【第206話】温もり
それから三日後の朝。
人造魔石の安全性の確認も終わり、今日からはいよいよ成分の分析に入る。
残留魔力がほぼゼロの場合、死体を魔獣化する事はないと証明されたのは、小さな鼠の死骸を人造魔石に近づけても、なんの反応もなかった事による。
もちろん、いきなり哺乳類を試した訳ではなく、最初は小さな羽虫から始め、徐々に甲虫、そして爬虫類や両生類、最後にようやく鼠へと至った。
その間、シリューはずっと実験対象から目を離す事なく、いつでも動けるように臨戦態勢で警戒を続けた。
今日の実験には、長官のタンストールも立ち会う。
それを聞いてもシリューはたいして興味を示さなかったが、ハーティアは僅かに心が躍動するのを覚えた。
「異世界人の貴方は知らないでしょうけれど、タンストール・ダーレーは三大魔法体系の一つを確立した
「ダーレー系……」
聞く気のなかったシリューだが、少しだけ気が変わった。
「三大って事は、あと二つあるって事?」
大きく頷くハーティアの顔はいつもの無表情ではなく、嬉々として輝いている。
「ええ、一つはダーレー系と同じく呪文とイメージのバイアリー系ね。呪文が短く単語になっているけれど、イメージが複雑で発動までの時間や威力を一定に保つのが難しいの。あと一つは、イメージと動作(印)によって発動する……」
「ゴドルフィン系?」
「正解よ、よく知っていたわね」
「まあ、たまたま」
シリューはにやけそうになる口元を手で覆った。もちろん、たまたま知っていたのは本当の事だ。
「現在魔道士たちの90%はダーレー系だと言われているわ」
「圧倒的だな……」
「ええ、ゴドルフィン系は一時期ダーレー系を上回るほどの勢いだったけれど、手足が動かせない状況では魔法が使えない事から、徐々に寂れていって今ではほんの7%。バイアリー系にいたっては、実戦的でないとされて現在では消滅しつつあるわ。ほとんどは保存のために、ダーレー系の魔導師が習得する程度ね」
魔法を探求し極めんとする者にとって、タンストールは神にも等しい存在である。
と、ハーティアは締めくくった。
魔法理論や研究材料について語る時、ハーティアはいつもより饒舌になる。
うんうん、とシリューが興味深そうな顔で聞いてくれたおかげで、朝から何となく気分が良かった。
だから、午前の授業が少し長引き、薬を飲む時間がずれてしまっている事を、ハーティアはあまり気に留めなかった。
「んっ……くぅっ……」
非常階段の途中で、ハーティアは背中を襲う激痛に耐えきれず手摺に縋りつく。
その痛みは以前よりも強くなっている。それに今は背中だけでなく、お腹にも痛みを感じる。
「薬……」
薬で誤魔化してはいても、病魔は確実に命を食い尽くそうと牙を剥いている。
〝苦しむ時間は、案外、短くて済むのかもね……〟
ハーティアは痛みに歪んだ顔に、皮肉な笑みを浮かべた。
もう気を失う……。
マジックボックスから小瓶を取り出した時。
目の前が真っ暗になり、手足の力が抜け上下の間隔がなくなる。
だが波に飲まれる躰を、誰かの腕が支えた。
震える右手を伸ばすと、その誰かの手がそっと包んでくれた。
「……ご、めんね……」
掠れる声でハーティアはそう言った。
それはハーティアが見た、一瞬の夢だったのかもしれない。
瞼に映るのは、白く輝く霧に包まれた、見覚えのない不思議な部屋。
天井から照らす光は、魔法でもランプでもない。
ベッドに横たわる自分を、一人の男性が見下ろしている。
逆光で顔はよく見えない。が、もうほとんど動かない自分の手を、そっと優しく包んでくれた手のぬくもりが、その人は最も大切で、最も愛おしい相手なのだと教えてくれる。
「なんで謝るん……が、元気になれば……約束……」
夢で見つめる男性の言葉は途切れ途切れで、何と言ったのかはっきりとは聞き取れない。
だが、夢の中であるにもかかわらず、その男性の手からは力強さと、それ以上の切なさが痛いくらいに伝わってくる。
「……約束する……絶対……をさが……だからっ……」
その人は、無理に作った笑顔に涙を溢れさせて、握った手に力を込めた。
だからハーティアも笑った。この最愛の人に、苦しみに歪んだ顔ではなく、自分の笑顔を覚えておいてもらう為に。
そして唐突に理解する。
自分はもうすぐ死ぬ。と。この男性に看取られて。
それからハーティアは、一言だけ声を振り絞った。
「ありが……とう……」
「別に、お礼はいいからっ。大丈夫かハーティア!」
白い霧が晴れ、景色が色彩を取り戻した世界で、ハーティアの目の前にはシリューの顔があった。
「シ、リュー……?」
「今はキッドな。平気かハーティア?」
「ええ、は、ぐっっ」
動こうとしたハーティアの背中に、激痛が走る。
「アミーナフェノール!」
悶えるように苦しむハーティアに、シリューは鎮痛の聖魔法を掛ける。
2分ほどで息も落ち着き、表情からは険しさが抜けてゆく。
「ありがとう、そんな魔法も使えたのね」
「前に一度、ミリアムから掛けてもらったから」
「ここは……」
ハーティアが顔を上げて眺めると、そこは、いつもの階段下のスペースだった。しかも、シリューの膝に座る形で抱かれたままだ。
「地べたに放るのはあんまりだからな。ま、我慢しろよ」
シリューは「ほら、これ」と、茶色の小瓶をハーティア差し出す。
僅かな逡巡のあとで、ハーティアは小瓶を受け取り、蓋を開けて一粒の丸薬を口に入れる。
「……何も……聞かないの?」
「それほど親しくはないだろ? 俺たち」
「そうね……それが私たちの距離ね……」
ハーティアは顔を伏せてふふっと笑った。
「ねえシリュー……」
「今はキッドな」
「薬が効いてくるまでの間、こうしていても、いいかしら」
今度はシリューが逡巡する番だった。
「まあ……いいけど……」
その言葉と同時に、ハーティアはシリューの胸に頭を預ける。
「ありがとう、シリュー」
「どういたしまして」
シリューはハーティアの背中に回した腕に、少しだけ力をこめる。
ハーティアは、そんなシリューから夢と同じ懐かしい温もりを感じていた。
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