【第239話】長い一日
それからシリューは、ミリアムを抱きかかえて学院へと飛んだ。
幸い、ほとんどの生徒や教員たちはまだ戻っておらず、裏庭に降りたシリューたちを見ているものはいない。
「大丈夫か?」
顔色を窺おうとシリューが顔を近づけた時、ミリアムは慌てて顔を背け、その目から逃れるように身を捩った。
「へ、平気ですっ、もう慣れましたっ」
「ん? ああ、そっか。うん、ならいいけど……?」
空を飛ぶことについて聞いた訳ではなかったが、ミリアムはそう勘違いしたらしい。
どちらにしても、シリューとしては彼女が元気ならそれで構わなかった。見たところ、まだ少しふらつく事はあっても、痛がったり苦しんだりする様子はなく、本当に体力を消耗しているだけのようだ。
ただ、なぜミリアムが顔を背けたのかは分からなかったが。
「あの……学院長のところに行きますか?」
「いや、バルドゥール先生の研究室に行く。学院長も、今はまだ忙しいはずだし」
空から確認したところ、街道に現れた災害級魔獣との戦闘も終わったようで、支援に加わった生徒たちも撤収して学院へと戻ってくる。
学院長であるタンストールのところには、これから各方面からの報告が殺到することだろう。
事態が落ち着くまでは、わざわざ彼の手を煩わせる必要はない。
「ホントは?」
「変態エルフは、無視でいいと思う」
シリューは心底嫌そうに顔をしかめた。
「相変わらず、苦手なんですね~。でも無視はダメなので、ハーティアに会いに行った後で報告に行きましょうね」
「お前は相変わらず平気なんだな」
「はい」
慈愛溢れる笑顔でミリアムは答える。もうすっかりいつものペースだ。
「でも、ドクは苦手なんだろ?」
「はいっ」
ミリアムの笑顔が更に明るくなった。
初対面で、しかもシリューの目の前でナンパしてきたことに、未だ不快感を持っているようだ。
しかも、共に厳しい戦闘を潜り抜けた今でも、その評価は少しも揺るいでいないらしい。
「……なんか、めっちゃかわいそうだな、ドク……」
シリューの呟きは、ミリアムには聞こえなかった。
「ん?」
「なんでもない。ほら、行くぞ」
首を傾げているミリアムの肩をぽんと叩き、シリューは魔調研の研究棟へと入ってゆく。
実戦部隊に編入される学院と違い、こちらは廊下を行き交う研究員たちをちらほらと見かける。
ミリアムが遅れないようにゆっくりと階段を上がり、3階の一番奥にあるバルドゥール・ビショフ研究室のベルを鳴らした。
決められた通りにベルを鳴らせば、ドアのロックが解除される仕組みになっていて、その鳴らし方は所属する者にしか教えられていない。
中からの返事はなかったが、それはいつものことなので、シリューは気にせず分厚い金属のドアを開ける。
「おお、キッド。それにジェーン」
正面の机で何やら書類に目を通していたバルドゥールが、真っ先に顔を上げて立ち上がった。
「君たちは別編成だったそうじゃないか。どうやら、無事に終わったようだね」
そこには、休暇でいないはずのローレンスの姿もあった。
シリューがそのことを尋ねると、ローレンスは残念そうに笑って、「緊急事態だからね、デートは中断してきたよ」と肩をすくめた。
「わたしもぉ、お昼寝してたところを、起こされちゃいましたぁ」
もう一人の研究員であるヴィオラも、招集を受けてついさっき到着したのだという。
今回のシリューたちの作戦については、タンストールからバルドゥールへ伝えられていたので、ローレンスとヴィオラの二人も、当然バルドゥールから説明を受け知っていた。
ただ、シリューがローレンスに疑いを持っていることについては、タンストールにもバルドゥールにも話してはいない。
「ところで……ハーティアが見当たらないようだが……」
自分の教え子がいないことに気付き、バルドゥールは憂わしげな表情を浮かべて尋ねた。
「ハーティアは、治療院にいます」
「治療院!? まさか、負傷したのかね」
たった一言、シリューの答えがあまりにも簡潔過ぎたため、バルドゥールの表情が強張り一気に蒼ざめる。
ローレンスとヴィオラの二人も、同じような表情を浮かべてシリューに刮目した。
「キッド、話す時はちゃんと説明しないと。皆さん勘違いしてるじゃないですか」
シリューの言葉が足りないのは今に始まったことではないが、せめて誤解を招く言い方だけはしないでほしい。そんな思いを抱きながら、ミリアムは眉をハの字にしてシリューをねめつけた。
「あ、ああ、そうだな……」
もちろん、シリューにも自覚があるにはある。できるだけ直そうと思っていても、染みついてしまった癖はそう簡単に治るものでもない。
ただ、戦闘が終わった後ハーティアのことを尋ねたシリューに、ミリアムもまったく同じ言葉を返してきたのだが、そのことは既に彼女の記憶から抹消されているらしい。
「何です?」
「いや……何でもない……」
蒸し返しても面倒なので、シリューはあえて何も言わずにそっと目を逸らした。
「では、怪我を負ったわけじゃ、ないのかね?」
二人の様子に少しだけ表情を緩めたバルドゥールが、確認するように尋ねる。
「ジェーン」
シリューが促すように目を向けると、ミリアムはこくんっと頷いた。
「はい、怪我はしていません。ただ、戦闘中に病気の発作が出て意識を失いましたので、治療院へ運んでいただきました」
聞く者に不安を与えない、穏やかでありながら程よい緊張感を纏う凜とした声と態度。
「魔力を短時間に使いすぎたみたいですね。楽観視はできませんが、重篤な容態ではないと思いますよ」
最後にミリアムはにっこりと笑った。
ついつい見惚れてしまうほどの慈愛に満ちた微笑みは、
〝まあ、基本ポンコツだけど……〝
「じぃ……」
ふと目を向けると、ミリアムは頬を膨らませて横目に睨んでいる。
「えっと……?」
「なにニヤついてるんですか?」
「え、あ、いやこれは……」
不味い。口にはしなかったものの、顔に出てしまったようだ。
「どうせ、ポンコツのくせに、とか思ったんでしょう」
そして、ポンコツだがミリアムは意外に鋭い。
「大丈夫。それってお前の個性だし、俺は嫌いじゃない」
「みゅっ」
ミリアムの頬はみるみるうちに真っ赤に染まり、ぷるぷると躰を震わせる様子は、まるで産まれたての子鹿のようだ。
「やば、かわいい」
今度は声に出してしまった。
「そ、そーゆートコですよっっ」
ミリアムは、もはや湯気の上がりそうな顔でするが必死に抗議するが、シリューは「いや、何が?」と、自覚のかけらもない。
「あ、ああでは、命の危険があるわけではない、ということかな?」
「はわっ、は、はい。すみませんっ」
バルドゥールが、二人の微妙は雰囲気を和らげるように割って入り、寸劇に発展しそうなところをなんとか収めた。
「若いってぇ、素敵ですねぇ」
「うんうん」
ヴィオラもローレンスも、やたらと生暖かい笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、本題に入ろうか。持ってきたんだろう?」
「あ、はい。これです」
バルドゥールに促されたシリューは、ガイアストレージから二つの人造魔石を取り出す。
「ほう……教室で見つかった物と違って、こっちは真っ黒だ」
「ハーティアがレグノスから持ち帰った物と、同じ状態のようですね」
バルドゥールとローレンスが、魔石を覗き込んで呟く。
「こんな物がぁ、ホントに怪物を造るんですねぇ~」
二人から少し離れた位置で、ヴィオラはふんふんと頷く。
「では早速調べますか?」
「まあそんなに慌てることもないだろう。暫くすれば、最後の一つも持ち込まれるだろうし、それに……」
バルドゥールはそこで言葉を切り、ローレンスとヴィオラを眺めてにっこり笑った。
「今日は長い夜になるからね」
要するに、今夜は夜を徹しての作業になる、ということだ。
「楽しい夜になりそうです」
「私ぃ、途中で寝ちゃうかもぉ」
ローレンスは嬉しそうに笑い、ヴィオラは困ったように眉根を寄せた。
「じゃあ、俺たちは治療院に行きます」
シリューは魔石を保管庫に収め、ミリアムと共に研究室を後にした。
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