【第227話】朝の静寂

 昨日からの雨も夜明け前にあがり、クランハウスを出る頃には薄い雲の合間から日の光が覗き始める。


 授業が始まるまでに、シリューはディックたちを集めて、これからの対策について話をした。


 オルタンシアの正体については、決定的な証拠を掴むために全員で監視を強化する事。


 何か仕掛けてくる可能性を考えて、常に警戒を怠らない事。


 そして単独でローレンスに近づかない事。


「特に……エマ、ハーティア、それに……ジェーン」


 シリューは一人一人をしっかりと見つめた。


「あら、あなたがそんな発言をするなんて少し意外ねキッド。ジェーンもノエミも守られるだけの女性ではないわ。もちろん、わたしもね」


 エマの物腰はいつもと変わらず柔らかだったが、その語気にはささやかな憤りが込められていた。


 彼女も王国魔道士団の中から選ばれた若きエリートだ。たとえシリューにはおよばなくとも、相応の実力も自信もある。守られる側ではなく、間違いなく守る側としてのプライドがそうさせただろう。


「い、いや、気を悪くしたのなら、ごめん。もちろん、それは分かってるんだけど……」


 頭に浮かんでくるのは、レグノス城の地下に囚われ自由と尊厳を奪われた女性たち。


 そして何よりもシリューの目に焼き付いて消える事のない、エラールの森でオルタンシアに傷付けられた、絶望の表情で泣きじゃくるミリアムの姿。


「何か、あったの?」


 エマが尋ねた。


「ああ、えっと……」


 どう話したらいいのか、そもそも話すべきなのか。判断できずに迷うシリューに代わってミリアムが口を開いた。


「レグノスの事件の時、私、一人でオルタンシアと対決しちゃって、それで……」


「ジェーンっ、それはっ」


 あの出来事を本人の口から語らせるのは残酷だ。そう思って止めようとしたシリューを、ミリアムはそっと手で制して「大丈夫です」と頷く。


「……それで、私、戦鎚術には自信あったんですけど、ぜんぜん歯が立たなくて。身体中切り刻まれて、服もボロボロにされて……キッドが来てくれなかったら私、手も足も、切断されるところで……」


 あの時の感覚が未だにトラウマとなっているのだろう、そこで言葉を詰まらせたミリアムは僅かに震える身体を抑えるように、胸に当てた手を強く握りしめる。


 俯いてしまったミリアムの肩をそっと抱き寄せ、シリューが優しく頭を撫でると、ミリアムは上目遣いにシリューを見つめ「ありがとう」と囁いた。


「オルタンシアは……嗜虐的な性質っていうのか、特に女性に対しては、異常なくらい執拗で、その……いたぶるのを、楽しむようなヤツなんだ……」


「……私の事もですけど、レグノス城に捕らえられていた女性たちは、みんな裸にされて、まったく身動きができないように固定されて、無理やり魔力を搾り取られていたんです。それだけじゃなくて……口から入れた管で、強制的に栄養を摂取させられたうえに、排せつまで調整されて……まるで、実験動物のような扱いでした。助け出した時には、みんな精神が壊れていました」


「そ、そんな……」


 エマはその状況を頭に思い浮かべ、嫌悪感に表情を歪める。


「悪趣味……ね……」


 概要だけしか聞いていなかったハーティアも、初めて耳にするその惨状に蒼ざめた顔をした。


「だから、キッドはちょっと心配しただけなんです。ねっ」


 手首を切断された事、リジェネレーションでその手を再生してもらった事は話さず、ミリアムは肩を抱くシリューを見上げて、菜の花のような笑みを零した。


「ごめんなさい、キッド。私……貴方の気持ちも知らずに、意地を張り過ぎたわ」


 ミリアムの実力がどれほどのものか、模擬戦で嫌と言うほど見せつけられたエマにはよく分かっている。そのミリアムが手も足も出なかったのだ、シリューが心配するのも当然の事なのかもしれない。


 エマは背筋を正し、両手を体の前で合わせてゆっくりと頭を下げた。


「いや、気を付けてくれればいいんだ、エマ」


 そもそも謝るような事ではない。


「今思い出したのだけれど……」


「ん?」


 シリューが目を向けると、ハーティアは悪戯にしては妙に艶っぽい笑みを浮かべ、優雅に舞わせた手を自分の胸にふわりと置いた。


「私の事は、貴方が守ってくれるから心配はいらないのよね、気障なキッドさん?」


 エマもディックたちも意味が分からずに不思議そうな顔をするなか、ミリアムだけは片方の眉を吊り上げ、ジトっとした半開きの目でシリューをねめつける。


「じぃ……」


「や、ミリアム。ソレはほらっ、アレだからっ」


「ソレとかアレとか、わかんない……ばか」


 そう言って、ぷいっと顔を背けたものの、今日のミリアムは黒いオーラを纏ってはいない。


 ミリアムの反応が今までと少し違う事にシリューは何となく違和感を覚えたのだが、それがどういう事なのかまでは思いが至らなかった。


「それで、いつまでそうやってくっついているつもりなのかしら?」


 人目も憚らず、まるで恋人同士のように抱き合うシリューとミリアムを見かねて、ハーティアがあきれ顔で肩を竦める。


「えっ」


「みゅっ!?」


 シリューとミリアムは一瞬見つめ合った後、お互いに顔を真っ赤にして大慌てで離れ、二歩三歩と必要以上に距離を取る。


「なんだよ? くっついてたかと思ったら、間合いを取って身構えて。今度は二人して対決するのか、猫みたいにさ」


 ドクが、にやけながら手の平を見せ肩を竦めた。


 ハーティアの声音に僅かな感情の昂りがあったことには、その場の誰も気付いていなかった。



◇◇◇◇◇



 昼休み。


 八割がたは理解できない、退屈な授業をなんとか耐え抜いたシリューは、午前の終業と同時に教室を出てゆくハーティアを追って、人気のない非常階段の下へ向かった。


「いつもこの時間に飲んでるんだな」


「キッド……」


 茶色の小瓶から取り出した丸薬を飲み込むと、ハーティアは振り向き、鋭い目つきでシリューを睨んだ。


「他人をつけてくるなんて、いい趣味とはいえないわ」


「そうか? 友達を心配するのは当然だと思うけど?」


「なっ……」


 ハーティアは思わず顔を伏せる。


 涼し気に微笑むシリューの顔が眩しく映ったのは、日の光が重なったからというだけではない。


「ばっ、ばかなの……シリュー」


「ああ、ね。まさか、お前がいまだに俺の事を他人だと思ってたとは、考えもしなかったわ」


 肩を竦めるシリューのその言葉が、ハーティアの胸をきゅんと締め付ける。


 熱く火照った頬を悟られないよう俯いたままのハーティアは、それでもシリューに背を向ける事ができなかった。


「そ、そんな事言っていないでしょうっ、ホントに、ばか……ごめんなさい、そうじゃ、ないわね……ありがとう、シリュー」


 ゆっくりと顔を上げ、上目遣いにシリューを見つめる琥珀色の瞳は、瑞々しく潤い星を散りばめたように輝いている。


「い、いやっ、まぁほらっ……お礼を言われるほどの事じゃ、ないからっ……」


 思いもよらず素直なハーティアの態度に、シリューは思わず目を逸らしてしまった。


「……なあ……それで、平気なのか? その……病気は……」


「あら、本当に心配してくれるのね。ありがとう、大丈夫よ。誰にも、迷惑はかけないわ。貴方にも……」


 ハーティアは目を細め、どことなく寂しげな笑顔でゆっくりと首を振った。


「え……?」


 今にも消えてしまいそうなくらいに儚く見えるその姿が、不意に蘇った記憶と重なる。




〝私、誰にも迷惑かけたくない……僚ちゃんにも……〟




 それは冬の出来事。


 病気の進行が分かり、余命を告げられた美亜は、泣きはらした目でそう呟いた。


「もうすぐ、私、起き上がる事もできなくなるの。もう、僚ちゃんと並んで歩くのも無理みたい。だからね僚ちゃん、僚ちゃんは……っ」


 その後の言葉は続かなかった。


 美亜は溢れ出す感情を抑えきれないように泣きじゃくった。


「迷惑なんかじゃない。俺は、ずっと傍にいる。美亜が元気になるまで、元気になってからもずっと、ずっと!」


 僚は強く美亜を抱きしめた。


 美亜がはぐれてしまわないように。美亜がその腕から零れ落ちてしまわないように。美亜が一人でいってしまわないように。


「うん、うんっ。ありがとうね……僚ちゃんっ」


 残された月日はあまりにも短く、現実はあまりにも残酷だった。


 そして二人は、最後の春を迎えた。




「ハーティア……お前、まさか……」


「さ、お喋りはお終い。ディックたちもジェーンも待っているわ、行きましょう」


 ハーティアはシリューの言葉を遮り、たたたっと駆けだした。


「……もしかして、不治の病ってことは……」


 薬の成分は【解析】で調べたが、用途が『魔力の流れを整える』としか分からなかった。


「あとで、ミリアムに聞いてみるか……」


 シリューはハーティアの後に続いて学生食堂へと向かった。

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