【第205話】みくびらないで
「マスター・バルドゥール、少々お時間をいただいてもよろしいですか?」
シリューたちが帰り、ヴィオラも退出して帰路についた後。
研究助手のローレンス・マーフィーは、自分の書類を取り纏める手を休め、未だに帰ろうとしない上司に声を掛けた。
「ああ、遠慮する必要はないよローレンス。どうした? 何か気になる事でもあるのかね?」
「ええ、実はちょっとあの二人の事で……」
「ウィリアムにマーサの事かね?」
ローレンスは優雅な所作で立ち上がり頷いた。
「なにか……問題でも?」
「いえ、そうではありません。冒険者としての実績、魔法の素質、人間性についてはこれから見てゆく必要はあるでしょうが、性格も問題ないでしょう」
「では、何が気になるのかね?」
ローレンスは極めて論理的だが、勘は鋭い。
信頼する部下を騙さなければならないのは心苦しいが、今はまだ真実を知らせる訳にはいかない。
もし何かに気付いているのなら誤魔化し通す必要があるが、ローレンス相手には相当骨が折れるだろう。
ヴィオラなら簡単なんだがな、と思ってすぐに訂正する。
彼女なら気付く事もないだろう、と。
「ディックと引き分けたのなら、魔道士としても相当に優秀と言えます。ただ……」
ローレンスはそこで一度言い淀む。
「ただ?」
言葉尻を繰り返し、先を促す。
「ええ。実績は申し分ないと言っても、彼らは学院に入学したばかりで、研究者としては全くの素人です」
「君は、反対かね?」
「いいえ、人造魔石の分析も急がなければなりませんからね、人手が増えるのは大歓迎ですよ。ですが、ディックやエマ、若しくは他のレギュレーターズの誰かならまだしも、明らかに戦闘に特化したような人物を配置するのは……何かあるのではと、ふと思いまして」
まったく鋭い。まさか、ウィリアムやジェーンの正体にまでは気付いていないだろうが、それも時間の問題かもしれない。
「ははは、深読みし過ぎるのは君の癖だなローレンス。安心したまえ、あの二人の編入申請があったのは3か月も前だ。つまり、この件とは全くの無関係だよ」
もちろんそれは嘘だが、書類に手を加え学院長で長官のタンストールが認知している。
誰かが調べても、それが冒険者ギルド本部と魔調研の作戦だとは気付かないだろう。
「そうですか。少し勘繰りすぎたようですね。失礼しましたマスター・バルドゥール」
ローレンスはお辞儀をして椅子に座り直し、残った書類の整理に取り掛かった。
朝のミリアムの重大発表から、夕方の研究室で得たヒントまで、今日は考える事が有り過ぎて、シリューはクランハウスに帰ってすぐ、事務所兼リビングのソファーにぐったりと倒れこんだ。
「紅茶、入れますね」
「ああ、お願い」
事務所を抜けて、ミリアムはキッチンへと向かう。
「少し顔色が悪いわよ、シリュー・アスカ。平気なの?」
向かいに座ったハーティアはいつもの無表情に見えるが、声の響きにはどこか暖か味が混じっていた。
「え? ああ、そうだな、大丈夫だよ、ありがとう」
ハーティアに気遣われると思っていなかったシリューは、驚いたせいで少しだけ声が上ずってしまう。
「お礼は、いらないけれど……」
虚を突かれるような素直な感謝の言葉に、ハーティアは両目を瞬かせた。
「ミリアムには言っておいたんだけど……」
いざという時、ハーティアも知っていた方が慌てずに済むだろう。
「実は、旧市街、特に学院に入ると、胸を締め付けられるような息苦しさを感じるんだ。発作っていうほどのものじゃないんだけど、一日中は我慢できないから、白の装備のアンダーシャツを着こんでる」
「白の? ああ、白き翼ね」
ハーティアは先を促す。
「これから、オルタンシアたちと戦闘になる可能性もあるだろ?」
「そうね、その可能性は高いわね」
「もし仮に、そんな戦闘の最中に俺が発作に襲われたら、その時は俺を置いて……」
「逃げないわよ」
ハーティアは鋭い口調で、シリューの言葉を切った。
「え、あ、いや、だからな」
「逃げないわよ? 何度も言わせないで、馬鹿なのシリュー・アスカ」
いつも無表情のハーティアの瞳が、今は明らかな感情を宿している。
「でも危険だ、闇切りのノワールだって……」
「それ以上は怒るわよ。いい、黙って聞きなさいシリュー・アスカ。戦う時は、一緒に戦う。逃げる必要があるなら一緒に逃げる。私は絶対に、貴方を置いて逃げたりしない。みくびらないで!」
ハーティアは語気を強めた。
それは怒りに似て怒りではなく、哀しみに似て哀しみでもない。
新たに沸き立つ不思議な感情に、ハーティアの心は風のように躍った。
ただ、その感情が何なのか、ハーティアには分からない。
「ごめん……」
「そこは、謝るところではないでしょう?」
シリューは改めてハーティアを見つめた。
怒ったのかと思ったハーティアは、今まで見せた事がない、暖かな微笑みを浮かべていた。
「……そうだな……うん、ありがとう。よろしく頼むよ、ハーティア」
「分かってくれればいいのよ、シリュー」
ハーティアは立ち上がり、ミリアムを手伝ってくる、と言ってキッチンへ向かった。
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