第2話
フローラと同居してからの日常はゆるく、時間はあっという間に通り過ぎていく。
真白はなおも家の中を掃除するだけの毎日で、時折彼女の付き添いで舞台を見に行く程度だ。その中で、フローラの日常を観察する機会は度々あった。彼女は周りの人間と常に平等に接する。有名人らしいおごりは感じない。あくまで普通の人間として、ファンや店員と会話をしている。
いったんステージから離れると、フローラ・ホワイトは普通の少女だった。それでも、魅力的であることに変わりはない。例えるなら、クラスのマドンナというべきだろうか。彼女のコロコロと変わる表情が、お嬢様らしい所作についつい見惚れてしまう。
一方で、優れているのは容姿だけではなく、人格までも完璧だった。フローラは困っている人を見かけるや否や、進んで助けにいく。落とし物を拾ったり、迷子の観光客を目的地まで誘導したりする。それに対する恩を着せる感じはなく、彼女はごく自然に善意を周囲に振りまいていた。助けた者に感謝こそされど、決して物理的なお礼を受け取ることはない。相手の笑顔を見るだけで十分に満たされたと言わんばかりにこちらもはにかんで、手を振って別れる。真白はそんな彼女の様子を第三者の視点から眺めていた。
ハキハキとした声で話し、常に笑顔を絶やさない少女は、やはり人気がある。有名人だからとかではなく、美少女だからという理由でもない。その人柄に惹かれて注目している人間も多くいる。それを知ったとき、真白は思った。なるほど、人に好かれたくば、フローラのマネをすればいいのだと。
以降、彼は他人を優先するようになる。電車を使っているときは席を譲って、商品の最後の一つを取り合いになりそうなときも、相手に譲る。常に周囲のことを考えて行動して、気を配るようにしていた。こうすれば、友達はできずとも嫌われることはない。
しかしながら、どうしても解決できない問題も存在する。
「なにが食べたい?」
レストランの窓際の席で二人は向き合って、注文表を眺めていた。
すでに注文を決めている様子であるフローラに対して、真白は首をかしげたまま固まっている。
「なんでもいいんだけど」
「それじゃあ、ダメ。好きなものでもなんでもいいから」
そうは言っても、本人にしては好き嫌いがなければ、特別食べたいと思うものもない。本当に、なんでもよかった。こういうのはフローラにまかせてしまったほうが気が楽だ。それでなにが届いたとしても、不満を口にせずに完食する自信があった。
「じゃあ、パンケーキで」
痺れを切らしたのか、フローラが店員に向かって勝手に注文する。相手も引きつった笑顔を顔に張り付けて応対すると、お椀を手に下がって、厨房へ向かう。
ほどなくして料理がやってくる。シンプルな皿の上に盛られた厚いパンケーキは、ナイフを使っても切るのに苦労する――かと思いきや、前の席でフローラはあっさりと切り分けている。自分が下手なだけかと落ち込みつつ、彼は切れ端を口に運ぶ。ふわふわとした食感だ。特別な盛り付けはほどこされていないのに、満足感がある。庶民の舌ではゲテモノ以外はなんでも同じだと思っていたが、さすがにレストランは違う。コンビニで一〇〇円くらいで売っていそうな商品とは格が異なる。最初は期待していなかったのに、今は進んでナイフで切り分けて、口の中に突っ込んでいた。
「どう? 美味しいでしょう。また、食べにきてもいいのよ」
笑顔でそう言った彼女の声は、パンケーキにかかった蜂蜜(はちみつ)のように甘かった。
とにもかくにも食事を終わらせた二人は北から東へと下る。時刻はまだ朝で、これからドラマの撮影があるらしい。なので、撮影場所付近でいったん別れて、真白は一人になる。そこを狙われたかのように、一人の少年が彼に近づく。
「お前、出てけよ」
トゲのある声を背中で聞いて、振り向く。曇り空の下、濃い灰色をした道路に、まだ背丈の低い子どもが立っていた。彼の表情は険しくて、眉をつり上げて、大きな瞳でこちらを睨みつけている。しかしながら、真白には心当たりはない。なぜ、この少年は怒りを表に出しているのだろうか。
「なあ、お前、お前だよ。フローラ・ホワイトに近寄って、なにがしたいんだ。なにを考えてるんだ。あの人から離れろよ。あの人はな、お前ごときが側にいていい存在じゃないんだ」
それを聞いて、「あー」と納得する。要するに、目の前にいる彼は嫉妬(しっと)をしているのだ。心の底から面倒な案件ではあるものの、相手を一方的に否定する気にはなれない。
「まあ、僕も悪いところがあるのは自覚しています。でも、行く宛がないのも事実です」
「だったら死ねよ。のたれ死んじまえ」
「いや、そんな言葉を吐いていい年頃とは思えませんけど」
「いいんだよ。年なんか関係あるか。俺はお前が気に食わねぇだけなんだ」
参ったなと、真白は視線をそらして、頬(ほお)をかく。
「別にそれで気が済むのなら言葉で殴ってくるなり、なんでも構いませんよ。僕は別に、自分が嫉妬(しっと)されないなんてこと、考えてませんし。彼女に拾われたのは運がよかっただけとはいえ、幸運でした。だから、離れる気はありません」
「ふざけんなよ。俺はな、お前らみたいな苦労もせずに幸せを勝ち取れる人間が、大嫌いなんだ」
「だから、どのような言葉をかけていいと言いたいんですか?」
真白が冷静に問いを投げると、急に少年は黙り込む。
「うぜぇよ、どっか行けって言ってんのが分からねぇのか」
「ああ、はい。別にここからは離れる予定ですけど、生憎(あいにく)と、僕は一人では生きていけそうにないので」
不満げな目で見上げてくる子どもに対して、少年は淡々とした言葉を返す。彼としては、目の前にいる者から嫌われようが知ったことではなかった。誰に好かれようと嫌われようが、興味がない。人助け自体もそれが正しいと分かっているからしているのであって、そこに善意は存在しなかった。
「どうしたの?」
不意に甘い声が鼓膜(こまく)を揺らす。
とっさに振り向くと、建物の影からフローラが顔を出していた。
「なにやらうるさかったみたいだけど」
「ああ、それは……この子どもか」
体を彼女に向けたまま、前方を指す。
「いないけど」
「え?」
「子どもはどこにいるの?」
相手が首をかしげたため、こちらも慌てて振り返る。そこには確かに子どもの影はなかった。今は濃い灰色の道路が延々に伸びているだけだ。
「でも、トラブルがあったことは分かるわ。なにか困ったことがあったら、言って。肩代わりしてあげるから」
「いや、その心配はないよ」
晴れやかな顔で告げる少女の言葉を、少年は曖昧な態度で振り払う。今回に関しては自分だけの問題だ。彼女は関係ない。余計な心配もかけたくないし、なにより自分は悪意を向けられても平気でいられる。だから、彼は平然と彼女と別れてから、先ほどの少年を探しにいく。
ぐるりと大陸を半周するような形で道路を歩くと、そこそこの時間で北にたどり着く。外は大分雪も溶けて春の陽気になっているというのに、こちらはいまだに銀世界だ。いつになったら雪は溶けるのだろうか。そもそも、この地域に春はくるのだろうか。灯油を一日で一つ消費するような生活に、懐事情が心配になる。
が、今はそれよりも、例の少年を気にする必要がある。ちょうど今日は休日らしいし、学校も休みだろう。周囲をうろついている可能性がある。もしくはすでに家に戻っている可能性のほうが高く、急に不安になってきた。
灰青色に染まった空の下、真白は適当にブラブラと歩く。そして、広場にたどり着いたころ、なにやら子どもたちの高い声が響いてくる。
開けた空間、人通りの少ない場所で、一人の少年が弱々しい子どもを蹴っていた。相手はなんの抵抗もできないまま、されるがままになっている。明らかないじめだ。もしもフローラが同じ場面に出くわせば、迷いなく助けるだろう。しかしながら、真白は余計なことを考えてしまって、体が動かない。だが、結果的に助けに入る必要はなかった。なぜなら、途中でいじめっ子本人が振り向いて、硬直したからだ。その隙(すき)を突いて、いじめられっ子が立ち上がって、逃げていく。
「なんだよお前、なにしにきたんだ?」
目をするどく尖らせて、睨む。本人としては、怖い顔をしているつもりなのだろうが、所詮は子どもだ。真白には通用せず、どちらかというとかわいらしくさえ思える顔だった。
「別に。ただ、君の行動は正しくはないだろうと思っただけです」
「は? お前もそう思うのか? 正しくないって。俺だけが間違ってるってか?」
「え、あの、『お前も』と言われても、当然としか言えません。だって、君のやっていることっていじめですよね。明らかにそちらに非があるとしか」
「ふざけんなよ。いじめられるほうが悪いに決まってんじゃねぇか」
ダメだこれ、と真白は内心でため息をつく。
「あいつら、なんの苦労もせずにテストでいい点数取ったんだ。学校じゃモテモテ。反対に俺は劣等生だぜ。なんもできやしねぇ。なあ、こんな待遇の違い、あるか? 人気なあいつと違って、俺は一人なんだ。しかも、あのフローラと仲良くって、いじめから助けてもらってばかり。結局、あいつは一人じゃなんもできないだ。それなのに、俺ばかったりが悪者扱い。誰もこっちの視点には立ってくれねぇ。納得できねぇよ。ああ、そうだ。復讐しちまいたいくれぇだ」
声音から明確な憎悪がにじむ。このままいけば、未来の彼は立派な魔王だ。おめでとう、などと言うつもりはない。
だが、確かに一理ある。真白は冷静に顎に指をそえて、考え込む。いくらいじめが悪だといっても、彼は目の前にいる子どもを軽蔑する気にはなれない。彼にも彼なりの事情があるのだろう。よほど、悪い環境にいたのか、このような性格になった境遇が不幸だったのか。いずれにせよ、まだまだやり直す機会はある。なんせ、相手はまだ子どもだ。
「気持ちは分かります。僕は平凡ですから。優れている。しかも天才で、努力とは無縁な人を恨む気持ちは分かります」
「なに言ってんだ。お前なんか、フローラと付き合ってんだろ? そんなやつが平凡であってたまるか。嘘つくんじゃねぇよ」
「まあ、本当に嘘ですけどね」
「あ? なんだと?」
相手に眉間がシワを寄せる。
「はい。僕、他人を恨む気持ちなんて持ってないので」
平然と、素面のままに言ってのけた。
「なんだ。なに、言ってんだ。他人を恨まねぇ。そんな人間がいるのか」
「はい。なので、僕は他人に復讐をする気持ちというのが分かりません。そもそも、遂行して得られるものなんてなにもないのに、なぜ人はそれを実行に移すんですかね」
素のままに、純粋に疑問を口にする。
「でも、僕はたいへん恵まれた環境にいます。なにもしなくても生きていけるなんて、これほどの幸福はありませんよね。だから、憎まれてもおかしくないんです。それで殺されたとしても、文句は言えません」
「なんだよそれ、おかしいだろ。なんで自分のことを、そんな風に言えるんだろ。んなの、理不尽じゃねぇか。なんも悪いことをしてねぇのに殺されるとか、それでお前は平気な顔で他人を許せるのかよ」
「許せるんじゃないですかね。正直、僕は自分のことなんてどうでもいいんです」
真白はただひたすらに、周りに――いや、自分のことにすら無関心だった。だから、なにをされても落ち着いていられる。たとえ、どれほどバカにされたとしても、プライドを傷つけられたとしても流せる。なにしろ、彼には守るだけのプライドが皆無だった。
「やっぱり、君は根はまともだ」
ただの感想を口にしてみる。
「なんでだよ。俺が、まともだと? おかしいって。そんなわけねぇ。だって俺は、俺は」
「ほら、自分が悪いと自覚しているじゃないですか。本当は自分の中でも、これはいけないって理解してるんじゃないですか。だから君は、悪い子じゃないんです。悪いのは感情を現し方であって、君の心じゃない」
「擁護するのか。この俺を」
「さあ。いじめられっ子にとってはたまったもんじゃないでしょうし、露骨にやるのは避けますよ」
目の前で、子どもが何度か瞬きを繰り返す。
「君が苦労をしてきたのは分かります。フローラ・ホワイトに想いを寄せているのも。だからといって、ただ憎んでいるだけでは状況は変わらない。僕も動く気はありません。だから、こういうときは自分で前に進むしかないんでしょうね。他人に当たり散らすのではなくて、自分が変わるところから始めないと、いけないでしょう」
説教をするつもりはないけれど、ただ自分の中で情報や気持ちを整理するつもりで、口に出してみる。
「とりあえず、僕と仲良くなりませんか?」
真白はおもむろに手を差し出す。
「はあ? 誰がお前なんかと」
「でも、僕だけは君の味方になってあげられるかもしれませんよ」
「味方なんて要らねぇよ」
「ああ、ならいいです。僕も友達なんて要りませんし」
少年の意地っ張りな返答を聞くと、真白もすぐさま手を引っ込める。
途端に相手が焦りだす。
「ちょっと、待ってくれ」
「なんですか?」
白々しく、首を傾ける。
「俺、本当は。もっと、こう……」
言いづらそうに、目をそらす。彼はこちらから顔をそむけるか、はたまた逃げ出しそうな面持ちで、訴えてくる。
「誰かと仲良くしたかったんだ」
その本心は確かに真白の耳にも届く。されども、以降はなにも口に出すことはできない。少年とも別れる。去り際、彼は真白にこう告げた。
「その、ゴメン。俺、バカみたいだった」
それから、真白はいったん家に戻って、ベランダで蒸留水を飲んでいた。
「これから、なにしようかな」
薄曇りの空を見上げる彼は、将来に漠然(ばくぜん)とした不安を抱いていた。現状、確かに彼の生活は豊かでなんの苦労もない。しかしながら、充実しているとはいえない。フローラに養ってもらっている状態であり、完全なるヒモだ。今のままではいけない。そう思いながらも、心のどこかでは今のままでもいいやと楽観している自分もいた。なんせ、まったくやる気が起きない。できるのなら一生をダラダラと過ごしていたいというのが本音だ。ただ、それがいけないと知っているから、改善する必要があるというだけだ。かといって、なにかをしたいというわけでもない。なんせ、真白には野心というものが存在しなかった。
「とりあえず、就職しなきゃな」
口に出しながらも、依然として彼は無気力なままだった。
それから時間がたって空が茜色に染まり始めたころ、そういえば迎えにいく時間だったと思い出す。考えごとをしていて、失念していた。されども、フローラはなにごともなかったかのように自力で帰って、玄関に立っていた。
そして、リビングに来て開口一番、彼女は言う。
「ねえ、私の劇団に入らない?」
「いやです」
即答で拒否したのはなぜだったか。自分でも分からない。就職ができるのはよいことだと思われるのだが、なぜか全身が劇団に入るということを拒否していた。
「えー、どうして? あなたなら舞台でも映えると思うけど」
「ありえません。僕は冴えない男です。演技力だって期待できない。スカウトするのはおかしいですよ」
眉をひそめて彼女を見るけれど、相手はニコニコとした顔を崩さない。
これほどまでに幸福なのに、依然として満たされない。それは、なぜだろう。疑問は尽きぬまま、日は沈んで夜はふけっていく。
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