【第181話】想い、願い、望み
その日の夕方。
市場で食材を買った帰りに不動産屋で鍵を預かり、シリューとミリアムはいよいよクランハウスへとやってきた。
門を潜り庭に入った所で、ミリアムは立ち止まり両手をいっぱいに広げる。
「ん~、なんか、これから新しい生活が始まるのかと思うと、ちょっとどきどきしちゃいますね~」
分かっているのか分かっていないのか、ミリアムの声が楽し気に弾む。
「……いちいち宣言するなよ、言っとくけど、宿暮らしとそんなに変わらないからな?」
シリューは極力考えないようにしていた。
〝建物は一緒でも部屋は別々っ、いってみれば下宿とか学生寮みたいなもんだ〟
「違うからなっ」
「え? 何が、ですか?」
ミリアムはまったく意識していなかった。この時まで。
「ご主人様、これで遠慮なくミリちゃんと一緒に寝てあげられるの、ですっ♪」
「みゅっ!?」
「ひ、ヒスイっっ」
ヒスイのこれでもかっ、という直接的な言葉の爆弾に、ミリアムは湯気が上りそうなくらい真っ赤になった。
「ち、ちち、っちちち違い、違いまっ、違いますよっねっっ」
いきなり意識してしまった。
「そ、そうっ、違うからっ! そうじゃないから!!」
もはや、何を否定しているのかも分からないほどに混乱した二人だった。
「二人とも、早く大人になるの、です」
ヒスイはあくまでも冷静だった。
「と、とととにかく、中に入りませんかっ? お片付けとか、し、したいですし、ねっ」
先に戻ってきたのはミリアムだった。
こういう場合、女性の方が冷静になるのが早いのか、それともシリューがヘタレ過ぎるのかは微妙なところだ。
「そ、そうだな、荷物の整理しないと、生活できないもんなっ」
そう言って、その場を繕ってみた二人だが、実際にはそれほど片付ける物も、整理しなければならないような物もなかった。
部屋はすべて綺麗に掃除されていたし、キッチンも風呂もすぐに使えるようになっていた。
シリューとミリアムはそれぞれの部屋のベッドに、マットやシーツを掛け、少ない持ち物をクローゼットに収納するぐらいしかやる事がなく、すぐに一階の事務所兼リビングへと下りてきたのだった。
革製の三人掛けソファーに座り、木製肘に頬杖をつくシリューを見て、ミリアムは一瞬迷ったような表情を浮かべたが、結局はセンターテーブルを挟んだ向かいの一人掛けソファーに腰を下ろす。
さすがに、さっきの(ヒスイの)話の後では、隣に座るような勇気はミリアムにはない。
「あの……えっと、し、シリューさん……」
「な、なに?」
ミリアムが、その場を包む気まずい空気に耐えられす、向かいで目をつぶるシリューに声をかけた。
「暇……ですねぇ……」
「そう、だな」
「……」
暫く待っても、それ以上の返事がシリューから帰ってくる事はなかった。
元々、シリューはそれほどお喋りな方ではないが、こういう場合その態度はどうなのだろう、とミリアムは思ってしまう。
〝男の子なんだからっ、ちゃんとリードしてっ〟
心の中で叫んだ後、その言葉の意味を深読みしすぎて、ミリアムは膝の上でぎゅっと両手の拳を握り、ぷるぷる震えるように顔を伏せた。
〝や、やばいでしょ私っ。何考えてるのっ。って、さっき新しい生活って言っちゃったけど、シリューさん勘違いしてないかなっ? 私、とんでもない事言っちゃった!?〟
一人で勝手にパニックを起こすミリアムだった。
「ち、違いますからねっ」
「な、何が?」
「いちいち聞かないでくださいっ、もうっばかっ」
「え? 俺、今何で怒られた?」
「いいんですっそんな事はっ。と、とにかく、その……晩御飯っ、作ります」
ミリアムはいきなり立ち上がり、慌てた態度を隠しきれないまま、小走りにキッチンへ続くドアに向かう。
「あ、俺も手伝うよ」
返事を聞く前に、シリューはミリアムの後に続いてキッチンへ入った。
「大丈夫ですからっ、シリューさんは座っててください」
二人でいる気まずさから逃げ出したというのに、シリューが隣にいたら同じ事だ。ミリアムはやんわりと断るが、シリューも簡単には引き下がらない。
「前にも言ったけど、お前だけにやらせる訳にはいかないから」
もちろんそれはミリアムを気遣っての言葉なのだが、ただそれだけの理由でもなかった。
「それとさ、前に……ほら、エラールの森を二人で調べた時、お前サンドイッチ作ってきてくれたろ? あと、野盗団の洞窟とか、王都に来る途中の野営とかも料理してくれたし」
「そ、それは、別に深い意味はなくて……お料理は好きだし、美味しいものを食べさせてあげたいなって、思っただけで……」
ミリアムは眉をハの字にして、困ったようにきょとんと首を傾けた。ミリアムにとって、それはごく普通の事で何ら特別なものではいのだ。
「だからさ、俺も……お返しがしたいんだよ。お前に、美味しいって言ってもらえるようなものを、食べさせてやりたい」
シリューは涼し気な笑みを浮かべて、なんの気負いもなくさらりと言い放った。
「シリュー、さん……」
暫くシリューのその目を見つめた後、ミリアムは不意に目を逸らし、戸惑いながらあちらこちらに視線を移す。
「あ、あの、シリューさん、どうしちゃったんですか? 何かあったんですか? ってか、ホントにシリューさん、ですか?」
「……お前、何気に失礼だな……」
「シリューさんこそ、そんな事を本人の目の前で言っちゃいます? それ、勘違いしちゃいますよ?」
半開きのジトっとした目を向けるシリューに、ミリアムは腕組みをして上目遣いに見つめ返した。
「あ、いや、あの、それは……」
シリューは言葉に詰まる。言われてみればその通りで、不用意に口にするような言葉ではない。今の、微妙な関係の二人の間なら特に。
「でもでも、嬉しいです! 教えますから、一緒にお料理しましょ」
リゾートとして名高いマーサトレーンの湖の畔。
緑鮮やかな植物に囲まれ、静かで落ち着いた雰囲気の敷地の中に建てられたヴィラは、まるで木を思い立たせるデザインが施され、バカンスを楽しむ人々に、隔絶した空間を提供していた。
湖を望む二階のバルコニーには淡い魔法光が灯り、心地よい安らぎを与えてくれる。
昇り始めた満月の明かりは、風に揺れる湖の水面にきらきらと反射して、幻想的な景色を創造し見る者の心を捉える。
湖を渡り終えた優しい風が、バルコニーに佇むパティーユの碧い髪を遠慮がちに優しく揺らす。
白いシンプルなワンピースドレスに身を包んだパティーユは、バルコニーの手摺に身を預けて、まるで懐かしむかのような瞳で湖を眺めていた。
「……僚……」
あの日マナッサですれ違ってからずっと、パティーユの心は、風に波立つ湖面のように揺れていた。
シリュー・アスカが、本当に明日見僚なのか……。
レグノスでの調査でも身元を確定できるものは何一つなく、加えて、制限のあるパティーユでは、十分な聞き取りもできなかった。
ただし、元々今回の目的は魔族の動向を探る事で、シリュー・アスカの身元調査ではない。
「殿下……」
背中から聞こえた声にパティーユが振り向くと、金属製のマグカップを両手に持ったエマーシュが微笑んでいた。
「エマーシュ……」
「今夜は少し冷えます、温かいうちにどうぞ」
ありがとう、と言って、パティーユはエマーシュの差し出したカップを手に取った。
「殿下……まだ……マナッサでの事を……?」
エマーシュに問われ、暫く迷った後でパティーユはゆっくりと頷いた。
エマーシュにだけは全て打ち明けている。
「あれは……あの時すれ違った人は、きっと……僚です。あの人がシリュー・アスカなら、もし、そうなら……」
「私たちから、逃げる理由がある、と……」
パティーユは溢れそうなほどの涙をその目に湛えて、今度は大きく首を縦に振った。
「それに、あの『断罪の
こちらはパティーユにも確信がある訳ではない。ただ、ドラウグルワイバーンの攻撃から救われた時、パティーユは何故か懐かしい温かさに包まれるような感覚を覚えた。
そう、僚に感じたものと同じ、優しい温もりを。
「シリュー・アスカと断罪の白き翼が、同一人物だと……?」
エマーシュの問いに、パティーユがゆっくりと頷く。
「パティーユ様……」
そんな事が有り得るだろうか。
明日見僚が生きている可能性が。
パティーユから最初に相談を受けた時、エマーシュは正直なところ信じてはいなかった。ただの見間違いだろう、と。
背中から僚の心臓を貫き、龍脈へ落としたのは、ほかならぬパティーユ自身だ。
直後に直斗たちへの呪いも消えた。
それはすなわち、僚の命は奪われ、龍脈によって肉体は消滅し、生命の輪廻からも外れたという事だ。
ただ、エマーシュには一つだけ思い当たるものがあった。
「……『生々流転』……」
「え?」
独り言のようなエマーシュの囁き声は、パティーユの耳にも微かに届いた。
――『生々流転』、全てのものは、次々と生まれ、時間とともにいつまでも変化し続ける――
「それは、僚だけが持っていた、『ギフト』ですね……」
「はい。前例がない為、どのような能力なのかは分かっていませんが、もしも明日見様が生きておられるのなら、このギフトの恩恵によるものではないかと」
「私も……同じ事を考えていました」
あくまでも仮定の話ではある。だがパティーユの心には、日増しにその思いが募り、否定する事ができなくなっていた。
詳しく調べてみます、と前置きしてエマーシュは続けた。
「殿下……もし、明日見様が生きているとして……殿下は、何をお望みなのでしょうか」
エマーシュの言葉は、ある種の冷酷さをもって響いた。
「……なに……を……?」
そう、僚に何を望むのだろう。
この世界を救う、という身勝手な大義の為に、何の罪もない僚をパティーユ自身の手で殺害したのだ。
「私……は……」
パティーユは、震える両手の平を目の前に掲げ、蒼ざめた顔で見つめた。
いまだに、僚の心臓を刺した感触が生々しく残る手。
「そう……ですね……」
パティーユの望みは、あの日からたった一つ。
「……殺して……ください、と……」
パティーユの瞳から、大粒の涙が頬を伝い、月の光に煌めきながら足元に落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます