ)する。だが、今にも命を奪われそうな現状を考えると、殺されるよりはマシだ。

 少年は勇気を振り絞る。そして、思い切って、ベランダから飛び降りた。

 集中した。なんとか、着地をする。ほっと一息つく。だが、まだまだ地獄は終わらない。ふと顔を上げた瞬間、彼の瞳には、黒紅色の装飾を身に着けた男の姿が映り込む。

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