【第259話】キスして……
入院3日目。
ハーティアは自分で躰を起こすことができなくなった。
クラウディウスは毎日同じ時間にやってきて、1時間ほどハーティアと2人で話し戻っていった。
病室から出てくる彼はいつも悲しそうな顔をしていたが、ハーティアはというとどこか吹っ切れた、朗らかな笑みを浮かべてクラウディウスを見送っていた。
拗れていた親娘関係も、ずいぶん修復されたようだ。
「良かったな、親父さんと仲直りできて」
「ええ。もうあと何回話せるか分からないけれどね」
ハーティアは天井を見つめて笑った。
その笑顔は消えてしまいそうに儚く、どこまでも優しく、自分の終わりをすべて受け入れているように見えた。
逃れようのない、死を。
「そんな言い方するなよ」
シリューにしては、少々乱暴な言い方だった。
びくっと肩を震わせたハーティアは、シリューが語気を荒げた意味を悟り目を細めた。
「そうね……ごめんなさい」
お前は俺が助ける。
本当はそう言いたかった。
だが医療知識のないシリューに、怪我は治せても病気は治せない。
ハーティアが入院してからずっと、寝る間を惜しんで考えているが、未だに解決の方法を見いだせていない。
力があっても、肝心な時に役に立たない。
シリューは日に日にやつれてゆくハーティアの姿に、自分の無能さを痛いほど感じて歯噛みしていた。
時間がない。
その焦りも、シリューの思考を妨げているのかもしれなかった。
「ねえシリュー?」
「ん?」
「お願い、もう少しこっちに寄って、よく顔を見せて」
ハーティアが弱々しくしく右手を上げる。
シリューは無言でベッドの脇に肘を置き、ハーティアの傍に寄った。
「シリュー、いつものように笑って」
ハーティアの手のひらが、シリューの頬に触れる。
「いつもの……」
難しい注文だ。いつも意識して笑っている訳ではない。
「俺って、どんな笑い方してるのかな?」
「知らなかったの? 貴方は、まるで春のそよ風を受けたみたいに目を細めて、涼し気に笑っているのよ」
初めて知った。そんな印象を与えていたことに、正直驚きもした。
「そんな、カッコいい笑い方だったのか……ホントに?」
「死を覚悟して泣きそうな時に、颯爽と現れて救ってくれて、その笑顔を見せられたら……誰だって……」
その後は、むにゅむにゅと言葉を濁したせいでシリューには聞き取れなかった。
「シリュー、貴方に謝らなければいけないことが、一つあるの」
いっぱいあるような気がするけどな。一瞬そう思ったが、場の雰囲気を考えて口にはしなかった。
「前に、マナッサへの道程で貴方に助けてもらったでしょう。それには感謝しているのだけれど……本当は少し憎んでもいたの」
うん、と頷いてシリューは続きを促した。
嫌われているとは思っていたが、憎まれていたのは想定外だ。
「分かっていたのだけれど、レグノスでこの病気の権威と言われている先生に、なすすべがないと言われて、私はも何もかも諦めて、死を受け入れていたの」
若いハーティアにとって、それは並み大抵の苦しさではなかった。
涙が枯れるほど泣いて、泣いて、夜通し泣き続けて、涙と一緒に心を捨てた。
するとどうだろう。いつの間にか、何かを成したいという望みが消えていた。
何かが欲しいという物欲もどこかに行った。
自分の役目は終わったのだと、心が軽くなった。
死ぬまで、今の生活が続きさえすれば、他は何もいらない。
「でもね、貴方に助けられた時、そんな覚悟が全部吹き飛んで、また生きたいと思うようになった。それは私にとって、とても辛いことだった……」
シリューは一度死んでいる。
だがそれは予告も宣告もなく突然の出来事だったため、死について考える暇もなかった。
そんなシリューに、ハーティアの心を推し量ることはできない。
助けたことで相手を苦しめることになるとは、思いもしなかった。
「そう、か……」
だが、もう一度あの場面に戻ったとしても、シリューはハーティアを助けただろう。
「逆恨みなのは分かっていたの。でも、死の恐怖から逃れるために、私は貴方を憎んだ。そして、勇者のような力をもった貴方の心に、私という存在を縫い留めて、貴方の目の前で死ぬことで、貴方自身の無力さを味合わせてやろうと思った……貴方の心に爪痕を残してやろうと、思ったの」
「……そう、だったのか……」
それならもう十分にハーティアの策略は成功している。
シリューは何もできない自分の無力さに打ち拉がれていた。
「でもね、そんな思いも、貴方を知る度に、貴方と触れる度に、別の違う思いに塗り替わっていった……」
「お前の気持ちに、気付いてやれなくて……ごめん」
ハーティアはぷるぷると首を振る。
「貴方は謝らないで。悪いのは私の方。ごめんね、シリュー」
「お前だって謝らなくていい」
シリューは頬に添えられたハーティアの手を強くにぎりしめた。
「ありがとう、これでもう思い残すことはない……ああでも、一つだけお願いがあるかな……」
「何? 俺にできることなら、何でも言って」
ハーティアはシリューの目をみつめ、少し頬を染めていたずらっぽい笑みを浮かべる。
「あのね……シリュー……キス、して……」
「えっ?」
思わぬハーティアの申し出に、シリューは胸の中で心臓が大きく跳ねるのを感じた。
「キス、して……」
一瞬シリューの脳裏にミリアムの顔が浮かんだ。
ミリアムだけではない。
美亜やパティ、それにクリス。
それでも、死に逝く者の望みを無下に断ることはシリューにはできなかった。
ただ、感情はそれだけではない。
目を閉じて、身じろぎもせずその時を待つハーティアを、心から愛しいと思ったのは紛れもない事実だ。
「ハーティア……」
浮気性なのかもしれない。そんな思いを振り切って、シリューはハーティアに顔を寄せる。
そして。
そっと唇を重ねた。
「んっ……」
一度離れた二人はお互いの瞳を見つめ合う。
「シリュー……」
そして再び目を閉じたハーティアは、すがるように両腕をシリューの首にまわす。
ハーティアの想いとシリューの想いを重ねるように、二人は淡く長いキスをした。
それから2日後の朝。
ハーティアの手足は動かなくなり、話すことも難しいほど意識が混濁し始めた。
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