【第285話】宿す思い

 夜も更けた頃。


 料理のせいか、ふと喉の渇きを覚えたシリューが一階に降りると、夜中にもかかわらずリビングの明かりがドアの隙間から漏れていた。


 そっとドアを開き中を覗くと、ソファーにはミリアムが一人、手に持った何かを物憂げな顔で見つめている。


「ミリアム?」


 シリューが戸口に立っても気付かないミリアムを、脅かさないように注意しながら優しく声を掛ける。


「あ、シリューさん」


 シリューの声に振り向いたミリアムは少し慌てた様子で、手の中を隠すように膝に置いた。


「どうした? 眠れないのか?」


 夜の苦手なミリアムが、こんな夜更けまで起きているのは珍しい。


「はい、ちょっと……。シリューさんも?」


「ああ。何か喉が渇いて、水でも飲もうかなって」


「あ、じゃあ、私が……」


 立ち上がろうとするミリアムの肩に、ぽんっと手を置き座らせてから、シリューは向かいのソファーに腰を下ろす。


「邪魔……じゃないか?」


「大丈夫、です。ぜんぜん……」


 ミリアムはシリューを見つめ、何か言おうと口を開きかけて止めた。


 その時一瞬浮かんだ彼女の表情が、晩餐会での寂しげな微笑と重なって見えた。


 握った手を膝に置いて、じっとそれを見つめるミリアム。


「それ、もしかして、見ちゃ不味かった?」


 遠慮がちにシリューが尋ねると、ミリアムは首を横に振って手の平を開いた。


 そこには、少し色褪せた金色の鎖。


「ネックレス? 大事な物みたいだけど……」


 ミリアムはこくんっと頷く。


「安物ですけど、思い出が、あって……」


 そう呟くように言ったミリアムの瞳には、部屋の明かりを映してゆらゆらと揺れる涙が滲む。


 シリューは何も言わずに、ミリアムから話し始めるのを待った。


「両親の形見なんです。もう、顔も覚えてないけど……これ、ホントはペンダントで、綺麗なお花のトップが付いてたんです」


 ミリアムの握った鎖には、今は何も付いていない。


「小さい頃、これを着けてたら、両親と一緒にいられるような気がして、いつもずっと首に下げたまま遊んでいたんです……」


「ああ、解るよ、その気持ち」


 シリューはエルレインに置いてきた、ローズクォーツのネックレスを思い浮かべた。


 シリューが初めて美亜に贈ったプレゼント。


 美亜が亡くなった時、一緒に贈ったストラップはこっそりと棺に入れ、ネックレスは形見として、ずっとポケットに入れ持ち歩いていた。


 時々、それを取り出しては、美亜との思い出に浸る。


 あのネックレスは、今も取っておいてくれているだろうか。


 それとも、捨てられてしまったのだろうか。


「大事にしてたのに……とっても、大事な物だったのに……それだけが、私と両親を繋いでくれる、物だったのに……」


 ミリアムは大粒の涙を零し嗚咽した。


「いつの間にか、無くしちゃてて……孤児院に帰って気が付いて、皆にも手伝ってもらって、探したんですけど、見つからなくて……どうしても、見つから、なくって……」


 きっとミリアムはその時、必死になって探したのだろう。


 両親の顔を覚えていなくても、幼かったミリアムにとってそのペンダントはおそらく、たった一つの心の拠り所だったに違いない。


 だから彼女は、ペンダントが苦手だと言ったのだ。


 震えるミリアムの隣に座り、シリューはそっとその肩を抱き寄せた。


「もう、平気になってたのに……ハーティアと、お父様やお兄様を見てたら、思い出しちゃって……情けないですよね、もう、大人なのに……」


 ミリアムは誰よりも強い心を持っている反面、非常に脆くて傷付きやすい娘だ。


「情けなくたっていいさ。大人だって泣いてもいい」


 シリューはミリアムを強く抱きしめた。


 せめてミリアムが、心安らげるように。


 シリューの心に芽生え始めた想いを、いつか共有できるように。


 部屋を照らす明かりだけが、二人の姿を見守るように揺らいでいた。



◇◇◇◇◇



「一応聞くけれど……何もなかったわけではないわよね?」


 昼前にクランハウスへと戻って来たハーティアが、シリューとミリアムの間を漂う雰囲気に何の変化もないことから、複雑な表情を浮かべてそう尋ねた。


 ソファーに向かい合って座る二人は、ほんの一瞬顔を見合わせただけで、すぐに目を逸らしてしまう。


「あ、あははは。えっと……ちょっと哀しくて、ここで泣いちゃった私を、落ち着くまで抱きしめてくれたくらい……です」


 素直で正直なミリアムは、嘘や誤魔化しが苦手だった。


「それ、話さなくてもいいだろ……」


 シリューにしてもわざわざ余計な一言で、ミリアムの話を肯定してしまっていることに気付いていない。


 二人が昨夜、ここで抱き合ったのは事実。


 もちろんそれは悪くない。むしろ良いことと言えるだろう。


 ただ、そこからの進展が無いとすれば、それは大きな問題だ。


 シリューとミリアムの問題は、今やハーティア自身の問題でもあるのだから。


「そう……結局、羽目は外さなかったのかしら……? でも当然、鞍は外したのでしょう?」


「鞍? なんで、鞍?」


 ハーティアが何を言いたいのかよく解らず、シリューは首を捻る。


 昨日は聞き流していたが、「羽目を外す」という言葉がこの世界にもあること自体はさほど不思議でもない。


 羽目とは馬銜(はみ)のことで、馬銜を外した馬は自由に動き回るということが語源とされている。


 馬がいて乗用に使われている世界だから、共通する言葉もできたのだろう。


 鞍を外した状態の馬のことを何といったか……。


 そこでようやくシリューは、ハーティアの言葉の意味に気付き、


「い、いやっ、お前なに言ってんの!? 外してないし、の、乗ってないからなっ」


 全力で否定した。


「ミリアム、ちょっと此方へ」


 すっくと立ちあがったハーティアはミリアムの腕を取り、リビングを出てそのままキッチンへと引っ張って行く。


「どうしたんですか、ハーティア?」


 ミリアムには、ハーティアが何処か焦っているように見えた。


「ねえミリアム。まさか本当に何もなかったの?」


「はい。話した以上のことは何も」


 それを聞いたハーティアは、がっくりと肩を落とす。


「問題……よね」


「え?」


「私はともかく、貴方みたいに魅力的な女の子と二人っきり……それなのに、まったく手を出さないなんて、問題ではないかしら」


 ハーティアの直球な問いかけに、ミリアムは思わず頬を赤らめ顔を伏せる。


「あ、あの、私に魅力があるかどうかは置いといて……シリューさんは、今までも、そうですよ……」


 その答えは、どこか不安げだった。


「あのくらいの年頃の男だったら、お互いに好意があれば、普通に求めてくるものでしょう? 貴方は付き合いも長いのだし、もうとっくにそういう関係になっていてもおかしくはないでしょう? ヘタレすぎないかしら? それとも、貴方が拒否している、とか?」


 ハーティアは一気に捲し立てた。


「わ、私は……拒否なんて、して、ません……」


 湯気が立ち昇りそうなほど顔を真っ赤に染めて、ミリアムは消え入りそうな声で呟く。


「そう、よね。だとすれば、シリューの方に、何か一線を越えられない理由があるのかしら」


 シリューはこの世界の人間ではない。


 魔法も魔物も存在しないという、ハーティアたちには想像することもできない世界の住人だ。


 生活環境や文化はもちろん、恋愛や結婚観も大きく違うのかもしれない。


「私たち……好意を持たれていないわけじゃ、ないわよね……」


 ついにはハーティアまで、不安そうな表情になる。


「それは……。ただ、やっぱり、どうしても前に進めないんだと、思います……」


「アスラ・シュレーシュタ……もう一人の明日見僚。彼の心臓を倒しても、終わりではない、とシリューは考えている……」


 ミリアムは頷き続ける。


「それに、シリューさんは、自分自身が魔神になってしまうことを、ずっと恐れています」


 想定されていなかった五人目の召喚者。


 龍脈からの復活と、人知を超えた力。


 シリューが口にした不安。


「確かに……僅かな感情の揺れが、絶望的な結果をもたらす。まるで綱渡りのように……」


 1500年前の、もう一人の自分と同じ道を辿ることへの恐れ。


「それに、もう一つ。ミアさんのことも」


 シリューが召喚される半年前に亡くなった、シリューの最愛の人。


 魔神の心臓との闘いにおいて、ミリアムとハーティアの記憶に浮かんだ夢の中の少女。


「シリューさんの心には、今でもきっとミアさんが生きていて、気持ちを切り替えるには、もう少し時間が必要なんだと思います」


「そう、ね。私は少し焦っていたのかしら。待てるだけの時間は、シリューがくれたというのに」


 ハーティアは自分の胸にそっと手を添えた。


 痛みも辛さも無い。


 手には伝わってこなくても、心臓は鼓動を続けている。


「私は救われた。今度は私が、救ってあげないとね」


「私たち、ですよ」


 お互いにくすりと笑う二人の顔からは、もう不安の色は見られなかった。


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