【第221話】ミリアムと、ハーティアと……】

 それは不思議な光景だった。


 気が付くと、眩しい陽光の降り注ぐまっすぐな道の端にミリアムは立っていた。


 聞こえてくるのは、柔らかな風が街路樹を優しく揺らす音。


 それはどこにでもある日常の風景に似ているが、ミリアムの目に映るのは見た事もないものばかりだった。


 石畳とは違う黒っぽくて硬い平らな地面。


 木でも石でもレンガでもない壁でできた、複雑な形の家々。


 道を走っている、黒い車輪の付いたぴかぴかで色とりどりの乗り物。


 ただ、初めて目にするその景色たちを、なぜかミリアムは懐かしいと感じていた。


「何してんのミ……、また迷子になるよ」


 ふと顔を向けると、一人の男の子が涼し気に微笑んでこちらを見ていた。


「じゃあ、手、つなごっか。ね、……ちゃん♪」


 ミリアムは弾んだ声でその男の子に手を差し出すが、呼んだはずの相手の名前がよく分からない。それに、自分の話し方も変わっている。


「し、しょうがないな。ほらっ」


 頬を染めて手を伸ばす男の子に近づいてみると、それは誰でもないシリューだった。


「うふっ、……ちゃん、かわいい」


「うるっさい、つながないの、手」


 ツンと拗ねたように背けたシリューの顔は、ミリアムが知るよりも少し幼く見える。


 ミリアムはその手をとり、シリューの隣に並ぶ。自分でも大胆だと思うがぴったりと躰をくっつけて、胸が当たるのも気にせずにシリューの腕をしっかりと抱く。


 視線の高さが近いのは、シリューの背が今よりも低いせいだろうか。


「あ、あんまりくっつくなよ、歩きにくい」


 非難するようなその声も、どこか穏やかで耳に心地よい。


「ずいぶん歩いたね。……ちゃん、迷ってない?」


「ミ……じゃないんだから、大丈夫だって」


 話し方にしても、ミリアムが知るどんな時よりも優しい。


「ねえ、……ちゃん……」


 ミリアムはふと、シリューを見つめた。


 理由があった訳ではない。ただ、なぜかそうしたかった。


「なに?」


 見つめ返してくれるシリューの瞳は、引き込まれそうなほど深く黒く、そして少しの悲しみも寂しさも滲んではいなかった。


「えっと……なんでもないっ」


 頬が熱くなるのが分る。


 こんな風に見つめてくれるシリューを、ミリアムは知らない。


 よく見ると、風に揺れる自分の髪色がシリューと同じく黒い。


〝そっか……シリューさんは……〟


 ミリアムは唐突に理解する。


 シリューが見ているのは、シリューの瞳に映っているのは、けっして自分ではない。


 だが不思議と、哀しい気持ちにはならなかった。


 初夏の日差しが、二人の陰を色濃く道に落とす。


 二人の想いを、永遠に刻み込むかのように。


◇◇◇◇◇


「あ……んっ……」


 夢の途中でミリアムは目を覚ます。


「やだ、いつの間に眠ちゃったの……」


 あんな夢を見られたのは、こうしてソファーに座ったまま、シリューの膝に頭を預けるようにしな垂れ眠っていたからだろうか。


「不思議な夢……だったなぁ……」


 薄く目を開けて見上げると、シリューもまたソファーのひじ掛けに身を預けて寝ているようだ。


「うふっ……もうちょっと、いいですよね。シリューさん……」


 夢と同じシリューの温もりを感じながら、ミリアムがもう一度微睡まどろみに身を任せるために目を閉じようとした時。


「おはよう。よく眠れた?」


 夢から現に引き戻す声が聞こえた。


「ふぇっ!?」


 ミリアムは慌てて躰を起こす。


「はぁあぁん」


 だが勢いをつけすぎたせいで軽いめまいに襲われ、くらくらと景色が揺れて変な声まで漏れる。


「は、ハーティアっ?」


「ただいま」


 その声にシリューも目を覚ます。


「ん、あれ? 寝てたのか俺……」


「二人とも、ね。よほど疲れていたのかしら?」


 向かいのソファーで、ハーティアは慈愛の微笑みを浮かべている。


「い、いつ帰ったんですかっ? 起こしてくれれば良かったのにっ」


「ついさっきよ。起こそうかと思ったのだけれど、あまりに幸せそうにしているから、気が咎めたの」


「「し、幸せっ!?」」


 シリューとミリアムが全く同じ反応をした事に、ハーティアのいたずら心がくすぐられる。


「でも、安心したわ。二人とも、服を着るだけの冷静さを保ってくれて。もし、裸で寝ていたらどうしようかと思ったのよ」


「えっ!?」


「みゅっ」


 目を丸くする二人をよそに、ハーティアは首を傾げて人差し指をぴんっと立てた。


「ねえ、あえて聞くのだけれど。どちらかの部屋のベッドではなくて、もしかして……」


 その指を、今度は二人の座ったソファーに向ける。


「ここで?」


「ご主人様、ミリちゃん。大胆なの……です」


 ハーティアの肩で手を組む、ヒスイの頬が心なしか赤い。


「人が訪ねて来たら、すごい事になっていたわね……」


「いいいいいやまってっっ!? なんかととっ、とんでもない誤解があるんだけど!!」


「そそそそそそですよっ! 私たち、べべべべつに、そんなっっ!!」


 予想を超えた二人の慌てぶりは、ハーティアの好奇心をかき立てた。


「え? 脱いでいないの?」


「ないっっ!」


「脱いでません!!」


 ハーティアは軽く結んだ両手の拳を口元に当てて、はにかむように頬を染める。


「……マニアック、なのね……」


 ハーティアの視線がおろおろと宙を泳ぐ。完全な勘違いをしている証拠だ。


「な、ないからっ! 何にも!!」


「してないですからっっ! 何にも!!」


「え……? じゃあ、ホントに、ここで眠っていただけ、なの……?」


 かくんかくんと、何度も何度も必要以上に頷く二人の様子は、まるで壊れた首振り人形のようだ。


「……ヘタレ……」


 ハーティアは憐れむような目で二人を交互に見つめた。


「そ、そんな事よりっ。私っ、夕飯の、支度しますっ」


「ああ、まって。私も手伝うわ」


 矢庭に立ち上がりキッチンへと駆けてゆくミリアムに続き、ハーティアも腰を上げる。「じゃ俺も」と立とうとするシリューを制して、ハーティアはふっと口元を緩めた。


「ねえ、シリュー?」


「ん?」


 座ったシリューを見下ろすハーティアの瞳に、やけに大人びた妖艶な光が輝く。


「貴方は、意気地なしなの?」


「え? えっと……」


「それもいいのかしら。……ちょっと、安心したわ」


「え……?」


 シリューがその意味を尋ねる前に、ハーティアはふわりとスカートを翻して部屋を出て行った。


◇◇◇◇◇


「これは縦に刻めば良かったかしら?」


「あ、はい」


 てきぱきと料理をこなすミリアムの隣に立ち、こちらも慣れた手つきで包丁を扱うハーティアは、赤い野菜を手早く刻んでゆく。


 貴族のお嬢様であるハーティアが、意外にも料理上手だった事に最初はミリアムも驚いたが、そもそも冒険者であるハーティアは野宿の経験も豊富で、ときには自分だけでなく仲間のために料理をする事もあり、ミリアムとはまた違ったワイルドなメニューが得意だったりする。


 そして、ちゃんと美味しい。


「ミリアム……」


 ハーティアはふと手を止めた。


「……さっきは、揶揄ったりして、ごめんなさい」


 そして、ぼんやりとその手を見つめたまま、静かな声で謝罪の言葉を口にするのだった。


「あ、いえっ、気にしないでくださいっ。揶揄ってみたく、なりますよねっ、あんな時って。あは、あははは」


 ミリアムは困ったように眉をハの字にして、無理にでも笑ってみせる。


 あんな無防備な姿を見られたのは、ちょっと恥ずかしい。


「言いたくなければ、答えなくてもいいけれど……ねえ、本当に何も……なかったの?」


 踏み込んだ話でも、それができるくらいには親しくなっていたし、ただの好奇心からハーティアが尋ねたのではない事も、ミリアムには分かってしまった。


「キス……しました……」


 だから正直に答えた。それがフェアだと思ったのだ。


「そ、そう、なの」


 ハーティアの声は、動揺したのを隠せないくらいに上ずっていた。


「あ、でも、ホントにそれだけです。あとは、お話しをして、それから眠くなって……」


「でも、キスしたって事は……シリューも貴方の事が、好き……なのでしょう?」


 言葉を詰まらせながら尋ねるハーティアに、ミリアムはゆっくりと首を振る。


「嫌いじゃない、って……言ってくれました。でも、シリューさんの心には、別の人が、いるんです」


「パティーユ姫?」


 ミリアムはもう一度首を振った。


 パティーユはおそらく、自分と同じなのだ。


「シリューさんの世界に……その人はもう、亡くなってしまっていて……それで……」


 ミリアムの瞳は物憂げに揺れる。


「み、あ……?」


 頭に過ったその名前を、ハーティアは思わず声に出していた。


「ハーティアっ、なんでその名前を!?」


 シリューは一度だけ、ハーティアの前でその名前を口にした事があった。


「マナッサで、倒れていたシリューを見つけて寝かせた事があったでしょう? あの夜、目覚めた時に言ったの、みあ、って……」


 あの時ハーティアは、シリューがミリアムの名前を言い淀んだものだと思っていた。


「そう……シリューは、まだその人を……」


「はい。だから、シリューさんは、私の事……」


 どうでもいいとは思っていないだろう。大事に思ってくれているのもはっきりと分る。


 だが、それ以上ではない。


 それもミリアムには痛いほど分かっている。


「ミリアム……それでも、私は貴方が……」


「え……?」


「い、いいえ、何でもないのっ。さ、夕食の支度を続けましょう。シリューが飢え死にしてしまうわ」


 ハーティアは、零れそうになる心の声を必死に押し殺した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る