【第190話】溜息
「……悪い夢でも見ているみたいだわ……」
エマは、まるでただの土くれのように、深く抉り破壊された訓練場の床を呆然と眺めて呟いた。
「ここの床は、高度な魔法防御が施されているのよ……それなのに……いいえ、そんな事よりも……七属性も使えるって、どういう事なの……ああ、そうじゃない、十の魔法を同時に発動できるなんて、そんなの……そんな……」
自分の理解だけではなく、世界の常識さえも遥かに超えたシリューの能力に、エマはただ幽鬼のように顔色を無くし、立ち尽くす事しかできなかった。
「心配いりません、みんなそうなりますから」
「え?」
ミリアムはエマの正面に立ってその手をとり、慈愛を込めた微笑みを浮かべそっと包んだ。
「エマ、貴方は間違っていません。おかしいのはあの馬鹿(キッド)です」
ミリアムの隣で慰めるように笑ったハーティアだったが、その瞳は何の感情も光も映してはいなかった。
シリューの実力は把握していたつもりでいたし、だからこそ全力でやれとアドバイスもしたのだ。
だが……。
まさかここまでぶっ壊れた常識外れだとは、想像していなかった……。
「……人間なの……彼……」
エマは誰に聞くでもなく、独り言のように零した。
「馬鹿、です」
「アホの子です」
三人の認識は概ね正しい。
「聞こえたぞ、誰が馬鹿で誰がアホの子だよ、まったく。言いたい放題だな」
背中から聞こえたシリューの声に、ミリアムとハーティアは振り返った。
「間違ってはいないわ、キッド」
「あ、お疲れです、キッド」
何食わぬ顔で応える二人に、シリューは肩を竦める。
「あ、あの……」
眉根を寄せたエマは、僅かな脅えと明らかな警戒の色を瞳に滲ませ、震える声でシリューを見つめた。
「すみませんエマさん。この二人の言う事は気にしないでください」
「え? あ、えっ、ええ。そう……なの?」
戸惑うエマに向かって、シリューは涼し気に微笑んでみせる。
「それから、この勝負。引き分けらしいぞ」
シリューの後に続き結界線まで戻ってきたディックは、相変わらず不機嫌な声で大袈裟な溜息をついた。
「引き分けって……どういう事ディック?」
「さあな、何か事情があるんだろ? 後はこいつに聞いてくれ」
ディックはちょいちょいっと親指を立てて、シリューを差した。
「それは場所を変えて話します。その前に、あの人起こさなきゃ」
倒れた試験官に目を向けた後、シリューがミリアムに目配せをする。
ミリアムはこくんっと頷いて、試験官の傍へ駆け寄る。
「おい、ちょっと待て。いったいどう説明するんだ?」
たいして気にする様子もないシリューたちを、ディックは慌てて制止した。
結界の中にいたにもかかわらず、魔法を使って試験官を気絶させた事を含めて、どう論理的な釈明をするのか、ディックには想像さえついていなかったのだ。
「任せます」
「「え?」」
ディックとエマの、うわずった声が重なる。
「だから、任せます」
しっかりと確認するように、シリューは同じ言葉を繰り返した。
「あ、あの、ちょっとまって……」
「お、お前っ。僕たちに丸投げする気かっ!?」
「はい、そのつもりです。あなたたちの言う事なら、試験官も信用するでしょう? ただ、光魔法の事は言わないでくださいね」
ディックとエマは目を丸くして、シリューを二度見する。
目を細めて微笑んではいるが、そこには一切の気遣いも妥協も見て取れなかった。
ディックは諦めたように肩を落とし、大きく息を吐く。
「……まったくっ。何から何まで、本当に腹の立つヤツだな。絶対早死にするぞお前……」
「そうですね、100までは生きられないかも」
眉をひそめてシリューを睨みつける。
「地獄に堕ちろ、くそったれ」
憎まれ口をたたくディックだが、その表情には言葉ほどの怒りは現れていなかった。
「光魔法のレイまで使えたんですね。前にセイクリッド・リュミエールは見ましたけど」
実技試験を終えたシリューたちは、面倒な報告や説明をディックたちに任せ、一足先に寛いでいた。
「黙ってたのは、悪いと思ってるけど……そんなに怒らなくてもいいだろ?」
「別に、怒ってませんよっ。今更、そんな事で……」
口を尖らせて否定するミリアムの姿を、
「馬鹿なの、キッド」
「いやまてっ、なんだよ突然っ」
当然ながら、シリューはまったく分かっていない。
カフェテリアの入口から一番遠いこの席は、四人掛けの四角いテーブルで、対面に二つずつ椅子が並んでいる。
ここへ来た時、一番前にいたミリアムは奥側の席に腰掛け、ごく自然に隣の椅子を引いて、どうぞ、とすぐ後ろにいたシリューに微笑んだ。
ところが、である。
シリューはそれに気付く事なく、あるいは気付かない振りをして、ミリアムの隣ではなく、斜め向かいの席に腰掛けた。
そう、隣でも、正面でもなく、よりによって斜め向かいに。
その二人の様子と表情を交互に見比べたハーティアは、僅かに湧き上がるいたずら心を抑え、ミリアムの隣の席に座ったのだ。
「ねえ、馬鹿なのキッド」
「いや、何で二度言ったっ?」
「馬鹿だからよ? 分からないの?」
ハーティアはテーブルに頬杖をつき、上目遣いにシリューを見つめたあと、ふっと視線をミリアムに移した。
「そうでしょう? ジェーン……」
「え、や、そ、それ、は、あの……」
頬を染めて俯くミリアムの髪が、所在なさげに揺れる。
「おい、なんでジェーンが関係あるんだよっ」
「ちょっと? まさか、それも分かっていなかったのは予想外だわ」
ハーティアの表情が、深い憐みの色に変わる。
「いや、待って……どういう事……?」
「あのねキッドっ、貴方のとな……」
「ハーティアっ」
言葉を遮るように、ミリアムは上ずった声をあげハーティアの腕を取った。
「ね、もういいですからっ」
「でも、この男ははっきり言わないと分からないわ」
「そ、それはやめてぇ」
二人のやり取りを見て、自分に何か落ち度があった事を察したシリューだったが、その理由までには思い至らなかった。
「あの……」
「何かしら?」
「何ですか?」
ミリアムとハーティアが同時にシリューをねめつける。
「ごめん……」
「何について、かしら?」
ミリアムに謝ったつもりのシリューだったが、ハーティアに質問を返されてますます意味が分からなくなった。
「いや、あの……何か、分からない事、につい、て?」
シリューはためらいながらちらちらと、視線を二人に移す。
ミリアムとハーティアは、しばらくの間お互いに見つめ合っていたが、やがて糸が切れたようにがっくりと肩を落とし、はああ、っと力なく声を漏らした。
「ち、ちょっと……ジェーン? ハーティア……?」
「いいわ……この話はここまでにしましょう」
「……そうですね、このままじゃ埒が明きません」
そうは言ったものの、ミリアムには埒が明く日がくるのかどうかまったく予想ができず、もう一度シリューの目を見つめて、肺の空気を全部吐き出すような長い長い溜息を零した。
「あの、ミリ……ジェーン?」
「いつか……ちゃんと話せるといいですね……」
ミリアムの疲れ切った表情の意味も、シリューには分からなかった。
「随分と楽しそうじゃないか?」
話に集中していたせいで三人とも、ディックとエマが近づいていたのに気づかなかった。
「人に面倒を押し付けておいて、いい御身分だな」
ディックはテーブルの傍に立ち、眉をひそめてシリューを見下ろす。
「おかげさまで、快適な学院生活になりそうです」
シリューはディックを見上げて、涼し気な笑みを浮かべた。
「まったく、とことん腹の立つヤツだな」
それはほとんどディックの口癖になりつつあった。
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