【第235話】怨憎会苦
オルタンシアはゆっくりと後退り、クリスティーナとの間合いを開けた。
「なるほど、師匠のお孫さんでしたか。そう言えば、何度か赤い髪の女の子を見かけた気がしますねぇ」
「そういうお前は誰だ? その趣味の悪い仮面を取ったらどうだ」
仮面を取り素顔を見たところで、クリスティーナに見覚えがあるかは怪しい。
剣聖ジャーヴィスは王都に近いリスバーンの街で道場を開いていたが、クリスティーナがそこで修業した期間はそれほど長くはない。ほとんどは当時王都にあった父の屋敷で、週に二日ほど通ってくるジャーヴィスから指導を受けていた。(ジャーヴィスの目的の半分は、孫の顔を見るためだったようだが)
そういった事情から、弟子全員の顔と名前を憶えている訳ではない。どちらかというと、知らない者の方が多いくらいだ。
「残念ですが、それは遠慮しておきますよ。それに、これ以上ここに留まるつもりもありませんしね」
オルタンシアは懐から20cm四方の羊皮紙を取り出し魔力を注いだ。
「まさかっ!?」
目を刺すような光を発した次の瞬間、空中に人の背丈ほどの魔方陣が現れる。
「では、私はこれで」
丁寧にお辞儀をした後、オルタンシアは魔方陣と共に消えた。
「転移魔方陣というやつか……まあいい」
逃げたオルタンシアを追う術はない。
クリスティーナはすぐに踵を返し、魔獣と戦うミリアムたちに駆け寄った。
「すまない、逃げられた」
「構いません、気にしないでください。それよりも、一つお願いしてもいいですか?」
横たわるハーティアを庇いながら、ミリアムはクリスティーナに顔を向ける。
「シリュー殿のお仲間の頼みなら、何でも聞こう」
「私はミリアム。そこに倒れているハーティアを、神殿の治療院へ連れて行ってもらえませんか」
クリスティーナは一瞬躊躇したが、事情の分からない自分がここに残るよりも、意識のない少女を治療院へ運ぶ方が好手だと判断した。
「分かった、私はクリスティーナ。彼女は任せてくれ」
クリスティーナは剣を収め、ハーティアを抱き上げると神殿に向かって走り出す。
おそらく、いや、そう待たずにここにはシリューが来る。
ピンクの髪の少女、ミリアムの瞳はそう信じていた。
「さすがは、天然のシリュー殿だな」
クリスティーナは少々複雑な思いを抱きながらも、口元の笑みを抑えられなかった。
◇◇◇◇◇
「モマノヴェーニ・エフェメール!」
ノワールの操る鋼糸は、まるで大量の蜉蝣が舞うように陽の光を反射し、不規則な瞬きが空中を埋め尽くす。
「イムブルス・ヴァルナー!」
シリューを中心に広がる衝撃波が、無数の蜉蝣から光を奪いはじき返す。
その直後、剣を振りかざし踏み込もうとしたシリューの膝を、一本の鋼糸が貫いた。
「くっっ」
空中を覆う鋼糸に気を取られ過ぎていた。ノワールは9本の糸でシリューの気を引きつけ、残る1本を巧みに隠し攻撃したのだ。
「くそっ、ヒール!」
即座に治癒魔法を掛けるが、その隙をノワールが見逃すはずがない。
「終わりだ、エフィアルティス・アドウェルサ!」
音速を超える10本の鋼糸が、レーザービームのように鋭い直線を描き、いまだ傷の塞がらないシリューに迫る。
「ユニヴェール・リフレクション!!」
反射的にシリューは理力の盾を展開する。
「無駄だ!」
が、ノワールが叫んだ直後、シリューの3m程前に展開していた理力の盾が、鋼糸の直撃を受けてあっさりと崩壊した。
「やばっ」
無理な体勢だったが、シリューは無事な右脚だけで跳躍する。
だが、理力の盾を突破した鋼糸は、止まる事なくシリューを追う。
【思考加速】
通常の50倍の速さでの思考。
シリューを含めて、すべての景色がスローモーションになる。
事も無げにユニヴェール・リフレクションを破壊したあの技は、切る事よりも貫通に特化したものだろう。
もう一度理力の盾を展開したところで、止められる気がしない。
このまま避けても、決着はつかず時間を浪費するだけだ。
さっさとケリをつけて魔獣を倒し、ミリアムたちの応援に行きたい。
これ以上ノワールとの戦闘が長引けば、ミリアムたちだけでなくディックたちも魔力がもたないだろう。
「どうにかして、あの糸を抑えないと……ん? 抑える……」
空中をゆっくりと舞いながら、シリューは迫って来る10本の鋼糸を見つめた。
「……そうかっ」
思考加速を解除。
ほぼ同時に地面へと左手をつき着地。
「キャスケードウォール!」
一気に噴き上がる五重の水流が、鋼糸の軌道を上に逸らして飲み込む。
もちろん、それだけで止められないのは承知の上だ。
「アブソリュート・ゼロ!!」
一瞬で凍り付いた水の壁が、完全に鋼糸を捕らえる。
さらに、超低温となった鋼糸は延性を失い、破断してゆく。
「くっ」
ノワールは糸を仕込んだグローブを脱ぎ捨てる。
今度はシリューがその隙をつく。
「片腕ぐらいは覚悟しなよ!!」
水の壁を迂回し、全速でノワールとの距離を駆ける。
「貴様こそな!」
ノワールは両手のリストバンドから、近接戦用のペンデュラムを引き抜く。
すれ違いざま、シリューの剣とノワールのペンデュラムが、お互いの左腕を切り裂き血しぶきが舞う。
シリューは左の剣を捨て、足を止めて振り向くと同時に、右の剣をノワールの首筋でぴたりと止めた。
「終わりだ……」
だが。
「貴様もな」
どんな動きをしたのか分からなかったが、ノワールの凍った視線の先、つまりシリューの首には、ノワールの右手から延びたペンデュラムが巻き付いていた。
「……俺のスピードとパワーなら、あんたがこれを引く前に、あんたの首を落とせるけどね……」
「ほう……試してみるか……」
だがどちらも動かない。いや動けない。
すぐそばでは、ディックとエマが使う魔法の発動音と、魔獣の繰り出す攻撃の破壊音が激しく鳴り響いているが、命を賭けあう二人の耳には聞こえていない。
指先の僅かな動きどころか、筋肉の収縮する音さえ聞き取ろうと、全神経を集中させて睨みあう。
「……」
「……」
永久に続くかに見えたその静寂を破り、先に動いたのは意外にもノワールだった。
ノワールは、シリューの首に巻き付けたペンデュラムを切り離した。
「え……?」
予期しなかった行動に戸惑いつつも、シリューはノワールの首元から剣を離し鞘に納める。
静かに踵を返しシリューに背を向けたノワールが、ふと立ち止まり僅かに振り向いた。
「なぜ……今俺の首をはねなかった?」
先に武器を放棄したのはノワールだ。つまり、やろうと思えばシリューにはノワールを殺す事ができたわけだ。
「どうせ分かってるんだろ?」
ノワールは黙ったまま答えない。
「あんたこそ、なんでやらなかった? 俺の言ったことは、ハッタリかもしれないだろ?」
シリューは僅かに眉根を寄せて尋ねた。
暫くの沈黙の後、ノワールが口を開く。
「……俺は、一か八かの賭けはしない。依頼を完遂する事が最優先だ」
「つまり……これであんたの仕事は終わりってことか?」
要するに、シリューたちを殺すのが目的ではない、と。
ノワールは街の南西、もう一体の魔獣が現れた方向に顔を向けた。
「俺は、十分だと判断した。オルタンシアのやつは分からんがな」
そう言って歩き出したノワールを、シリューは呼び止める。
「待てよ、忘れ物」
それから、首に巻きついたペンデュラムをほどき、ノワールの背中へ向けて投げる。
「……律儀なやつだ……」
無事な方の右手で受け取ったノワールは、感情のこもらない声で呟いた後、両手を黒いコートのポケットに突っ込み、街の中へと静かに消えていった。
「後で取り返しに来られても困るから、な……」
できれば、二度と会いたくはない。
シリューは本気でそう思った。
同時に、そんな相手に限って嫌な所、嫌な場面で出くわしてしまうものだということも、嫌というほど分かっていた。
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