僕は勇者にならない(下書き)

白雪花房

第一章

第1話

 血のような夕焼けを、漆黒の闇が押し流していく。

 星も月の見えない暗い夜だ。

 数時間前まで青々としていた大地は、今は見る影もない。

 荒れ果てた、草一つ生えない大地に、黒紅色の着物をまとった少女が倒れていた。

 彼女は昔から、世界中で恐れられていた。生命力を吸い取る能力を持った少女は、草木を枯らし、手を振りかざすだけで人を絶命に追い込む。そんな彼女でも、勇者にだけは勝てなかった。


「私を殺せ」


 体を起こして、叫ぶ。

 彼女はこの決着に納得がいっていない。悪役らしく、殺されることを望んでいた。

 けれども、相手は答えてくれない。

 数分、否(いな)、数分、数十分以上も待ち続けた。

 彼は止めを刺してくれない。首を横に振るだけだ。

 たちまち、心の中で怒りが膨れ上げってくる。

 魔王は残った魔力と余力を攻撃へと当て、手のひらから黒い炎を放つ。

 先ほどまで黒かった瞳が、ダークピンクの光を放つ。

 殺意を込めた渾身の一撃。だが、勇者には届かない。彼は剣を振るうと、光が放たれる。光は闇を切り払って、世界を白く染めた。

 それは一瞬の出来事だ。

 光は消えて、すぐに世界に闇が戻って、元の漆黒に包まれる。

 全てが振り出しに戻った。


「逃げる気か?」


 闇の中で、魔王が問う。

 彼女は勇者の気持ちを知っていた。だからこそ、彼の選択を許そうとしない。それは、それだけはダメだというように、相手をにらむ。

 それでも、青年は答えない。


 戦う前から勇者は、葛藤していた。勇者としての役割・人間としての心――どちらを優先するべきか。難しそうな顔をして悩み続け、ようやく答えが出た。

 殺すか、生かすか。

 彼は後者を選ぶ。

 本物の勇者であれば、ありえない答えだ。けれども、彼は所詮(しょせん)、勇者という役を演じるだけの、ただの人に過ぎない。

 まさに苦渋の選択だというように眉をひそめて、顔を上げる。

 そんな彼の弱さのこもった意思を見て、少女は目を見開く。瞳が揺らぐ。衝撃を受けたように、固まってしまう。


 勇者は知っていた。

 過去・未来・現在――どこへ行っても、彼女に居場所はないことを。なぜなら、魔王の能力は世界を破滅に導くからだ。ゆえに、ただで生かすという選択はありえないと断言できる。

 ゆえにこそ、青年は少女へ向かって手を伸ばす。

 刹那、魔王の体内を巡っていた魔力が止まる。異変に気づく。目をそらそうとした勇者へ向かって、攻撃を繰り出そうとする。ところが、なにも出せない。憎悪の色に染まった炎は、勇者へは届かない。

 すると、自分が身につけていた指輪が発光していることに気づく。そこでようやく、勇者によって自分の気持ちを裏切られたと悟る。

 勇者は役割を終えると、背中を向けて去っていく。その背中が遠くなる。闇夜の中に、銀白に光輝く鎧が、消えていこうとしている。まるで薄いベールがかかったように、青年の姿がかすむ。魔王は彼を引き止められない。

 もはや、ふたたび立ち上がる気力すら湧かない。

 地べたに座り込んで、うつむいたまま、震える唇を噛み締めた。

 この世界で勇者と会ってから、彼女は全てを失った。

 勇者が同じ世界にいるだけで、魔王は敵として排除される。反対に、相手は完全なる善として、この世に君臨する。

 彼女は彼によって、肉親を、部下を、夢も、現実も、愛も、なにもかもを奪われた。

 こみあげてくる感情を抑えることなど、できそうにない。


「絶対に許さない!」


 血を吐くような声で、消えていく銀白色の背中へ向かって、呼びかけた。


「逃げるな。勇者として生まれたからには、貴様は私と決着をつける義務がある」


 されども、勇者の姿は闇にとけ込むように、消えていく。

 ほどなくして、夜は明ける。

 竜胆色の空の下、いまだに少女は同じ場所に、無言のまま留まっていた。


 それから、彼女は勇者を探したが、見つけることはできなかった。

 魔王は、城の中でただ一人に相手を待ち続ける。

 復讐――それだけのために生きてきた。

 そして、いつの間にか、待ち人は現れぬまま三〇〇〇年の時が経過していた。


 夜、洞窟の奥地で、一人の少女が硬直した状態で突っ立っていた。前方にある水晶は深く透き通っていて、中にはなにも入っていない。


「まさか、封印が……。そんな、そんなことが……」


 戦慄が背中を走る。

 冷たい風が体を吹き抜けていった。




 かくして舞台は幕を下ろし、照明も絞られる。

 ステージの上で抱き合っている男女のシルエットが、闇に溶けて薄れていく。

 客席からは割れんばかりの拍手が上がる。周りでは舞台の感想を言い合っているのか、さわがしい。

 立ち上がって興奮を表に出す者もいる中、少年は一人無表情に手をたたいていた。

 ほどなくして、ざわめきは止む。かわりに客が移動を開始したせいか、人の動きがバタバタと慌ただしい。

 彼は様子を見つつ、周りに人がいなくなったのを確認したあと、ようやく席を立った。


 会場の外に出ると、花の香りが彼を出迎える。入り口には大きめの花壇が設置されていて、どれも鮮やかな色をしていた。

 前方には数段の階段が見える。慎重に段差を下りると、その先は道路だった。


「ねえ、真白、どうだった?」


 横からすっと声をかけられて、足を止める。

 待ち構えていたのは、先ほどステージの上で魔王を演じた女優だった。スポットライトに照らされていたときのミステリアスな雰囲気は消えて、今はただの美少女と化している。あちらが悪役令嬢だとするならば、こちらは正統派なヒロインだ。とはいえ、オーラが消えているわけではないし、町を出歩けば誰もが振り返ることだろう。

 一方で、真白と呼ばれた少年はたいへんドギマギしていた。別に彼女の色香に戸惑っているわけでも、鼻孔をくすぐるフローラルな香りに心をかき乱されているわけでもない。純粋に、口に出すべき感想が思いつないため、困っているだけだ。

「えーと」と目をそらして、気まずそうに頬(ほお)をかく。


「言えないのね? まさかとは思うけれど、寝ていたのかしら? さすがに二回目だから、飽きちゃった?」


 彼女は中腰になって、上目遣いで彼を見上げる。


「ち、違います。舞台そのものは素晴らしかった。一気に物語に引き込まれたっていいますか、始まった途端にステージが架空の世界に塗り替えられたようでした」

「なんだ、きちんと出るじゃない。最初からそれを言ってよ」


 言い訳のように口を動かすと、相手はそれで満足をしたのか唇を尖らせつつも、かすかに笑んだ。少年もほっと胸をなでおろして、心の中でため息をつく。


「さあ、もう行きましょ」


 少女は積極的に彼の腕をつかむと、グイグイ引っ張っていく。少年も抵抗すらできず、なかば連行されるような形で足を動かす。

 不意に手にしたタブレット型端末が揺れる。画面をタッチすると、液晶をおおっていた闇が晴れて、白い画面が表示される。


『当選おめでとうございます。あなたの役職は勇者です』


 刹那(せつな)、少年の体は凍りつく。

 それはとても運のよい出来事ではある。だが、その運のよさは今、いらなかった。


「どうしての?」

「なんでもない」


 ぎこちなく、誤魔化す。

 二人の目的地は地図でいう北だ。その雪国と呼ばれる場所で、彼らは出会った。



 数日前。

 気がつくと、見知らぬ場所にぼうぜんと突っ立っていた。あたりに雪が降り積もる、白い町だ。遠くには三角屋根の木造家屋がまばらに並ぶ。人通りは少ないものの、車の数は多い。メタリックでカラフルな鉄の塊(かたまり)を追うと、歩道橋が見えてくる。ちょうど、縦向きに設置された信号機も確認できた。


「ここはいったい……」


 吐く息は白いのに、不思議と寒さは感じない。薄着でいるにも関わらず、平然としている。

 また、足元にたまった水には氷が張っていた。覗き込むと、見覚えのある顔がおぼろげに映る。

 貧相な体躯の冴えない少年だ。漂白されたように白い肌を、平凡な黒髪が縁取っている。中性的な童顔で、瞳がやけに澄んでいた。

 いかにも弱々しげな表情で、氷の中の彼は首をかしげる。少年は自分の身になにが起きているのか理解できていなかった。なぜ、自分が雪国にいるのかも不明である。いままでにあった出来事を回想しても、きっかけらしいものは思い浮かばない。思い出せるのは名前と出身地くらいだ。真白という名の地球人で、日本という国の田舎で暮らしていた――以上。

 真白は語る価値もないくらい、密度の薄い人生を送ってきた。ゆえに、わけの分からない状況に放り込まれたときに、なにもできない。

 以降も永遠に棒のように立ち続けると思われたとき、近くにある大きな建物のそばに人影を見た。そっと接近すると、女性特有の高い声が鼓膜(こまく)を揺らす。


「あんたはなぁに? いつもそうやってニコニコと。愛想笑いってのは分かってるのよ。いい加減、素を見せなさいよ」

「やだな。私はこれでも素ですよ」

「よく言うわ。猫をかぶるのもいい加減にしなさいよ」


 建物と建物の隙間に挟まるようにして、二人の女性が言い争いをしている。女性といっても、見た目は若い。具体的な年齢は分からず、二十代前半にも、真白と同じ高校生くらいにも見える。


「全部あんたのせいよ。分かる? あんたが現れたせいで、こっちの仕事がなくなっちゃったのよ」


 水色の巻き毛を持つ女性が、早口でまくしたてる。背中を向けているため顔は見えないものの、スタイルはよい。顔は小さくて、短めのスカートからチョコレート色のタイツをはいた足が、すらりと伸びている。

 相手も同じく、漫画の中の登場人物かと思うほどの頭身を誇る。顔立ちも整っていて、肌は白百合色で、頬(ほお)は薔薇(ばら)色だ。ピーチ色のコートはフェミニンで、よく似合っている。真っすぐに伸びた長い髪は最初は白だと思ったが、よく見ると違う。光が当たる角度によって、ルビー色や黄金色などに色を変える。虹色もしくはオパール色とでも表現すべきだろうか。


「そういうのを逆恨みと言うんですよ。まあ、いいじゃないですか。相談ならきちんと乗ります。なにか困っていらっしゃるのでしたら、なんなりと申してください」


 幼い印象を受ける少女だが、売られた喧嘩(けんか)をさらりと流すところを見ると、落ち着いた性格をしているようだ。曇りのない黒い瞳は凛々しくて、大人びている。下手をすれば、目の前にいる女性よりも実際の年齢は上なのではないだろうか。


「もっと仲良くしましょうよ。こちらだって、リスペクトしてるんです。ほら、あなたって気が強いじゃない。私は舐められがちだから、見習おうって思って」

「それは皮肉なのかしら」


 柔和な笑みを作る少女に対して、相手は上から目線に腕を組む。

 なおも二人のピリピリとした会話は続いていくが、真白にとってはそれよりも気になることがあった。

 先ほど通ってきた道や建物を見る限り、現在地は日本であると踏んでいた。ところが、前方にいる二人の髪の色や顔立ちは明らかに日本人ではない。これは、どういうことなのだろうか。急に知らない道に迷い込んでしまったかのように、頭が混乱する。

 とにもかくにも、女性の喧嘩(けんか)には首を突っ込まないのに限る。そそくさと退散しようとした。が――


「こうなったら、ヤケよ」

「ちょっと、待って」

「なにが待てよ。あたしから全てを奪ったあんたが、そんな言葉を吐く資格があるとでも?」

「だから、ダメよ。だって、ほら、後ろに」


 巻き毛の女性が振り返る。

 つり上がった緑色の瞳が、今まさに逃げようとしていた少年の顔を映す。その瞳が人間のものとは思えなくて、ぎょっとする。

 頭上から日光が差し込んで、彼女の身につけている蘇芳や紫紺の宝石が輝きを放つ。

 やはりというべきか、相手は美女だった。予想外だったのは以外とおとなしそうな顔をしていたことだ。黙ってさえいれば清らかな美人だと思われるだろう。つくづくもったいないと言いたいところだが、今はそんな余裕はない。

 真白の体は硬直していた。異形じみた緑色の瞳にとらえられた以上、なにをされるが分からず、下手に動けない。頭が真っ白になる。対抗策すら浮かばないまま、時間だけが流れていく。


「ふん。目撃者を配置するなんて、せこいマネするじゃない。いいわ、今回ばかりは見逃してあげる」


 巻き毛の女性はツンとそっぽを向いて、唇をとがらせる。

 風が吹いて、巻き毛もなびく。隠れていた耳が覗くが、これまた吸血鬼のように尖っている。さらには長く伸びた爪まで視界に入って、少年の恐怖を煽る。


「あーあー、この人気のない場所でなら、暗殺だって成功すると思ったのになー」


 大きな声で物騒な言葉を吐きつつ、彼女はブラブラと去っていく。

 残された少年は、ぼうぜんと突っ立ったまま動かない。

 今回は見逃されたのだろうか。

 なにが起きてどうなったのか、さっぱり分からない。それでも、巻き毛の女性が発した『暗殺』というワードは聞こえていた。よく思い返すと、彼女には魔性の気があったような気がする。いったい何者だったのだろうか。下手をすれば証拠隠滅と称して巻き添えを食らった可能性もある。最悪のことを想定すると背中に戦慄(せんりつ)が走って、生きた心地がしなかった。


「助かったわ」


 急に両手を取られた。

 一気に意識が現実に引き戻される。

 気がつくと目の前に花のような美少女がいた。背景の雪を味方につけた彼女はとても清楚で、儚げだ。一見すると頼りないようにも見えるが、きめ細かで張りのある肌には若さを感じる。声もハッキリとしていて、好感を持てた。

 胸が高鳴って、落ち着かない。少年は一瞬で相手に、心を奪われてしまった。


「あなたの名前は?」

「真白、ですけど……」


 戸惑いながら答えると、少女は花のような唇をほころばせる。


「真白。そう、真白くんというのね。じゃあ、私と一緒に来てくれる?」

「え? な、どうして、そんなことに」


 突然の展開に目をパチクリさせてしまう。


「だって、あなたは恩人だもの。もしもこの場に現れなかったら、私は殺されていたわ」


 確かに、偶然とはいえ危ないところを助けたのは事実だ。報酬を受け取ってもよい立場にいる。しかしながら、本人は少々複雑な気持ちを胸に抱く。なぜなら、自分がよいことをしたという自覚はなく、欲しいものもなにもなかったからだ。別段、彼の感性が狂っているというわけではない。真白はむしろ相手を見捨てようとしたところであり、本当に助けるつもりなんて、なかったのだ。


「よく見たら、薄着じゃない。どうしたの? 追い剥ぎにあった?」

「え、いや。これは元からです」

「かわいそう。私が見繕ってあげるわよ」


 同情されても、嬉しくはない。

 露骨に眉をハの字に曲げて訴えてみるけれど、相手は気づいてくれない。もしくはわざとやっているのか、満面の笑みを浮かべて、少年を誘う。


「別荘に招待してあげる」

「いいですよ。別に」

「遠慮しないで。お礼なのだから」

「だから僕は、そういうのは別に、望んでなくて」


 目をそらして拒否したものの、いかんせん相手の押しが強い。


「さあ、いくわよ」


 彼女は少年の細腕をつかむと、歩きだす。

 なんてパワーなのだろうか。見た目は細腕なのに自分とは大違いだと、内心で感嘆の声を漏らす。少しばかり、綱引きの容量で力を入れてみたものの、効果はない。真白は相手に引っ張られるばかりで、抵抗すらできなかった。


 全てをあきらめて引っ張られるがままになっていると、目的地にたどり着く。

 針葉樹に囲まれた広い空間に建っているのは、隠れ家のような雰囲気の別荘だ。薔薇色の屋根は三角形で、バニラ色の壁には温かみがある。テラスが設置されているほか、窓も同じ大きさのものが複数空いていた。シンプルが外観ではあるものの、細かな部分まで気を使って設計された代物ではないだろうか。


「どう? これが私の別荘なの。さあ、入って」


 彼女に案内されて、扉を開く。玄関は広々としていた。壁や靴箱は真っ白で、飾られた花瓶だけが鮮やかな色彩を放っている。清掃は行き届いているようで、乳白色のタイルには汚れが全くついていない。

 ひとまず、はいていたスニーカーを脱いで、スリッパに履き替える。

 よく磨かれた廊下を通って、リビングに向かう。角を曲がるよりも早く出現した扉を開けて、中に入る。こちらも一人で利用するには広すぎる空間だ。中央には飴色に光るテーブルとチェアがあって、延長線上には大きな薄型テレビが設置されている。

 外装はともかく、内装の豪華さとセンスのよさは予想していなかった。

 真白が戸惑いを隠せずにいると、少女は勝手にリモコンを手にして、なにかの電源を入れる。

 テレビが点いた。大きな液晶がドラマの再放送を流す。ストーリーはよく分からないし、見た記憶のない人間ばかりが映っている。

 不意にカメラが一人の少女を画面に映す。花も逃げ出しそうなくらい、美しい娘だった。長く伸びたストレートなオパール色の髪が、目の前で存在感を放つ。桜色の唇でスラスラとセリフを口にして、過剰ではない自然な演技で視聴者を魅了する。物語上では主人公に恋をするヒロインを演じているのもあって、ピンク色の衣装がたいへん似合う。色白の肌に浮かぶ薔薇色の血色も、想いを寄せる相手を見上げる熱い視線――そのなにもかもが素晴らしい。主人公を演じている役者も美形であり、まさしく美男美女でお似合いだ。

 同時に、現在一つの空間に同じ顔の人物が存在していることに、真白は気づく。


「まさか」


 同じ部屋にいる少女を見る。

 本当に、まさかと思った。だけど、揺るぎのない現実が目の前に存在している。

 別段、困っているわけではないし、彼女の正体がなんであれ不都合があるわけでもない。ただし、やはり鼓動(こどう)が高まってしまう。なによりも、本当に目の前にいるものが真実か否(いな)か信じられなくて、幻と出会ったような気分になる。

 真白が目を丸くして突っ立っていると、少女は彼へ顔を向けて、ニコッと笑う。


「私、ハナサキイロハ。女優をやってるの」


 堂々と胸を張る彼女の姿は、テレビに映る女性と瓜二つだった。



 本当に、そうだったのか……。

 いまだに女優と一緒の空間にいると信じられず、戸惑っている。胸はいまだにざわめいているし、しばらくは落ち着きそうにない。

 ハナサキイロハと名乗る少女を信じていないわけではないし、おおかた本当なのだろうと、素直に受け入れられる。それでも、頭がついていかないのは事実だ。まるで夢でも見ているように感覚が不確かで、ふわふわとしている。


「お花が咲くで『花咲』、色彩豊かな葉っぱで『彩葉』よ。どう? カラフルで、いい名前だと思わない?」

「本名ですか?」

「いいえ。偽名、または芸名かしら」


 でしょうね、と真白は口の中でつぶやいた。

 花咲彩葉という名前は彼女に似合いすぎているため、後付けだろうと予想していたところだ。

 それにしても、和名ときた。聞こえてくるのは確かに日本語だが、相手の容姿は外国人に似ている。少しばかり、違和感を拭えない。


「巻き毛の人の名前は?」

「彼女なら、ミドリっていうんだけど。フルネームは龍と神でタツガミ、下の名前はカタカナでそのままの読み方よ。意味は緑色の緑で間違いないわ」


 龍神ミドリ――水色の巻き毛と緑の瞳を持つ女性は、明らかに外国人と分かる見た目をしていた。彼女までも、和名を持っているとなると、おかしな話だ。

 そもそも、外国人か否(いな)かは抜きにして、花咲彩葉の持つ髪は現実で存在するのだろうか。水色は染められるためギリギリセーフとしても、虹色の髪は再現できない。

 考えれば考えるほどモヤモヤがふくらんで、頭と心が爆発しそうだ。ついには耐えきれなくなって、目の前にいる少女に背を向ける。うずく体を抑えきれずに勢いのまま、リビングを出ようとした。ところが彼は後ろから抱きつかれるような形で、引き止められる。


「ちょっと待ってよ」


 背中になにやら、柔らかいものが当たっている。これは、わざとだろうか。顔が真っ赤になるが、確認をする余裕も、勇気も出ない。それよりも早く逃げ出そうとしたものの、相手の力が強くて、身動きが取れずにいる。初心な少年は、あっという間に体を固定されてしまった。


「どうして、逃げるの?」


 瞳を細めて、紅色の唇をつりあげて、問いを投げる。

 真白の位置からは見えないものの、彼女の誘うような表情は妖艶で、年齢を少女から大人の女性へ変わったようだった。


「だって、君は俗にいう芸能人じゃないですか。そんな人が、僕と……」

「いいの。気にしないで。私、普通に生活しているだけだし、別に有名だろうがなんだろうが、同じ人間であることに変わりはないでしょう。なにが問題なのよ?」


 必死になって自分の意見を伝えたものの、相手は穏やかな口調で言葉を返すだけだ。

 彼女の甘い声を耳元で聞いていると、気が狂いそうになる。さらには花の香りに全身を包まれて、心臓が張り裂けそうだ。


「だ、大問題です。僕と君とじゃ、スペックが違うんですよ。同じなのは種族だけです」


 額に汗をかき、目を泳がす。

 対する少女は穏やかに、子守唄をささやくかのような声音で言葉をつむぐ。


「あなたは今、すごく混乱しているわ。なにか事情を抱えているのは分かるけれど、まずは冷静になって」

「いえ、僕は冷静です。おかしいのは君ですよ。なんで、こんなよく分からない人間を家に上げるんですか?」

「そんなにおかしいの? 私って」

「ええ、まあ」


 他人をおかしいと認定するのは失礼で早計かもしれないが、真白にとっては相手の行動は常識の範囲外だ。


「でも、これは私が決めたことなの。あなたに指図はさせないわ」


 力強い声を背中に聞いて、ため息をつく。

 どうやら、話が通じる相手ではないらしい。仕方がないので逃走はあきらめるとして、自分は彼女のためになにをするべきなのだろうか。頭を少々ひねったものの、相手がただの一般人にこだわる理由が分からない。誰にでも尻尾を振る男性好きならともかくとして、花咲彩葉は見た目だけでいえば清楚だ。男好きには見えないし、なにより自分は対象外ではないかと真白は考える。


「状況が掴めないという気持ちは分かるけど、後で保管していけばいいわ。まずは、こちらの願いを聞いてほしいの。そのためにあなたを呼んだのよ」

「なんですか?」


 ようやく彩葉が力をゆるめてくれたので、解放された。

 すぐにでも逃げられる体勢となったものの、本当に逃がしてくれるとは限らない。

 彼はあえて彼女の話を聞くことにした。

 振り返って、背筋を正して直立していると、少女は神妙な面持ちで口を開く。


「命、狙われているみたいなの」

「はぁ……そうですか」


 有名人なら、ありえるのだろうか。


「リアクションが薄いのね。冗談を言っているわけじゃないのよ」

「分かってます。十分に驚いてもいますよ」


 鼻の下をさわりながら、慎重に彼女と視線を合わせにいく。


「心当たりは?」

「あるわ。ほら、あなたも見たでしょう? 彼女、私を殺そうとしているの」

「彼女とはあの……巻き毛の?」

「そう。蛇みたいな女よ」


 脳裏をよぎったのは、大きくつり上がった緑色の瞳だ。彼女の瞳孔は縦長に伸びていたようにも見えて、蛇という例えは言い得て妙だと感じた。

 龍神ミドリという女性なら、先ほども人気のない場所に彩葉を追い込んで、殺害を企てようとしていたのを覚えている。実際は真白が傍観していたからよかったものの、本来であれば凶行に及んでいたとしてもおかしくはない。もしくは、人に見えないところで暗殺を繰り返している可能性もある。いずれにせよ、龍神ミドリを野放しにするわけにはいかないだろう。


「た、倒せっていうんですか? 僕に?」


 声が裏返る。

 顔は引きつって、手はせわしなく開いたり握ったりを繰り返す。

 真白は一般人だ。戦闘力はないし、同じスペックの人間が相手になったとしても気持ちで負けて、倒される可能性が高い。とてもではないが殺人犯予備軍を相手にするのは気が引ける。


「あら、どうしてそういう発想にいたるのかしら」


 少女はきょとんと首をかしげた。

 つまり、彼女はか弱い少年を殺人鬼に押しつける気はないようだ。戦闘を回避できて、一息つく。


「それともあなたは戦いをしたいの? バトルジャンキーなの」

「ち、違います。僕はただ、不安になっただけなんです」


 なにかよからぬ誤解を招きそうだったので、あわてて訂正を求める。

 真白が早くもいっぱいいっぱいになる中、隙(すき)のない引き締まった顔になって、唇を動かす。


「そう、でもどちらでも構わないわ。私はね、あなたにボディーガードをお願いしたいのよ」


 平然と、なんてことのないようにあっさりと口に出された。

 一瞬では彼女の言葉を理解できず、固まってしまう。しかれども、彼女の言いたいことは理解できる。要するに自分の身に危険が迫っているから、護ってほしいといいたいのだろう。女優の願いを叶えたいのは山々だが、いささか無茶がすぎる。喧嘩(けんか)の経験すらない学生では、守り切ることなど、不可能だ。


「あの、戦うことに間違いはないんじゃないですか?」

「違うわ。私がいいたいのは、近くにいてほしいということよ」


 それは、口説き文句かなにかだろうか。

 ちんぷんかんぷんといった表情のまま、少年は後退る。


「龍神ミドリは戦闘力を持っているけど、人前ではおかしな気は起こさないのよ。だから、そばに誰かがいれば、逃げていくの」


 彩葉は確信を持ったような口調で、スラスラと説明を繰り出す。

 なるほどと、内心で納得した振りをする。

 本当にそばにいるだけで護れるか否(いな)かはさておき、ミドリは実際に目撃者が現れた時点で姿を消していた。おおかた、臆病なのだろう。殺人を実行に移す勇気すらないと思われる。


「それに、あなただって行く宛がないんでしょう? だったら、泊めてあげる。別荘で居候(いそうろう)しない?」

「い、いいんですか?」


 さすがに悪いのではないか。

 現在一文無しである少年は家賃を払えない。食事を無料でもらえるかは分からないが、甘えすぎるのはよくないだろう。


「大丈夫よ。私、お金ならたくさん持っているもの」


 現在もテレビに映っている女優本人が、惚れ惚れするようなかっこいい表情で、ハッキリと言い切った。

 リビングを見たところ、彼女の発言に嘘はない。周りにある家具は高級感がただよっていて、どれも質がいい。ミドリという同業と思しき女性に嫉妬(しっと)されるくらいだ。相当稼いでいるのだろう。

 いちおう資金の心配をする必要はなくなったわけだが、やはりただで泊めてもらうというのは申し訳がない。悩ましげな表情で口を一文字に結んでいると、思いついたように彼女は「あっ」と叫ぶ。


「こういうのはどう? 私のかわりに掃除とかしてくれるっていうのは」

「それはいい交換条件かもしれない」


 さすがにゴミ屋敷を片付けるくらいのスペックはないが、簡単なことであれば、なんの取り柄のない少年でも問題はない。

 急に自信が湧いて気持ちが明るくなったところで、目の前にいる彼女も満ち足りたように笑んだ。

 はてさて、自分の選択は正しかったのだろうか。

 ひょっとしたら、断っても永遠に誘ってくるパターンだったかもしれないと考えると、自然と苦笑いが顔ににじんだ。



「ここは宿泊施設もかねているのよ」

「見た目はキャンプ場によくあるロッジに似てましたしね」


 夕日が窓から差し込み、廊下が真っ赤に染まる。

 現在、少年は『部屋に案内する』と言い出した少女の後をついいくような形で、歩いていた。

 本音をいえば集団よりも単独行動のほうが好きで、一人のほうが落ち着くタイプだ。最初から個室自体は求めてはいたのだが、だんだんと不安になってきた。

 廊下を渡っている最中も、心が落ち着かない。

 ついつい、下をむいてしまう。

 理由は自分の中では明白だ。

 そして、前方に扉が見えてきたころ、ついに我慢ができなくなって口を開く。


「あの、本当にいいんですか?」


 顔を上げて、眉をハの字に曲げながら問う。

 唇が乾いていたので、こっそりと舐める。

 返答は、想像よりも早かった。


「大丈夫よ。きちんと個室も用意しているもの」

「いや、そういうんじゃなくて」


 本当は、『冴えない少年に対して、よくしすぎではないか』と、尋ねたかった。彼女の善意はありがたいし素直に受け取っても構わないものの、女優の別荘に泊まるなんて恐れ多い。あまりにも身に余る待遇だ。明日、交通事故に遭って死にそうなくらいの幸運でもある。

 なんとか察してもらって、『気にしなくてもいい』というフォローを期待していた。しかれども、先頭を進む少女は振り返ってはくれない。天然なのかわざとなのか……。いずれにせよ、あきらめるしかなさそうだ。


「ほら、着いたわ。ここよ」


 少女が扉の前でピタッと足を止める。

 案内を終えた彼女がちょうど手前を指す。

 少年はためらいがちにとなりに立って、ドアノブをひねる。ダークブラウンのドアを開くと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。一瞬、冷凍庫の扉を開けたのではないかと、勘違いした。リビングは暖かかったのだが、長らく放置していたせいだろうか、中は冷え切っている。

 彼が立ちすくんでいると、すっと彩葉が中に入って、すばやく壁に触れる。スイッチを押されたようで、カチッという音が鳴った。途端に明かりがついて、薄暗かった室内にナチュラルな光が生まれる。少年は遅れて足を一歩踏み出してから、天井を見上げた。視線の先にある照明は丸く、本物の太陽に似ている。もっとも、本物と違って凝視しても目がつぶれる心配はない。

 寒さに慣れてきたところで、ぐるりと部屋を一瞥する。

 内装はシンプルで、男女両用を思われる雰囲気だ。壁は温かみのあるアイボリーで、床には茶色の絨毯(じゅうたん)が敷かれている。家具はベッドや机といった必要最低限のものが備え付けられており、その全てがクリーム色で統一されていた。


「やっぱり暖房とか必要?」

「大丈夫です」

「えー、ダメよ。凍死するわよ」

「は、はい」


 外と似た空気をした部屋の真ん中で、真白は無表情のまま突っ立っている。

『大丈夫』というのは強がりではない。なぜなら、実際に寒さを感じていないからだ。さすがに暖かいとは思わないものの、平気なのは事実だ。しかしながら、昔は冬でも暖房がほしかったことを考えると、現状には違和感がある。まるで自分という存在が世界から浮いてしまったかのようで、複雑な気持ちを胸に抱く。


「暖房自体は元から設置してあるんだけどね。必要だったら遠慮せずに使って。エアコンのスイッチを押せばいいだけだから」


 彼女の言葉を聞いてすぐに視線を上げる。彼の澄んだ瞳が、長方形の箱を映す。天井近くの壁に設置されているようだ。新品同然にピカピカでもある。きちんと清掃をした結果なのか、使用されていないだけか――詳細は分からない。

 確認を終えると、真白は即座に視線を元に戻した。


「じゃあ、あとは自由にお願い」


 彩葉はきらめくような笑顔を彼へ向けると、外へ出ていく。

 少年は振り返らない。

 扉の閉まる音を背中に聞いて、ため息をつく。

 可憐な女優と一緒にいると、非常に疲れる。別に彼女が悪いわけではないけれど、胸がドキドキして、無駄に神経をすり減らしてしまう。

 一人になってホッとしているものの、いなくなったらいなくなってで、ちょっとした喪失感がある。

 とにもかくにも、今は落ち着いて状況を整理する時間だ。

 いったんベッドに腰掛けて、天井を見上げる。


 まず、真白は見知らぬ町に迷い込んだ。

 ここはいったい、どこなのか。

 抱いた疑問は現在も解決せず、ぼんやりと頭の中をただよっている。

 考えられるとすれば、日本を舞台にした漫画かアニメの世界だろうか。

 まだ見ぬ土地はともかく、別荘付近の町並みには既視感がある。木造家屋も見慣れているし、間違いなく日本の町だ。二人の女優の名前も日本人特有のものだ。容姿は西洋人寄りではあるものの、キャラクターであればおかしくはない。アニメの登場人物は基本的に、日本人離れしているからだ。

日本人離れした容姿をしている者が多いからだ。


「これしか考えられないよな。でも、あんな名前、聞いたことないんだけどな……」


 天井を見つめながら、ブツブツとひとりごとを吐く。

 頭を回転させつつ、花咲彩葉と龍神ミドリという名前に心当たりがないか、探ってみる。結果は、検索結果ゼロ状態で、なんの成果も得られなかった。

 いったん思考を切り替えて、時代に関して考えてみる。

 別荘の内部を一通り見たところ、技術は現代と変わらない。照明には電球がつかわれているし、机の上にはノートパソコンが置いてある。

 立ち上がって、机の前にあるイスに座った。

 慣れた手付きで画面を開く。電源ボタンを押す。画面はすぐについた。デスクトップの青い背景に、アイコンがずらっと整列している。下部のタスクバーに注目すると、『2538/03/20』と表示されていた。


「二五三八年……?」


 日本と同じ世界ならば、表示される数字は二〇一八年だと踏んではないのだろうか。仮に今の世界が自分が頭に浮かべた日本の五二〇年後だとすると、あまりにも昔と町や技術が変わらなさすぎる。五〇〇年以上も時がたっているのなら、もっと技術が発展してしかるべきだ。

 もしくは自分の記憶が間違っている可能性はあるのだろうか。念のために自分が最後に見た日付を思い出す。二〇一八年三月二〇日。自宅のカレンダーで見た数字だ。つまり、自宅で暇をつぶしている間になんらかの出来事に巻き込まれて、自分の知らない場所に飛ばされたと考えるのが妥当だ。しかれども、肝心な部分の記憶が空白となっていて、モヤモヤする。

 とにもかくにも、手がかりもないまま考察をしたところで意味はない。ここが日本と異なる世界か否(いな)かは、歴代の総理大臣を調べるだけでハッキリとする。

 今回は現在の年と月・日付が分かっただけでも収穫だ。残りの記憶は時間をかければいつかは思い出すだろう。少年は気長に構えて、まずはデスクトップの『e』という字をかたどったアイコンをクリックした。



 インターネットを開いて、検索窓に『日本』という単語を打ち込む。キーボードは日本語のようで、自分でも読める。画面に浮かぶ文字も同じ言語であるため、ネットでの会話に支障は出ないだろう。

 検索結果は一秒も待たずに表示された。本来であれば無料で閲覧できる百科事典に飛ぶはずだが、今回はWikiの『W』の字も載っていない。現在の国の名前は、日本ではないのだろうか。さすがに五〇〇年以上もたてば変化は起きるだろうが、納得がいかない。

 気を取り直して、歴代の総理大臣の名前を覚えている分だけ入力――しようとしたものの、フルネームでは一人も分からなかったので、『総理大臣』という単語を検索する。

 さすがにこれくらいは機能しているだろう。真白は心の中でひそかに期待を高めていく。

 ところが実際はなにも表示されない。通常であれば冒頭に表示される現在の総理大臣の名前すら、載っていなかった。


「さすがにおかしいだろ」


 最新の大統領はさすがに(名字は)覚えているものの、ネット上には名前すら出てこない。まるで、この世界には存在しない人間だと言われているようで、気味が悪かった。


「なにがどうなってるんだ……」


 唖然(あぜん)としてつぶやく。

 いくら創作の世界とはいえ、一般常識は守られていると考えていたけれど、結果はこのザマだ。

 まさか、今いる世界は、歴史ごとゼロから塗り替えられた新しい世界だとでもいうのだろうか。

 もはやなんの言葉も出てこない。歴史の勉強が通用しない世界に迷い込んだのだと気づいて、本当に自分が一人になったのだと実感する。

 真白は現実を受けいられないまま、ぼうぜんと首を振った。されども、目の前の画面に映る文字は変わらない。やがて彼はノートパソコンから目をそらして、天井を見上げた。


 ほどなくして、夕食の時間になったようだ。彩葉に呼ばれたため、リビングに戻る。用意されたのは、具だくさんの鍋だった。大きさは小さめだが、質が凄まじい。完成度も高く、湯気が天井まで立ち上っている。冬|(というより春に近いが)にピッタリな、心も体も温まる一品だ。よい香りがこちらまでただよってくるものの、彼の態度は消極的だ。どうにも、進んで箸を取る気にはなれなかった。


「鍋はお嫌いかしら」

「あ、別に、大丈夫です」


 真白は冴えない顔で席につくと、無表情のまま箸を手に取る。


「ただ気になっていることがあるだけなんです」

「例えば?」


 彩葉が前の席に座って、前のめりで尋ねてきた。

 谷間が見えそうで、つい注目してしまう。

 しかし、残念というべきか、見えそうで見えない。

 少々恥ずかしさを胸に抱いたところで、彼女の冷たい視線が体の中心に突き刺さる。

 あわてて顔を上げて、目をそらした。


「えーと、その……。この国の歴史って、どうなってるんですか?」

「ああ、それね。東歴元年以降のものは抹消されているのよ」

「え、ああ、そうなんですか」


 真白が目を丸くすると、相手もきょとんと首をかしげる。


「消された歴史を知りたいんじゃなかったの?」

「はい。歴史が消されていたことなんて、今初めて知ったので」


 箸で野菜をつかんで、小さな皿に盛る。

 口に運んで食べると、青っぽい匂いと一緒に、爽やかな味が口いっぱいに広がった。


「この二五三八年間、国でなにが起きたとか、知ってますか?」

「なにも起きてないわよ」


 予想してなかった返答がきて、人参をつかもうとしていた箸を止める。


「本当よ。おかしな話だと思うけど、この国は停滞してるのよ。国王が強すぎるとでもいうのかしら。見えない支配者がいるのだけど、なにが起きても対処するから危機が訪れないの。隣国も恐れをなして、攻めてこない。戦争にも干渉していないわ。だから歴史の教科書の中身が薄いのなんの。読んでも、つまらないわよ」


 要するに、国王のスペックがリアルチートだったせいで、歴史にドラマが生まれなかったという感じだろうか。現代の常識とは異なる世界だ。本当に物語の中に入り込んでしまったのではないかという疑惑が高まって、複雑な気持ちになる。

 気を取り直して、人参を口を放り込んで、よく噛む。ほんのりとした野菜の甘さが口いっぱいに広がった。


「その王というのは、どこにいるんですか?」

「中央よ。言っておくけど、会おうとしても無駄だからね。そもそも、国民は王のことをなにも知らないの。詮索するだけ無駄よ」


 彩葉もよく煮込まれた肉を皿に取りながら、口を動かす。

 彼女は王には会えないと言った。それは理解できる。けれども、後に続く言葉の意味を呑み込めず、首をかしげた。国に住んでいる者ならトップの顔や名前くらい、常識ではないのだろうか。テレビをつけずに引きこもっている者以外は、世間でよく名前を聞くはずだ。納得がいかなくて、眉をひそめる。


「なんで、ですか?」

「地図を見れば一発で分かるわ」


 いったん食べ物を飲み込むと、彩葉は立ち上がって、後ろを指す。ちょうど背後にある壁に、大きな紙が張られている。描かれているのは、楕円形に近い形をした国土だ。東西南北と中央の五つにパーツが色分けされている。


「私たちがいる場所は、北と東の境よ。時計回りに行けば、歩いて数十分でそちらにたどり着くわね」

「な、なるほど」


 堂々と説明をする彩葉を、真白はよく分かっていなさそうな顔で見上げる。


「それで、分かる? 中央エリアの外周」


 真白はうなずく。

 無知な少年でも、彼女の言いたいことは分かっていた。

 地図上では東西南北の地方を隔てるかのように、太い線で区切られている。

 つまり――


「太い線が壁で、通行は容易ではないとか、そういう感じですか」

「ええ、よく理解できたわね。褒美を与えてもいいくらい」


 ストレートに褒められると照れてしまう。

 自分の感情を誤魔化すように下を向いて、鍋の具材をモグモグと噛みしめる。


「王は中央のどこかにいるの。でも、誰も姿を見たことがないみたいね。それは、当然か。壁の向こう側との交流をほぼ完全に断っているんだもの」


 彩葉は優雅に着席すると、ていねいに箸を揃えて取って、鍋から具材を取り出す。


「ほぼ?」

「選ばれた者は入れるみたいだから」

「君は?」

「もちろん、許可されているわ」


 気になったことを尋ねてみると、嘘(うそ)か本当か分からない答えが返ってくる。


「なら、王の顔も知ってるんじゃないですか?」


 鍋から野菜を取りつつ問うと、彼女はわざとらしく小首をかしげた。


「秘密」


 桜色の唇に細長い指を乗せて、淡く微笑んだ。

 本当にとらえどころのない女性だ。

 少年は肩から力を抜いて、苦笑いをする。

 以降は特に相手から情報を聞き出すこともなく、淡々と食事を進めるだけとなった。

 鍋の中身がスープだけになったので、いったん蓋を閉じる。真白が手伝うか否(いな)か迷っていると、彩葉が勝手に台所まで鍋を持っていってしまう。ひ弱な少年が出る幕はなかった。

 気を取り直して、小皿を持つ。開きっぱなしの出口を通って、廊下に出る。真っすぐに台所へ駆けつけると、シンクの前に立っている少女へ、洗い物を差し出す。


「ごくろうさま。だけど、洗浄は必要ないみたい」

「え、なんで?」

「だって、もう、きれいなんだもの」

「そんなはずは――」


 と、言いかけて、視線を下へ向ける。

 小皿には数滴の汁すら残されておらず、新品同然に磨かれていた。

 真白の目ではいかなるトリックを使ったのか、分からない。彼としては、イリュージョンを見せられたようなものであり、頭が混乱している。

 なお、少女は落ち着いていた。当たり前のように食器を受け取ると、棚にていねいに戻す。


「はい、終了よ。あとはお風呂よね」

「あ、はい」

「先に入っていいわよ」

「え、いいんですか?」


 なにやら高待遇を受けたようだが、うまく頭に入ってこない。


 それから彼は言われた通りに一番風呂に入って、体を清める。

 バスルームはミントグリーンとアクアブルーの小物が置かれているくらいで、あとは真っ白だ。よく磨かれているようで、水垢やカビは見えない。湯は乳白色の入浴剤が入っていて、つかると体の芯まで温まるような気がする。

 なんという至福のひとときだろうか。気持ちのいい湯の中で、ぼんやりとくつろぐ。天井を見上げると、昼光色の照明が視界に入る。冷たい雰囲気のする、青っぽい光だ。どことなく、雪の白さを連想した。

 二〇分ほどで湯船から出て、扉を開ける。

 本当は脱衣所で彼女の着替えている場面に出くわすという、ラッキースケベを期待していた。彼女の裸体ならさぞかし見応えはあるのだろうと思ったものの、妄想は現実にならないようだ。さすがに虹色の女優はライトノベルのようなうっかりをかましてくれなかった。

 ちょっとした失意の中で体を拭いて、寝間着にすばやく着替える。

 引き戸を開けて、廊下に体をさらすと、ほどよい冷気が火照った体を冷ます。

 ぼんやりと通路を通って、個室へ戻る。

 外はすっかり、真っ暗だ。

 現在はいろいろと頭が混乱していることもあって、早く休みたい気持ちでいっぱいだった。

 電気を消して、ベッドに横になる。まぶたを閉じると視界は完全なる闇にとざされて、羊を数える暇もなく、夢の世界に旅立っていった


 ほどなくして夜は明ける。

 起き上がって、右を向くと、窓の外に快晴の空が広がっていた。雲一つない鮮やかな青色が、色のついていない真白にとってはまぶしくて仕方がない。太陽の光は柔らかで、優しく室内を照らす。

 まだ眠気は覚めず、横になっていたいのは山々ではあるものの、いつまでも怠けているわけにはいかない。ベッドを抜ける。布団を片付けて、しっかりとシーツも整えた。

 点検を終えたあと、クローゼットから冬服を取り出す。コーディネートは凝ったところで意味はないため、適当なものをチョイスする。着替え終わったら個室を出て、リビングへ向かう。すでに彩葉は起きていたようで、テーブルには朝食が並んでいる。瑞々しいサラダに、ふっくらと焼かれたパン、香ばしい香りのただようスープ。飲料として、コーヒーも並んでいる。

 朝からそこそこのボリュームだ。過去に茶碗いっぱいの白米で学校にいっていた真白とは、比べ物にならない。

 女優にとっては当たり前なのだろうが、平凡な学生にとっては、恵まれすぎている。遠慮しそうになるけれど、無下にするのは逆に悪い。おとなしく席について、朝食を食べる。

 これから新たな一日が始まるのだと意識したころ、不意に彩葉が唇を動かす。


「どう? 私と一緒に町を歩かない?」


 一緒に町を歩く――すなわちそれは、深読みするとデートをしようと言っているのではないだろうか。

 彼女としてはさりげなく提案したつもりだろうが、初心な少年には誘っているようにしか思えない。

 真白はサラダをかきまぜる手を止めて、硬直する。


「い、いいんですか?」

「構わないわよ。送り迎えのときに道が分からないと困るでしょう?」

「ああ、はい。そうですけど」


 そもそも、彩葉がなんの取り柄のなさそうな少年を居候(いそうろう)させたのは、蛇のような女から身を守るためだ。敵は人気のない場所でしか暗殺を実行に移せないため、戦う必要はない。そばにいるだけで彼女の役には立てる。逆にいうと護衛役は誰でもよかった。全ては偶然で、運がよかっただけだ。それでも、数多くの人間の中から選ばれたことを、少年は誇りに思う。しかしながら、近くで置き物になっているだけでは、物足りない。熱意は心の中で膨れ上がっていくものの、SPのように体を張って大切な人を護るようなマネはできそうになくて、そんな自分が情けなかった。


「送り迎えというのは、僕が付きそうってことですよね?」

「そうよ。問題ある?」

「えっと、その……。周りから見られますよね?」


 おどおどと視線を泳がしながら、問う。


「別に問題はないんじゃない?」


 目の前にいる女優は特に気にした様子も見せず、真顔で口を動かす。


「町を歩くときは変装をするの。私が花咲彩葉であることは、気づかれないわよ」

「変装といっても限度がありますよね」


 りんごの混ざったカラフルなサラダを口に運ぶ。

 シャキシャキとした野菜の薄い味の中で、果物の甘酸っぱさがいいアクセントになっている。


「ふふん、私を誰だと思ってるの? ある人には玉虫色の女優だって揶揄(やゆ)されるけど、裏を返せばいろいろな色を出せるくらい、演技力や変装術があるということよ」


 胸を張って堂々と話をする女優の姿は、実に頼もしい。声もハキハキしていて、意思の強さをうかがえる。

 よほど自信があるのだろうか。いまだに相手の本質をつかめていない真白は表情を曇らせながら、コーヒーに口をつける。暗褐色の熱い液体をちびちびと飲む。やはり、苦い。子どもにはまだ早いようだ。顔をしかめながら、念のために彩葉に質問を飛ばす。


「もし見つかったときは、どうしますか?」

「大丈夫。見つからないから。そこまで疑うのなら、見せてあげてもいいのよ。私の実力というやつを」


 虹色の女優は立ち上がって、勝ち気な目をしてこちらを見澄ます。

 次の瞬間、彼女の体からまばゆい光が発生する。思わず目を細めたものの、肝心なところを見逃してしまいそうで、目をつぶるのはこらえた。今の彼女は白いなにかに包まれていて、体のラインだけが浮かび上がっている。女児向けアニメでよく見る、変身のバンクのような光景だ。彼女の女性らしい体型にドキドキしつつ、邪な感情が湧き上がってきそうなところを、抑えようとする。

 よからぬものを見ているような気になって、顔に赤みがさす。

 体も熱くなってきたところで、ようやく光は止んだ。

 次の瞬間、まったくの別人に変貌した少女が目の前に現れた。


「ね、言った通りでしょう?」


 やわらかな栗色の髪がふわりと揺れる。

 丸みを帯びた体は杏色のコートで隠され、淡い紅藤色のスカートの下からすらりと足が伸びていた。

 顔立ちは通常よりも大人びていることもあって、穏やかな雰囲気だ。慈愛に満ちた表情を浮かべた彼女は、まさに女神と呼ぶにふさわしい。ツヤツヤに整えたられた爪には、お嬢様らしい育ちのよさも、うかがえる。

 二対の瞳は真紅で、やわらかな雰囲気の中に隠しきれない凛々しさがにじみ出ていた。

 花咲彩葉とは系統が違うものの、好み云々関係なく、ついつい見入ってしまうほど美しい女性だ。それはそれとして、冷静に考えるまでもなく、先ほどの光景と彼女が成し遂げたことはおかしい。


「どうなってるんですか? 変装の粋じゃありません。もはや魔法ですよ」


 遠慮せずに指をさして、大きく開いた口で主張をする。

 少年が素直に動揺と驚きを表に出す中、彼女はなにくわぬ顔で、ありえないことを口に出す。


「ええ、私、魔法使いだもの」


 衝撃の告白だった。

 女優の主張が本当か否(いな)か判りかねて、頭が混乱する。さすがに現実世界においては冗談だと片付けられるものの、実際に彼女は『変身』を見せた。つまり、本物なのだろうか。素直に信じてしまっている表の自分と、疑ってかかるべきだと叫ぶ裏の自分が、水面下で激突する。


「あなただけに見せてあげたの。そう、特別なのよ」


 彩葉がそっと、近づく。

 耳元でささやかれて、胸がドキッと脈を打つ。


「周りには言いふらしちゃダメよ。きちんとあなたを信じて打ち明けたのだから」


 全体からフローラルな香りが、ふんわりとただよう。

 甘く、うっとりとするような声で頼まれると、こちらも頷かざるをえなくなる。

 少年の反応を見て満足したのか、彩葉はゆっくりと彼から離れて、元の位置に立つ。


「じゃあさっそく、行きましょうか」


 皿はすでに空になっている。外へ出る準備は整っていた。


 外へ出ると、透明な空気が肺を満たす。

 山を抜けて市街地に出ても、空気の清浄さは変わらない。

 アスファルトに注目すると、濃い灰色に濡れていて、雪が溶けているのが分かる。なお、近くにある草原だったであろう場所には、まだ白く残っていた。日光を浴びて、キラキラと輝く様は神秘的で、まさに白銀と呼ぶにふさわしい。


「正直、この町にはなにもないの。娯楽もね。公園ならあるけど、さすがに使わないでしょう?」

「ええ、まあ。でも、見てみたくはあります」


 公園というと、昔はよく遊んでいた記憶がある。もっとも、彼には友達がいなかった。行っていたのは、一人でブランコを漕ぐだけの、寂しい遊びだ。

 子どもにとっての楽園だった場所には、苦い思い出しかない。

 ただ、なんとなく過去を懐かしみたくなって、失われたはずの情景を求めていた。


「なら、案内するわ」


 歩き出した彼女を追う。

 坂道を下って、まばらに建ち並ぶ民家をチラチラと眺めながら、前へ進む。途中にいくつかに道が分かれていたものの、全て無視して、真っすぐに歩き続ける。

 一〇分後、彩葉は駄菓子屋の前で足を止めた。方位磁針がないため東西南北は把握できないものの、店の入り口から見て北に、開けた土地があることは分かる。ジャングルジムやブランコ・滑り台などといった遊具が、申し訳程度に設置されていた。奥には大きめの古びた屋敷も建っているけれど、ずいぶん前に元の持ち主に捨てられたようだ。


「ほら、あそこよ。大した見どころもなさそうだけど、感想は?」

「え、感想ですか……」


 公園側から見るとT字になっている道の上で、少年は困惑したようにつぶやく。

 とんだ無茶振りだ。前方に存在する土地を視界に入れても、「公園ですね」というコメントしか浮かばない。

 心は空白に染まって、自分の感情すらうまく把握できずにいる。


「やっぱりあなた、感情がないのかしら。ときどき、人形かなにかじゃないかって、思うのよ」

「そ、そんな……。僕は列記とした」

「ええ、そうよね。人間以外の生命体なんて、今どき存在しないもの」


 白々しく口にしたあと、少女は真紅の瞳を細める。


「僕にもちゃんと、感情はありますよ」

「口調に抑揚がないのに?」


 そんなバカなと、心の中でつぶやいた。

 彩葉と接していると、胸が高鳴って無駄に疲れてしまう。これほどまでにドキドキしているのに、分かってくれないなんて、理不尽だ。くわえて、言葉にアクセントがついていないときた。自分でも無意識の内に感情を抑えて、淡々と話す癖でもついたのだろうか。

 少年が眉をハの字に曲げていると、虹色の女優はからかうように笑うと、話を切り替える。


「それで、ここから道をずっと前へ進んで、国道に出るでしょう。もっと奥へ行けば、東の地区なの」

「ここまで一〇分ということは、あとは」

「二〇分ジャストよ」


 少年の問いかけに、彼女はハッキリと答えた。


「途中に町を一つ挟むから、正確にはその先よ。これから私が向かう場所でもあるのだけど、ついてきてくれるわよね」

「それは、まあ」


 瞳をそらしながら、曖昧(あいまい)に濁す。

 本音を言うと家でダラダラしていたい。とはいえ、目の前にいる美少女の申し出を断るわけにもいかないだろう。なにより、真白は頼まれたら断れない性格だ。心の中でいくら不平不満を漏らしたところで、結局は承ってしまうのだから、昔から損をしていた。


「ところで北のほうには学校があるわ。入学する気はある?」

「あ、嫌です」


 即答する。真白にしては珍しい。

 学校で特別嫌な思いをした記憶はないのだが、不思議と関わりたくないという気持ちが湧き上がってくる。謎だ。過去にトラウマでも抱えていたのだろうか。記憶自体が断片的で定かではないため、ハッキリとした答えは出ない。分からないものがあるというだけでモヤモヤが発生して、心も灰色に曇ってしまう。

 されども、悶々としたところで意味はない。この件に関しては、深く考えないことにした。


「無理強いはしないわ。今はそれよりも、渡しておきたいものがあるの」


 彼女は、真っ黒な液晶のついた平たい板を差し出す。

 素直に受け取る。


「なんですか? これ」

「見て分からない?」


 どこからどう見てもスマートフォンだ。真白は昔、携帯と呼んでいた。


「帰るときになったら、呼び出すから、応じてね」

「は、はい」


 見目麗しい女優からの頼みを断る男がいるはずもなく、即答する。


「ところで僕ら、なにしてるんですか? さっきからずっと同じ位置に留まってるんですけど」

「ああ、それね。バスを待ってるの」

「バスですか?」


 駄菓子屋から数メートル離れたところで、倉庫を背にして、彼らは立っていた。

 近くの地面には丸い板と長方形の紙がついた棒が、突き刺さっている。言われてみると、バス停にしか見えない。もっとも、屋根もベンチも設置されていないため、とんでもなく貧相だ。


「ほら、来たわ。ね、言ったでしょう。バス停だって」

「それは分かってますよ」


 少女が坂道をゆっくりと下ってきた鉄の箱を指す。

 乗客はいないわけではないものの、少ない。青い車体からは、どことなく哀愁がただよっている。頭のほうの電光掲示板には行き先と思しき町名が流れていった。

 二人はすばやくバスに乗り込んで、窓際の席につく。ドアはすぐに閉じて、バスは目的地へ向かって発進する。

 真白は数秒ほど窓の外を眺めていたものの、やがて手にしたタブレット型端末へ視線を移して、ひそかに電源を入れた。


 花咲彩葉(本名、聖辺ひじりべ花純かすみ)は、東国の女優・舞台役者である。

 生年月日・出身地ともに不明。

 身長一六〇センチ・体重五〇キログラム。

 別名、七色の女優。彼女の演技は変幻自在だ。万華鏡のように一つの役の中でも、さまざまな色をのぞかせる。年齢不詳で、特に恋する少女の役には定評がある。映画でヒロインの役を務めたさいは、ありとあらゆる賞を総なめにした。しかし、本人に熱愛の気はなく、いままでに交際をした相手はいないそうだ。

 劇団に入った当初は無名だったが、徐々に頭角を現していき、今や国民的ヒロインだ。これからの彼女の活躍に期待が高まる。

 主に舞台を中心として活動している。メディアの前に姿を現すことは滅多になく、プライベートは謎に包まれている。


 以上が、ネットで検索したら出てきた、花咲彩葉に関する記事だ。

 真白の感想としては、『同居していた女優が思ったよりも凄い人だった』である。確かに、圧倒的なオーラと世の中の男性を魅了する美しさはただ者ではないと気づいていた。しかれども、まさか『国民的』と呼ばれるまでに人気がある人物だとは思わなかったのだ。もしも、素顔で花咲彩葉と歩いているところを見られようものなら、全国から集まったファンに殺されるのではないだろうか。

 また、身長が一六〇センチだったということで、思ったよりも小さかった。真白と比べると五センチの差だ。もちろん、彼のほうが高い。さすがに女性に身長で負けるのは恥ずかしいので、気休めではあるが、安堵している。おおかた、顔が小さくで足が長いため、実際よりも背が高く見えるのだろう。体重が五〇キログラムであることに関しては、痩せているほうだろうと感じる。もっとも、あまりにもキリがよすぎる数字であるため、捏造している可能性もあるだろう。第一、プロフィールで謎となっている部分が、多すぎる。出身地と生年月日が不明な人物など、初めて見た。その中で、本名のみが開示されていて、異質な雰囲気を放っている。

 聖辺花純。

 神々しさと可憐さが組み合わさった、いい名前だ。

 ただし、わざわざ公表していることは、わざと見せているという可能性もある。生年月日・出身地すら隠すのなら、こちらも非公開にしてもよいのではないだろうか。

 どことなく、釈然としない。

 それはそれとして、『プライベートは謎に包まれている』と言うが、本人が目の前にいるという状況に、自分はどのような反応を取ればいいのだろうか。くわえて、同居もしているという。なにやら、自分が普通の人では体験できない経験をしているような気がして、誇らしくなる。

 それにしても、容姿にくわえて演技力も評価されているとは、スペックが高すぎる。天は彼女に二物を与えてしまっているではないか。国王のことを強すぎると言っていたけれど、花咲彩葉も人のことを言えない。七色の女優こそ、リアルチートだ。


 ほどなくして、バスは停止する。乗客の何名かが下りて、二人はそれに続く。

 外に出ると、暖かな空気が彼らを包む。北はまだ冬のような雰囲気だったにも関わらず、こちらはすでに春だ。町には花壇が目立つ。鮮やかな花々が、町を彩っている。

 別荘のあった町と比べると、雰囲気がガラリと変わった。東と北で、こうも差がつくものだろうか。どことなく素朴で冷たい雰囲気のあった北と比べると、こちらは華やかだ。まるで、となりにいる、花咲彩葉のようでもある。彼女がこの町に住めば、さぞかし似合ったことだろう。その財力を用いれば東西南北全てに別荘を構えて、そこから通うこともできそうだが、実際はどうなのか。


「うーん、まだ朝みたい。上映まで時間があるわね。私には関係ないけど」

「上映……。映画でも見に行くんですか?」

「いいえ。劇場よ。あなたも知ってるでしょう? 私の職業」

「ああ、まい、はい」


 先ほど、彼女の名前をネットで検索して、いろいろと調べたところだ。その割には大した情報を得られなかった。彼女のスペックが高いということだけは分かった。細かな部分――たとえば、才能が開花するまでの出来事などは、調べても出てこない。ちなみにスリーサイズは八五・五九・八五だったそうだ。捏造の臭いがぷんぷんするため、正確なところは分からない。くわえて、開示されている部分のデータを閲覧したところ、彼女自身が花咲彩葉という女優はこのような人物だと設定しているような気がする。ちょうど、魔法使いというだけあって、容姿をいじる術を持っていることだし、不可能ではないだろう。

 それはともかくとして、今から自分はなにをすればいいのだろうか。言われるがままついてきてしまったけれど、華のある町並みで自分はたいへん浮いている気がする。


「安心して、悪いようにはしないわ。あなたには少し、私の舞台を観劇してほしいだけなの。チケットは無料で与えるから、いいでしょう?」


 接近する。

 ヒールがコツッと控えめな音を立てる。

 チケットを手渡される。

 ふわりと揺れるオパール色の髪から、薔薇(ばら)のような香りがただよう。


「ああ、はい。楽しみに、しています」

「気に入ってもらえたようでなによりだわ。でも、昼間からじゃないと見られないの。生殺しにするようで、悪いわね」


 彼女はあっさりと、とんでもないことを言ってのけたような気がする。


「昼からですか? 今、朝ですよ。大丈夫なんですか? 僕はどこで暇をつぶしたら……」


 暇は真白にとっての大敵だ。特にパソコンのない環境に晒されると、発狂しそうになる。禁断衝動が出て、体がうずいて仕方がなくなるのだ。もっとも、今はちょうど手にタブレット型端末を持っている。預けられたものだが、いちおうは彼女の持ち物だ。使用料金が気になって、無駄には使えない。


「じゃあ、お小遣い。これで自由にして」


 手のひらにさらっと、重たいものを載せられた。

 ビクビクしながら確認すると、金色のコインが手の中に入っていた。


「金貨ですか?」


 顔を引きつらせながら、問う。


「ええ、これくらいあれば、遊び倒せるでしょう?」

「いやいや。そういう問題じゃありませんよ」

「いいの。女優の財力を舐めないで」


 さすがは国民的ヒロインだ。数多くの作品でヒロインを演じて、賞を獲得してきただけあって、相当稼いでいると見た。平凡な少年である自分との差をまざまざと見せつけられたような気がして、彼の口から乾いた笑いが出る。

 それから二人は広場にやってきた。手前には劇場が建てられている。とても、大きな建物だ。正方形で、メインは象牙色。差し色として、朱色も混じっている。一見すると神殿かなにかのようにも見える。周りにも、カラフルな店が並んでいる。土産物屋だろうか。内容は分からないものの、とにかく豪華であるということは分かる。花壇が数多く設置されていることもあって、花の香りが鼻孔をかすめる。女性ならば歓喜したことだろうが、生憎(あいにく)と真白は男だ。それほど、テンションが上がっていない。

 とにもかくにも、昼間で暇をつぶせばいいのだろう。幸い、図書館ならば見つかりそうだ。すぐさまそちらへ向かおうかと思った矢先、近くでなにやら騒がしい声がした。甲高い、子どもの声だ。

 真っ先に、劇場へ行こうとしていた彩葉が駆けつける。その後を追うような形で、真白も動き出す。

 民家や店の間の入り組んだ道の奥で、一人の子どもが同じ年の相手をいじめていた。片方は髪を逆立てた、気取った容姿をした小学生だ。いじめられているほうは優等生らしいメガネ姿で、真白とは別のベクトルで冴えない少年だった。


「テメェが悪いんだよ。なにもかも、俺の前で見せつけるようにやりやがって」


 抵抗せずにいるメガネの優等生を、いじめっ子が蹴る。

 さすがに命を奪えはしないだろうが、いささかやりすぎなように思える。いじめというよりはただの暴力で、不満やストレスを弱そうな相手にぶつけているだけのようだ。

 理不尽に殴る蹴るの暴行を受ける被害者には、心の底から同情する。詳細や動機は知らないが、少なくともいじめっ子の人格に問題があることは確かだ。

 そう、冷静に観察をしていると、となりにいた少女が足を一歩踏み出す。


「こらこら、ダメでしょう」


 彼女のやわらかな声を聞いて、途端に、メガネの少年をいたぶっていた子どもが動きを止める。彼は親に悪いことをしたのがバレたときのような顔をして、急に縮こまる。


「ほら、立てる?」


 彩葉は棒のように突っ立っている子どもを素通りして、倒れている子どもに駆け寄る。幸い、怪我はなさそうだ。血も流れてはいないし、少し痛みが残る程度だろう。

 そうした中、いじめっ子は周りに聞こえるように、大きく舌打ちをする。


「なんなんだよ、そいつばかり。だから気に食わねぇんだよ。そいつが選ばれし者の定めってやつか。ああ、くだらねぇ。いっそ、なにもかも消え失せちまえばいいんだ」


 身勝手な恨み言を吐きながら、子どもは大きく足を立てて、歩く。そうして彼は真白には見向きもせずに、路地を抜けて、町並の中へ姿を消した。

 ほどなくして二人もいじめられっ子を連れて、日の当たる場所まで戻ってくる。

 ほどなくして二人もいじめられっ子を連れて、日の当たる場所まで戻ってくる。

 そこでいじめられっ子とは、手を振って別れた。

 彼女も準備があるそうなので、いったん別行動を取る。


「それじゃあね。昼に会いましょう。ああそれと、これ重要だから、忘れないでね」


 一枚の紙切れを手渡しされて、なんの抵抗もできずに受け取る。

 彼女はやりたいことを済ますと、明るい笑顔で手を振る。

 彼女の表情を見ていると、心が和む。

 自然と、肩の力が抜けた。

 しかしながら、彩葉がいなくなったことで、急に寂しくなる。心を涼やかな風が吹き抜けていく。

 暇つぶしのためになにをするべきか、悩む。店を見て回る。やはり、一人ではなにもできない。お小遣いを受け取ったこともよかったものの、一人で使い切るのは申し訳なく思えてしまう。さて、なにをすべきだろうか。

 悩んだすえに、真白は彩葉へのプレゼントを購入した。

 そのころにはすでに昼になっていた。彼は急いで菓子パンを購入して、食事を済ませてから、劇場へ足を運ぶ。チケットはすでに彩葉から受け取っていた。





 劇場のホールには人が多い。常に田舎で暮らしていた少年にとっては刺激的だ。春にも関わらず、夏のような熱気が全体からただよっている。その雰囲気に呑まれそうになりながら、真紅の客席で最も端に位置する場所を取ると、おとなしく座り込む。

 ほどなくして、電気は落ちる。あたりが真っ暗になって、一瞬だけ心がどよめく。幽霊屋敷にきたような心持ちになる中、舞台の幕が上がる。スポットライトに照らされたステージの中央には、城のセットと厳かな格好をした少年が立っていた。


 ※※※


 夜、城の中に、白銀の鎧を着た少年が呼び出される。足元には魔法陣が光り、それよりも凄まじい、太陽のような光とともに、彼は現れた。少年はきらびやかな容姿をしている。彼のプラチナブロンドは闇夜で燦然さんぜんと輝き、二対の金色の瞳は本物の貴金属のようだ。眼差しは理知的で、全体に気品をただよわせている。純白の鎧のデザインは西洋風だ。傍はたから見ても神々しくて、今にも光を放ちそうだった。

 少年はなにが起きたか分からない様子で、キョロキョロと周囲を見渡していた。彼の目からすると、目の前に広がっている光景は異常だ。視界に入るのは西洋の石の壁と、帯刀をした戦士たち。日本出身である少年からすると何百年以上も前にタイムスリップしたのではないかと思うほどだ。しかし、足元にある魔法陣がそれを否定している。侍の時代に魔法は存在しない――はずだ。ゆえに、ここは過去ではない。ならば、いったいどこなのだ。

 困惑する少年へ向かって、即座に一人の偉そうな格好をした男が口を開く。


「魔王の出現により、世界は危機に瀕しています」


 冷静に、淡々とした口調で説明をする。

 通常であればなんのことだか分からない言葉だが、不思議とキラキラと光り輝く少年は、彼の言いたいことを理解できた。


「どうか、我々を救ってはいただけないでしょうか。勇者さま」


 へりくだった口調とは裏腹に、有無を言わさぬ響きがある。それは、懇願というより、命令だった。意地でも魔王討伐の旅へ行かせる気だ。拒否権など、突然呼び出されただけの少年には存在していない。

 一方で、彼は自分の役割が『魔王を倒して、世界に平和を取り戻すこと』だと理解していた。なぜなら、この光景を知っていたからだ。ライトノベルを好む少年にとっては、冒頭で何度も繰り返されたお決まりのパターンに過ぎない。たいていの場合は召喚された勇者は凄まじい能力を手に入れて、最強になる。ゆえに、希望にあふれた展開を想像できた少年は、迷わず宣言する。


「はい、必ず、世界を救います」


 かくして、召喚された勇者は旅に出る。

 もっとも、付き人は登場しない。一人で生きるしかなく、誰にも頼れない日々が続く。向かってくる敵は倒せても、精神が休まる時はこない。戦いこそが日常と化して、元の世界にいたころの自分と乖離(かいり)していく。時にはモンスターと呼ばれる獣の命を奪っていく。そんな自分は残酷で、到底許せない。そうした、精神をすり減らすような日々の中、勇者はついに、運命の相手と出会う。

 彼女は、白い薔薇(ばら)のような少女だった。聖職者のような雰囲気を放ち、周囲に光をまとっているようにも見える。小柄な体は華奢だ。腕は細く、頼りない。腰をつかめばあっさりと折れてしまいそうで、不安になる。幼さの残る、人形のような顔をしていて、初々しさを感じた。深く澄んだ瞳は水晶のようだ。エレガントなロングスカートは大変似合っていて、ぱっと見た印象だと、両家の令嬢のようだった。

 少女は優しかった。誰に対しても友好的に接し、誰からも好かれている。戦いの中で、彼女だけが味方だと断言できる。不安になれば相談に乗ってくれるし、彼女にならなんでも打ち明けられた。少年が少女に惹かれるのに、時間はかからず、気がつくと胸に熱い気持ちがこみ上げてくるようになった。

 彼女のためにも、世界を救わなければならない。少年はそう、心の中で決意を固めた。

 少女と一緒に過ごすようになって間もなく、謎の少年が現れた。なんの説明もなく、唐突に。姿を見せるや否(いな)や、彼は勇者に剣を向けた。

 勇者も応戦する。

 出会って一秒もたたずに、二人の少年は戦いを繰り広げた。

 相手にとって、勇者はどうしても倒さねければならない相手のようだ。目は刃のように鋭く、殺気がみなぎっている。勇者も相手の剣を受け取りながら、冷静に状況を分析する。傷は負わず、余裕を持って、戦況を有利に進める。しかれども、相手の考えだけはどうしても読めなかった。


「どうして俺を狙うんだ?」


 相手は答えない。

 口は頑なに閉じたままだ。

 話す気はないらしい。

 無言のまま、剣を振るう。

 そのとき、刀身が漆黒(しっこく)に染まっていることに気づく。相手は、闇に取り憑かれてでもしているのだろうか。思えば、先ほどから相手は禍々しいオーラを放っている。よく分からないものの、止めなければまずいということは事実だ。

 すぐに倒しにかかる。剣を杖のように振ると光が溢れ出す。その光が黒いオーラを放つ少年をまるごと呑み込む。

 戦いに破れた少年は地面の上にぐったりと転がる。ボロボロになって、起き上がれない。それでも、真っ黒な瞳から闘士は消えていない。目だけで人を殺せそうなほど、眼光が鋭かった。


「魔王の差し金か?」


 彼に近づいて、どうしても尋ねたかった問いを口に出す。

 すると、相手も口を開く。

 数秒の間を開けて、答えが彼の口から飛び出す。


「自分の意思だ。俺はお前を殺さなければならない。なぜなら、お前のそばにいる少女の正体が魔王だからだ。だから、手を出される前に」


 恨みのこもった眼差しに、ひるむ。

 衝撃の真実を聞いて、硬直する。

 反応すら表に出せずにいる勇者に対して、やがて少年はゆっくりと目を閉じた。

 敵を倒してから、勇者は青々とした草原をトボトボと歩いていた。

 脳内はいまだに整理されていない。自分が最も大切に思っていた少女が魔王だと、信じられずにいる。あの白い少女が、敵であるはずがなかった。

 されども、いくら否定しようが、現実が変わるわけではない。

 ずっと前から、心の中で、彼女に対する気持ちは変わらずにいる。

 殺したくはない。

 少女とは仲がよかった。よくしてもらったし、力になってももらった。自分が異世界で生きていられるのは、彼女のおかげだ。

 頭をかきむしる。

 どうにかして、殺さずに済む方法はないだろうか。


 今晩は宿に泊まる。

 勇者がなにもせずにぼんやりとしていると、不意に脳内に直接何者かが語りかけてきた。


『ウジウジしているようだな。躊躇(ちゅうちょ)しているのか。だが、それは許さない』


 声の正体が何者なのかを理解して、顔を上げる。


『魔王は殺さねばならぬ。これは、設定されたルールの中で行うゲームだ。魔王は必ず、勇者によって倒される。そのシナリオを崩されては困るのだ。運命は最初から決定づけられている。それに逆らうことなど。たとえ勇者であろうと許されない』


 声は淡々と、無機質に告げる。

 途端に、ふざけるなと当たり散らしたくなる。

 彼はその気持ちをすっと呑み込む。

 結局、声の主――勇者を送り出した神には敵わない。

 彼も、シナリオの一部であり、物語に組み込まれた登場人物ではないことは、理解している。

 握りしめた拳を震わせながら、理不尽さを噛みしめる。

 ほどなくして、神の気配は消えた。

 同時に、勇者であるのなら、役割を遂行しなければならないという思いも溢れ出す。たった今、少年は大切な人を殺す決意をした。

 顔を上げる。

 ちょうどそのとき、一羽の鳥が部屋に侵入する。くちばしになにかをくわえている。受け取ると、手紙のようだった。差出人は魔王本人で、内容は宣戦布告。決闘の申し込みのようなものだ。ていねいに、時刻と場所まで書かれている。

 上等だと心の中でつぶやいた。

 そして勇者は約束通り、指定された場所へ向かう。

 装備は整えた。淡々と、感情を表に出さずに、足を動かす。

 そして、目的の場所にたどり着く。そこにはすでに、白い着物を身に着けた少女が待ち構えていた。

 時刻はすでに夜となった。日は沈み、暗い空間に、少女と勇者の髪と装備だけが浮き上がっているかのように、目立つ。

 かくして、戦いの幕が上がる。定められた宿命にとらわれし二人は、戦う。剣と剣がぶつかり合って、火花を散らす。

 戦いは続く。激闘だった。勇者は負傷し、血を流しながらも、瞳から光を失わない。同じく、魔王も剣をふるい続ける。三日三晩にも渡る激闘のすえ、決着がつく。勝者は勇者だった。

 純白の刃が胸を貫く。

 挿し込んだものを抜くと、孔あなから赤い液体が漏れて、白い着物に蘇芳色がにじむ。全身から生命力が抜けていくような感覚があった。

 影は体勢を崩す。

 背中の上で、長い銀髪がはねる。

 血の気の引いた頬ほおは青白い。

 黒曜石のような瞳からも光が消えている。

 虚ろな顔をした少女は、糸の切れた操り人形のように倒れ込む。

 その体は、目の前にいる何者かによって受け止められた。

 夜空に浮かぶ月の光が、乾いた荒野にいる二人を照らす。


「私の、負けか」


 少女の口から、か細い声が漏れる。

 彼女は顔を上げて、ぎこちなく笑って見せた。

 彼は微動だにしない。精悍な顔には感情が表に出てこず、まるで石のようだ。


「すまない。俺は、君の敵にしかなれない」


 少年は急に眉間にシワを寄せて、恥じるような口調で謝罪する。


「俺は勇者だ。それにしか、なれなかった。こんな俺では、君を救えない」


「いいえ」と彼女は首を横に振った。


 撫子色の唇がわずかに開く。


「私は全力をもって戦いました。結果は敗北だったが、受け入れましょう。なんせ相手は清廉潔白な勇者。私は魔王として散り、この世で最も崇高なる人物によって止めを刺された――それはなんて、幸福な結末なのでしょう」


 次第に声から力が抜けていく。

 少女は穏やかな表情を崩さないまま、ゆっくりと目を閉じる。

 勇者は彼女に触れた。白い肌から体温が消えて、今は本物の雪のように冷たい。

 体は硬直し、二度と動くことはないだろう。

 少年の胸の中で、少女は満ち足りた表情で眠りについた。



 戦いを終えて、勇者は日常に戻る。現実世界への帰還は許可されず、異世界で穏やかな日々を過ごす。偉業を成し遂げ、報奨金を受け取ったにも関わらず、満たされない。胸にぽっかりと穴があいたかのようだ。

 今も、たった一人の少女を想う。

 彼女がなによりも大切だった。彼女のために世界を救おうと思った。だが、実際は違う。彼女を犠牲に、世界を救った。それがどうしようもなくむなしくて、たまらない。

 夜空を見上げて、無念を噛みしめる。

 そして少年はたった今、一人になったのだと受け入れた。




 かくして、同居生活が始まった。とはいえ、それほど甘いものでもない。あくまで同居だ。真白は居候をするかわりに家事全般をこなす。料理はできないため、それ以外――特に掃除を重点的に行った。自分のほかにフローラの服を洗濯機の中に入れて、漂白剤や洗剤を投入してから、蓋を閉じる。スイッチを入れたら、後は勝手にやってくれる。実に簡単だ。途中、彼女の下着を見たような気がするけれど、忘れることにした。続いては、廊下や部屋の掃除を行う。近所迷惑にならない程度に掃除機を稼働させれば、あっという間だ。ゴミもきちんとゴミ箱に捨てて、清掃が完了する。

 一方で、外に出るときは彼女の送り迎えをする羽目になる。そうしなければ狙われる可能性があるのは分かるが、時折行き交う人々の視線が気になる。なにやら、嫉妬されているような気がする。気にしすぎだろうか。


「今日は舞台に出るの。見ていって」


 彼女が笑みを浮かべて、誘ってくる。


「無料よ。無料。いいでしょう?」

「ああ、はい」


 少しばかり遠慮したいが、自分は頼まれたら断れない性格をしているらしい。彼女からチケットを受け取ると、一緒に家を出て、会場へと向かう。自身は客席に腰掛けて、幕が開くのを待つ。客席の明かりが消えて、いったん真っ暗になったとき、幕が開く。スポットライトに照らされて、主演女優が姿を現す。真っ黒なドレスを身を包んだのは、フローラだった。顔立ちは同じなのに、別人に見える。メイクのせいだろうか。困惑する真白を置いて、ストーリーが動き出す。

 物語はファンタジーの設定を含むものだった。勇者と魔王は恋に落ちるが、互いが敵同士であるため、殺し合わなければならない。悲恋と評すべき話だ。魔王役であるフローラはステージの上で圧倒的な存在感を放つ。魔王らしい恐ろしさと女性らしい恋心を見事に演じきっている。

 舞台が終わって、会場からは割れんばかりの拍手が響く。

 周囲の評判も上々だった。


「ねえ、見た?」

「うん、すごかった」

「さすがの演技力よね」

「しかも、あの容姿。完璧よ。この国に、彼女以上の役者は存在しないわ」


 同性からも支持を受けている。


「あー、恋人になりてー。結婚してー」

「おいおい、なに考えてんだ」

「高嶺の花だろ、ありゃ」

「でも、よく聞くじゃねぇか。よく男と一緒にいるところを目撃されるって。でも、本物かどうかわからないんだろ? フローラちゃん、変装技術だけは無駄に高いし」

「だからこそだよ。フローラちゃんが他人に成りすましているときに、目撃されるってパターン」


 ゲ……。

 自分のことも相手の耳に入っているようで、明らかに嫌悪感を向けられている。

 誰かに見られているような感覚があったため、即座に退散する。

 会場の外に出てほどなくしてから、彼女は戻ってきた。


「待った?」

「ううん」


 首を横に振る。


「さあ、帰りましょう」


 手を取って、引っ張られる。

 おっと、と口の中でなにかをつぶやきながら、彼女につられて歩き出そうとする。

 そこへ、いやみったらしい声が聞こえてきた。


「なるほど、やはり噂は本物だったようだな」


 現れたのは灰色の瞳をした青年だった。


「調子に乗るなよ、フローラ・ホワイト。お前は完璧なわけじゃねぇんだ。全て、自分の思い通りに行くと思ったら大間違いだ」

「なんですか、あなたは。なにが言いたいんですか?」


 眉をつり上げて、真剣な眼差しを相手に向ける。


「大したことじゃない。だが、自重しておけ。俺はお前を認めたわけじゃねぇ。演技力容姿ともに、上には上がいるということを忘れるな。お前はなにがどうあっても、ナンバーワンとは認めねぇ。もっと評価されるべき人材だって、いるのさ」


 一通り勝手に語った後、彼は去っていく。


「いったい、なんだったんですか?」

「さあ。いつも私に酷評のレビューを送ってくる、おかしな人よ」

「アンチですか?」

「きっと、そうよ。でも、ああいう人ほど私のことを気にかけてくれるのよ」


 本当にそうだろうか。ああいう手合いは自分の感想を押しつけて、自分以外の評価は全て間違っていると切り捨てるタイプだ。関わってもろくなことにはならない。もっと、普通のファンを大切にすべきではないだろうか。


「大丈夫。きちんと、周りのことも見ているわ。私には、私を応援してくれている人がいるということを、忘れてはいないもの」


 ならば、いいのだが。

 曖昧で複雑な気持ちを懐きつつ、真白は歩きだす。


 家に返ってきた。

 ベランダに出て、濃紺の夜空に浮かぶ星を眺める。


「よくそんな飲み物飲めるわね。味、しないでしょう?」


 そばにフローラがやってきた。彼女が飲んでいるのはハーブティだ。真白が飲んでいるのはミネラルウォーターである。確かに、無味無臭でなんの面白みのない飲み物だ。でも、彼自身は水分補給をしているだけであり、味なんて全く気にしていない。体に害さえなければ、なんでも構わないというのが真白である。


「僕は、いいんですよ」


 適当にごまかしながら、ペットボトルに口をつけて、水をのどに流し込む。


「でも、本当にこのままでいいのかと不安になって」

「なぁに? 相談なら、乗るわよ」

「いいえ。別に、大した問題じゃないんです」


 誤魔化すように首を横に振る。


「ただ、僕って地味じゃないですか。君と釣り合わないというか」

「そんなことを気にして、どうするの? 芸能人だって一般人と結婚することもありえるわよ」

「いや……その」


 彼としては、フローラと一緒にいられるだけで十分だ。それ以上は求めてはいない。ましてや結婚だなんて、考えられるはずがなかった。


「僕は、僕が何者なのか、いまいちハッキリしていないんです。自分がなにを考えているのかすら曖昧で、だから……」

「怖いの?」


 否定できない。

 かわりになにか、別の言葉で表現をする。


「僕には色がない。きっと誰の目にも留まらない、必要とされないような人間なんです」


 手に持ったペットボトルを動かす。中に入っている透明な液体が揺れる。


「無個性とでもいうんでしょうか。とくかく、僕には自分がない。よりよい未来を得るためになにをするべきか分かっていないんです。だから」

「それで、このままじゃいけないって思うの?」

「でも、僕にはなんにもないから」


 ポツリとこぼす。


「あなたこそ、僕と一緒にいると、引き立たないばかりか、その輝きを曇らせてしまいます」

「大丈夫よ。私のほうこそ、あなたの無色透明さに負けないくらい光り輝いてみせるから。それに、あなただってきっときらめける」

「うーん、会話が噛み合ってない気がするんだけど」


 別に真白は少女のことを心配しているわけではない。ただ、自分が彼女と一緒にいることで、迷惑をかけているのではないかと考えてしまうのだ。第一、彼女が光れば光るほど、自分も目立たなくなってしまう可能性が高い。例えるのなら、昼間に浮かぶ白い月のように。


「ふーん。でも、別にいいんじゃない?」


 彼女の声がして、顔を上げる。


「無色透明ということは今からでも、チャンスがあることよ。要するに、何色にそまれるということ。あなたは、頑張って自分だけの色を探していけばいいのよ」


 焦る必要はないと。まだまだこれからなのだと、彼女は言う。

 その言葉を聞くと、なんだか胸に希望が溢れてきた。

 でも、やっぱり自信はないけれど、それでも前に進もうという気力は湧いてくる。

 そうだ。まだ、自分の物語は始まったばかりだ。そうそうに弱気になってどうする。少年はもう一度、前を向いた。

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