【第175話】キッドと呼んでくれ
夜の闇が街を包み、家路に向かう者や、これから繁華街へ出向く者たちが行き交う通りを、オルタンシアは一人、建物の壁に背中を預けて眺めていた。
白いシャツとブルーのパンツ。グレーのサマーコートのフードを目深に被り、ポケットに両手を入れて佇むオルタンシアを、誰も気に留める者はいない。
〝誰かと待ち合わせでもしているのだろう〟
時折オルタンシアに顔を向ける者も、その程度の興味しか示さない。
「オルタンシア様……」
闇の中のいずこからか、女の声がオルタンシアの耳に届いた。
「マリータさん?」
オルタンシアは素早く視線を走らせるが、気配だけで声の主の姿は見えない。
「例の二人ですが、特に変わった様子は見られません」
「……では、動く気配はない、と?」
「はい、ただ街をまわり、買い物をしていただけです。今は宿へ帰りましたが、出掛ける様子もありません」
女は一切の無駄口を挟まず、ただ見てきた事をそのまま伝えた。
「そうですか、随分と真面目な若者たちですね……」
「監視を続けますか?」
女の問いに、オルタンシアは腕を組み、その目を夜空に向ける。
「ええ、そのうち接触があるかもしれません、もう暫くはお願いします。ですが、くれぐれも深追いしないように、いいですねマリータさん」
「お任せを」
その一言を残し、物音も立てず、気配だけが消えていった。
「おはようございます」
「おはよう、よう来たのじゃ。立ち話もなんじゃ、まあ掛けてくれ」
クランハウスの契約をした次の日。
シリューとミリアムは朝から冒険者ギルドに呼ばれ、エリアスの執務室に案内された。
「ありがとうございます」
シリューは気乗りのしない気持ちを抑えて、抑揚のない声で答えソファーに腰掛けた。
「はい、失礼します」
二人掛けにしてはゆったり目のサイズにも関わらず、ミリアムは拳一つ程度の隙間でシリューの隣に座る。いつもの事で、もうすっかり慣れてしまったシリューも、ミリアムのそんな行動を一々改めさせる事はなかった。
「ん? どうしたのじゃ? 随分と浮かない顔をしておるの」
エリアスが向かいの席に座り、シリューの顔を覗き込んだ。
「ええ、こうやって呼ばれる時って、大概は面倒事を頼まれる場合が多いですから」
それまでの不愛想な表情から一転、シリューは嫌味なくらい涼し気な笑みを浮かべる。
「そうか、ふむ、分かっておるのなら話が早いのじゃ♪」
エリアスも、負けじと満面の笑みで応酬した。
「うっ」
それはまさに天使の微笑み。実年齢二千歳と分かってはいても、見た目はとても愛らしい子供そのもの。
児童養護施設で、さんざん小さい子たちの面倒をみてきたシリューにとって、子供の笑顔ほど心に響くものはない。
どうやらエリアスのほうが、一枚も二枚も上手のようだ。
シリューは諦めたように、がっくりと肩を落とす。
「くそっ、中身は干からびた鰯ババアなのにっ」
「シリューさん……声、出てます……」
ミリアムの額を、一筋の冷たい汗が流れた。
「ははは、相変わらず面白い子じゃの」
エリアスは嬉しそうに笑ったが、ミリアムには今の会話のどこに笑いの要素があったのか、まったく理解できなかった。
「それでイワ……いえ、エリアスさん。俺は何をすればいいんですか?」
それまでの冗談めいた口調を改め、シリューは真剣な表情で尋ねる。
「ふむ、では単刀直入に話そう。そなた、学……」
「お断りします」
「はやっ、聞く気ゼロ!?」
まるで宣誓分を読み上げるかのようにシリューはエリアスの言葉を遮り、そのあまりに早い反応に、ミリアムは思わずツッこんだ。
「……いや、まだ何も言えてないのじゃが……」
エリアスも、何が起きたか分からない、といった様子でぱちりぱちり瞬きをした。
「何か、不穏な単語が出そうだったんで、つい」
「っていうかシリューさん、今のは、一旦話しを聞く流れですよねっ」
相変わらず、エルフにたいして辛辣さを発揮するシリューに、ミリアムは目を丸くして驚きの表情を浮かべる。
「ご主人様は、決断が早いの、です」
シリューの肩の上で、ヒスイがぴんっ、と胸を張った。
「それでも、話は聞きましょう、シリューさん……」
「まあ、聞くくらいなら、いいけど……」
シリューは気怠そうに肩をすくめた。
「では、続きをいいかの。実は昨日、魔調研から極秘の相談があったのじゃ」
「相談……ですか……」
『依頼』、ではなく『相談』とエリアスが口にした事に、シリューは何となく違和感を覚えた。
魔調研のトップとエリアスの間には、浅からぬ繋がりがあるのだろう。ただ、どんな関係があろうと、シリューにはどうでもよかったが。
「そうじゃ、そなたらが運んだ人造魔石の調査の件で、いろいろと、の」
「いろいろって、ようは護衛の依頼じゃないんですか?」
「うむ、基本的にはそうなのじゃが、わらわが気になるのは、金仮面の男の動向じゃ」
シリューは無言のまま軽く頷いた。
「そなたとワイアットの報告を聞くかぎりでは、こやつがこのまま引き下がるとは思えんでの」
その意見にはシリューも賛成だった。金の仮面の男が、何を考え何を目的としているのかは分からないが、何かを仕掛けてくる事は十分に考えられる。
「そこで、じゃ。そなたらには生徒兼補助研究員として学院に入り、起こりうる事態に柔軟に対応してほしい」
「……なんだか、随分曖昧ですけど、それって俺の思う通りに動いて良いって事ですか?」
エリアスはしっかりと肯定するように、大きくゆっくりと頷いた。
「金の仮面の男には闇切りのノワールもついておる。更に、人造魔石に何か起こった場合、対処できるのはそなたぐらいじゃろう。どうか、頼みを聞いてはくれんかの」
シリューは腕を組み、ゆっくりと深呼吸をした。
「ま、もともと、金の仮面とはケリをつけるつもりですから。でも俺は顔が割れてますよ? 『白』とはバレてないと思いますけど、ヤツらも警戒するんじゃないですか」
相手が派手に動いてくれる分にはいいが、闇に紛れて暗躍された場合、シリューたちに勝ち目があるか微妙なところだ。勿論、まともに戦えるのなら、シリューが負ける事はないだろう。だが、金の仮面の男は不利な状況になった場合、躊躇なく逃走を選ぶ。
いや、選ぶというよりも、最初から逃走する事を目的としているように、シリューには思えた。
「そのあたりの事は、まあなんとかなるじゃろう。魔調研の長官で学院長のタンストールとは昔馴染みでの……」
「誰?」
シリューの耳がぴくりと反応した。
「魔調研の長官で、魔導学院の院長を兼任しておる、タンストールじゃが……?」
タンストールの名前を聞いて、ぷっと吹き出したシリューを、エリアスは訝し気な表情で見つめた。
「あ、ああ、別に何でもありません。ちょっと知ってる人を思い出しただけです。どうぞ、話を続けてください」
すぐに真顔に戻ったシリューは、何事もなかったかのように取り澄まし、エリアスに話の続きを促す。
「そ、そうか……何となく気になるのじゃが……まあ、そういう事でじゃ。そなたら二人を偽名で入学させるぐらい、難しい事ではない。それに、完全な変装とまではいかんが、目と髪の色を変える魔道具ならあるのじゃ」
シリューが金の仮面の男と素顔で会ったのは一度きり、ワイアットの執務室でほんの数分の事だった。髪と目の色を変え、その他多勢に紛れてしまえば、そうそう見つかる事はないかもしれない。
「ま、面と向かえばバレるだろうけど、その時はその時、だな……」
「では、受けてくれるか?」
エリアスは、らんらんと期待の光を散りばめた瞳でシリューを見つめた。
〝まるで、クリスマスプレゼントを前にした子供もみたいだな……〟
シリューの脳裏にふと元の世界での懐かしい光景が蘇り、少しだけ郷愁を覚えた。
「ええ、いいですよ。ここまできて、断るっていうのもアレなんで」
どちらにしろ、早かれ遅かれ巻き込まれるのは目に見えている。敵が放っておいてくれると思うほど、シリューは能天気でもない。ならば、正式にクエストとして受けたほうが、情報の共有もし易い上にしっかり金も入る。
それに、シリューも口では嫌がってみせたものの、実は学院生活に少なからず興味があった。
こちらの世界に召喚されてほぼ九か月(半年の間龍脈を彷徨っていたシリューにとって、体感時間は三か月ほどだが)、割り切って無理やり気持ちを抑え込んではいるが、いろいろとやり残した事への思いを断ち切れずにいるのも確かだ。
「私、神学校以来ですっ、楽しみですねっ」
ミリアムは胸の前で手を組んで、楽しそうに笑いながらシリューを見つめた。
「楽しみ……楽しみ、か……そうだな」
すぐにではないにしろ、いずれは金の仮面の男を含めた魔族たちと争う事になる。
ノワールとはできれば闘いたくないが、おそらく避けては通れないだろう。
ならば、それまでの間、仕事とはいえ楽しんだほうがマシだ。
「じゃ、そうするか」
シリューは、隣で返事を待つミリアムに、涼し気な笑顔で答えた。
「それでは決まりじゃの。さて、二人の偽名じゃが……」
「俺はウィリアム・ヘンリー・ボニーで」
「ウィリアム・ヘンリー……?」
「ああ、長いですね。“キッド”って呼んでください」
特に意味はない、ただシリューがそう名乗ってみたかっただけだ。
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