【第255話】紫陽花

 本当の名前を何といったのか。


 今はもう思い出せない。


 それはオルタンシアがそう名乗る遥か以前、まだ彼女が幼い頃。


 連合に加入していない都市国家レキトスの、人里離れた小さなダークエルフの村に、彼女たち一家は暮らしていた。


 多少の不便さはあったものの、村に住むダークエルフたちの暮らしは穏やかなものだった。


 その状況が一変したのは、クーデターで時の政権が倒され、新たな権力者達が国を支配したことによる。


 新王国を名乗る彼らは、三大王国や連合各国が進める種族融和政策を破棄し、ダークエルフの排除に乗り出した。


 理由は単純で、全てのダークエルフは抹殺すべき魔族だという、一方的な決めつけだった。


 村に住むダークエルフたちは魔族とはまったく関係はなかったが、だからといって新王国が彼らを見逃すこともなかった。


 そして、悲劇はある日突然やってきた。


「さあ、かくれんぼをしよう。パパが出ていいと言うまで、決してここから出てはいけないよ。声を出してもいけない。わかるかな?」


「うん」


 父親は幼い娘を食器棚の中に隠した。


 どういうことか分からなかたっが、聞き分けの良い娘は父親の言葉に素直に従った。


 暗い戸棚の中で聞こえてきたのは、父親と誰かの言い争う声。


 父の名前を叫ぶ母親の声。


 争うような物音に耳を裂くような母親の悲鳴。


 がたがたとテーブルの揺れる音が止み、すすり泣く母の声も突然消えた。


 何が起きたのか娘には想像もできなかったが、父がいつもの優しい声で「もう出ていいよ」と言ってくれるのをじっと待った。


 ちゃんと言う事を聞いていい子にしていれば、父は「よくできたね」と頭を撫でてくれる。


 それなのに今日はいつまで待っても、父も母も声を掛けてはくれない。


「パパ、ママ……いなくなっちゃたの?」


 不安になった娘は、父との約束を破り戸棚から出て二人の姿を探した。


「パパ……ママ?」


 父も母もいなくなった訳ではなかった。


 父は入り口の傍の床でうつ伏せになっているし、なぜか服を着ていない母はテーブルの上で仰向けになっていた。


「パパ、おきて。ママ、おきて」


 だが、どんなに声をかけても体を揺すっても、二人が起きる様子はない。


 二人とも何かを零したのだろうか、赤い水に濡れていた。


 そのうちに暗くなり、いつもなら母が夕食の準備をする時間になった。


「ママ、おなかしゅいた……ママ……」


 真っ暗になった部屋で、いくら呼んでも返事のない二人。


「パパぁ、ママぁ」


 娘は寂しさと不安で泣いた。


 いつまで泣いても、父が頭を撫でてくれることはなかった。


 やがて泣きつかれた娘は、父の傍で眠りについた。


 それから何回の夜がきたのか、お腹が空いて動くこともできなくなり、娘は父と母と三人で食卓を囲み笑う夢とともに意識を失った。


「こっちだ、この子はまだ息があるぞっ!」


 旅の商人が娘と、両親であろう二人の遺体を見つけたのはそんな時だった。


 子供ができなかったその商人夫婦は、娘を引き取りヴィオラと名付けた。


 夫婦はヴィオラを本当の娘のように愛情を注ぎ、教育も礼儀作法も与えられるすべてを与えた。


 幼いうちは、本当の親のことを思い出し泣き出すことも多かったが、成長につれそれも徐々に減っていき、18歳になる頃には主席で学校を卒業し、養父の商売を補佐できる才覚を発揮するようになる。


「私が、この商会をもっともっと大きくするの。父さんと母さんにはこれからうんと楽をしてもらわなきゃ」


 それが、その頃のヴィオラの口癖だった。


 ヴィオラの記憶にはっきりと残る、幸せな時間。


 だが、その幸せも唐突に終わりを告げる。


 穏やかな休日の朝、その男たちはやってきた。


「何の用だ。私はもうお前たちとは関係ない! 帰ってくれ」


 三人の黒づくめの男たちは、養父と養母を取り囲み問い詰める。


「魔族は裏切りを許さない。だがエルナンデルよ、俺たちは友人だ。今戻るなら、今回のことは水に流そう」


「前にも言ったはずだ、私はもう魔族に加担する気はない!」


 養父の怒声に、男は目を閉じて俯く。


「そうか……残念だ、エルナンデル」


 男が剣を抜き、養父と養母を刺したのはほんの一瞬の出来事だった。


 ヴィオラはその光景を、ずっと続くはずだった幸せが崩れてゆくのを身じろぎもできずに見つめていた。


 二度目の喪失。


 その時、何かがヴィオラのなかで壊れてしまったのだろう。


 男たちが何を話したのかも覚えてはいない。


「せめてもの情けだ。女、我々の下にくれば、命は助けてやろう」


 ただ一つの感情に支配されたヴィオラは、彼らに従い魔族となった。



“滅ぼしてやろう……人も、魔族も……私も”



 そうして彼女はオルタンシアとなった。




「滅びたのは、私一人、か……まあ、それも悪くないわ……」



《 ほう、肉体は死んでも精神はまだ生きているか。しぶといダークエルフだな 》



「誰……?」



《 我はアスラ・シュレーシュタ 》



「ああ、居眠りの魔神様、ですか……」



《 魔族にしては不遜な態度だな 》



「私は別に、あなたを崇めも奉りもしていないの。ただ世界を滅ぼすために利用したかっただけ」



《 世界を滅ぼしたいか……滅ぼした後はどうする? 》



「さあ、知らないわ。みんなが苦しんで滅んでくれれば、それでいいの」



《 面白い答えだ。ならば我も貴様を利用するとしよう 》



「え?」


 崩れて降り積もる瓦礫の中、オルタンシアの死体は黒い光に包まれて消えた。


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