【第207話】違うの!
時間にして10分くらいだろうか。
シリューの掛けてくれた鎮痛の魔法のおかげで、直後から痛みはほとんど感じなかった。その魔法の効果もあってか、薬がきくのも随分と早かった。
シリューの腕の中で、しばらくこうしていたいと強請った時、本当はもう自分で立ち上がる事もできたはずなのに。
それなのに、なぜかハーティアは動けなかった。
躰に感じるシリューの体温は、まるで柔らかな毛布に包まれているように心地よく、ついつい気が緩んでしまう。
「うにゃぁ、いい匂い……」
無意識のうちに、シリューの制服の胸に頬を摺り寄せる。
「あ、あの、ハーティア……動くと耳が当たって、くすぐったい……」
「にゃん!?」
シリューの声で我に返ったハーティアは、変な声とともに慌てて顔を上げ躰を逸らす。
〝何してたの私っ!? なんでっなんでっ〟
気が動転していたせいで、シリューの膝の上に座っている事も忘れ勢いをつけすぎた。
「わっ、ちょっハーティアっ!?」
その反動でシリューはバランスを崩し、ハーティアを抱えたまま背中から倒れこむ。
それは単なる事故。
シリューは咄嗟に両手をついて受け身をとった。
ハーティアが伸ばした手はシリューの肩をすり抜けた。
「あ、んっ……」
結果、まるでハーティアから迫ったかのように……。
二人の唇が重なった。
「……ハー、ティア……?」
ゆっくりと顔を離した二人は、身じろぎもできずに見つめあう。
「……」
大きく見開かれたハーティアの瞳は潤み、顔は真っ赤に上気している。
「こっ、ここっ、これは、違うのっ」
「あ、ああ、分かってるっ。あの、もう平気だよな!?」
「え? ええっ、ごめんなさいっ、もう平気よ。あ、ありがとう、随分楽になったわっ」
ハーティアは明らかな動揺を隠しきれず、どくんどくんと跳ねる心臓を鎮めようと、胸に手を添えて立ち上がる。
ハプニングとはいえ、キスしてしまった事に罪悪感を覚えたシリューは、ハーティアにかける言葉もないまま身をおこす。
お互いに顔を背けたまま向き合う二人の間に、気まずい空気と重い沈黙が漂う。
「あ、あの……シリュー……」
「だ、大丈夫。今のは、ただの事故だ、わ、忘れるから……」
忘れる……。
シリューの言葉にハーティアの心は揺れ、なぜか脳裏に蘇ったのは先ほどの夢。
ベッドに横たわり、死の時を待つ夢。
顔は分からなかったが、夢の中で自分の手を握ってくれていたのは、たぶん目の前のシリューだったとなぜか分かってしまった。
あの夢が、未来を示すものなら。
〝私はきっと、シリューとの約束を果たせずに死ぬ……〟
シリューを魔神にはさせないと誓った。だが、それを果たす事も、見届ける事もできずに死んでゆくという事だろう。
何も残せないまま、たった一人で。
事実、宣告された余命は3か月を切った。
たった3ヶ月で、何ができる訳でもない。
ただ……。
「嫌、よ……忘れないで……」
ほとんど無意識のうちに、ハーティアはそう呟いていた。
それは、ハーティア自身も気付かないほどの、小さな心の変化だったのかもしれない。
「え?」
「いいえっ、何でもないの。ほら、急ぎましょう。ミリアムが食堂で待っているはずよ、あまり待てせては悪いわ」
できるだけなんでもない事のように見せたかったハーティアの笑顔は、それでもシリューを誤魔化すには十分ではなかった。
「遅いですね、あの二人……」
カフェテリアのいつもの席でシリューたちを待つミリアムは、二人が揃って遅れている事に、少しだけ不安を感じていた。
「授業が長引いたんじゃないかしら。心配は要らないと思うけど」
同じテーブルの向かいに座るエマは、隣のディックと顔を見合わせて頷く。
「
ディックの言う通り、何かが起こっていたとしても、シリューなら問題はない事はミリアムにも十分わかっている。
だが、ミリアムの心配しているのは、その
「何かって、なんでしょう?」
ミリアムの目が僅かに細められる。
「は? なんでそんな事を……」
「ディックっ」
ディックにはその意味が分からなかったが、敏感に察したエマがディックの袖をつんつんと引っ張る。
「なんだ?」
「ディックは黙ってっ」
エマはミリアムに聞こえないよう、囁くような声でディックを遮った。
「ああジェーン。噂をすれば、ほらっ。ちょうどきたわよ」
並んでカフェテリアに入って来たシリューとハーティアが目に入り、エマはそちらを指さす。
ミリアムたちに気付いたシリューは片手を振り、料理を取りわけた後でテーブルへ向かった。
「遅かったな、二人とも」
「すいません、授業が長引いたんです」
ディックとエマに向かってシリューは頭を下げ、「ごめんなさい」とハーティアがそれに倣った。
「別に、気にするな。それから、僕たちに敬語はいらない」
「よそよそしいのは無しよ、いいかしらキッド」
「わかったよ、ありがとう」
シリューは笑顔で答え、真ん中に座ったミリアムの後を通りテーブルの奥の席に座る。
「何してたんですか?」
その途端、ミリアムがシリューを横目でねめつけた。
「え?」
「ハーティアの髪とブラウス、少し乱れてますよ? それに、シリューさんから、ハーティアと同じ香水の香りがしますけど?」
「え!?」
あまりにも鋭すぎる指摘に、シリューは色を無くして硬直する。
「あ、あの、これは……」
「私が階段で転んだのよ。それをキッドが受け止めてくれたの。私が病気の治療を受けているのはジェーンも知っているでしょう? たまに、その症状が出る事があってね、たまたまキッドがいてくれて助かったわ」
冷静なハーティアの説明には、何一つ嘘はなかった。
一つだけ、本当の事を隠している以外には。
「そ、そうだったんですねっ。あ、あはは……」
ミリアムは、自分が変に勘ぐった事を恥じて笑った。
思い出してみれば、レグノスで初めてハーティアに会ったのは治療院の廊下で、たしか彼女が出てきたのはニーリクス先生の診察室だった。
「誤解が解けたのならよかったわ」
向かい側の席で、「ああ、そういう事か」とディックが呟き、エマは口元に指を添えてちょこんと頷いた。
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