【第176話】ハーティアの心
「じゃあ私は、マーサ・ジェーン・カナリー、って名乗ればいいんですね?」
ミリアムは、一つ一つ確かめるように頷きながら復唱した。
「ああそうだ、忘れるなよ」
「あのシリューさん、どの口で言うんですかね」
即座にツッコんだミリアムの反応は正しい。
更に、ミリアムは隣に座るシリューをわざとらしい横目使いで見つめ、口元に手を添えて、勝ち誇ったように微笑む。
「私、記憶力が大変良くって。名前を覚えられない、どこかの誰かさんとは違いますの、うふふ」
「そのドヤ顔うざい」
本当の事だけに、論理的な反論ができないシリューだった。
「あらあら、相変わらずお子様な対応ですねぇ。まあ、お姉さんな私としては、寛容な心で受け止めてあげちゃいますけど?」
「うわっ、マジむかつくっ。お前、いつか襲ってやるからな」
「はい? ヘタレのシリューさんが? そんな勇気があるなら、どうぞ。いつでも、ど・こ・で・も♪」
ミリアムははち切れそうな胸を、持ち上げるように腕を組み、悩まし気な表情でウィンクした。
「う、うるっさいっ、バカじゃねえの、この変態残念娘っ」
いつものように、シリューは小学生並みの語彙力へと転落した。
「なるほどっ、これがワイアットの言っておった寸劇か。なかなか面白いのじゃ♪」
にこにこと嬉しそうに目を輝かせ、エリアスはシリューとミリアムを交互に見つめた。
「え……」
「みゅっ」
シリューとミリアムは顔を見合わせ、気恥ずかしさに頬を染めて俯く。忘れていたわけではないが、エリアスの存在をまったく考えていなかった。
〝……って、アホかあのおっさんっ、なに余計な報告してるんだよっっ〟
今度会ったら、ワイアットの鼻に葉巻代わりのクロワッサンを突っ込んでやろう。いや、食べ物は勿体ない、グロムレパードの骨のほうがいいな、とシリューは心の中で固く誓った。
「ん? なんじゃ、もう終わりかの?」
押し黙って俯く二人を、エリアスは残念そうに眺める。
「はい、いえ、すみません……」
「ごめんなさい、不謹慎でした……」
「なに気にする事はない。こんな地位におると、なかなか他人の面前で笑える事も少なくての。そなたらのように、自由に振舞ってくれる者もほとんどおらんのじゃ。うむ、また是非とも楽しませておくれ」
エリアスは屈託のない笑顔を浮かべた。
「では、話を戻すとしようかの。シリュー、そなたは〝ウィリアム・ヘンリー・ボニー〟通称はキッド。そしてミリアム嬢ちゃんは〝マーサ・ジェーン・カナリー〟呼び名はジェーン、で良かったかの?」
こくっと頷いたシリューの隣で、ミリアムは訝し気な表情を浮かべて尋ねる。
「えっと、なんで〝キッド〟なんですか? まあ、子供っぽいシリューさんにはぴったりですけど」
「うるさい、黙れ変態娘」
ミリアムの言う事もあながち間違いではなかったので、シリューは説明する気にならなかった。
【二人は、ビクトリアス皇国のロータスという田舎町の出身で、同じ魔法学校の初等科を卒業した同級生。その後、治癒魔法への親和性を見出されジェーンは神学校へ進み神官へ、キッドは冒険者となる。
ビクトリアスの首都を拠点としていたキッドに、神官を退職したジェーンが加わり今に至る。
二人の能力の高さに、将来の可能性を認めた冒険者ギルドが推薦し今回魔導学院へ進学する事となった。】
とりあえず、設定されたカバーストーリーはその程度。シリューが借りたクランハウスは、不動産屋に手を回して冒険者ギルドが借り上げ、表向きは二人のための寮という形をとる。
「あとは、まあ、好きにやってくれればよいのじゃ」
と、なんとも適当な指示に、シリューは肩を竦めたが、別に本格的な諜報活動を行う訳ではない。
「出たとこ勝負……って事ですね」
「うむ、察しの通りなのじゃ、そしてそなたにはそれが得意じゃ」
「それって、買いかぶり過ぎってやつじゃないですか?」
「期待しておるぞ」
エリアスはちょこんっ、と首を傾けてウィンクした。
「ただその前に……ちょっとやっとく事がありますけど」
ソファーから立ち上がったシリューは、意味ありげな笑みを浮かべ、ミリアムとともに執務室を後にした。
しんっと静まり返った教室の開け放たれた窓から、レースのカーテンを揺らす穏やかな風が、机に向かう生徒たちの髪を撫でてゆく。
少々間延びした女性教諭の声は眠気を誘いそうではあるが、実証魔学の授業は非常に興味深く、彼女から目を逸らす生徒はほぼいない。もちろんそれは、その女性教諭ヴィオラ・エナンデルが、年若い美人であるという事も大いに関係していた。
「重要なのはぁ、龍脈の力を如何に魔法陣へと導くかですからぁ、この
ヴィオラが黒板に文字を書くために腕を動かす度、一筋に纏めた三つ編みの金髪が、彼女の背中でちょこちょこと踊る。
「それではみなさぁん、明日までに、今日の授業の要点を纏めたノートを提出してくださいねぇ」
授業終了の鐘が鳴ると、ヴィオラはゆっくりと生徒に向き直りちょこんと頭を下げた。
「ああ、ティア、待って」
がやがやと騒がしく教室を出てゆく生徒たちに交じり、足早に去ろうとしたハーティアを、ヴィオラが見つけて呼び止める。
「先生、あの、何か?」
ハーティアが少し焦っているのは、もうそろそろ薬の効果が切れ始める時刻だったからだ。
「今日は研究室に来られるかしらぁ、例の件で、マスター・バルドゥールが皆と打合せをしておきたらしいのぉ」
いつもの通りのんびりとした話し方だが、急いでいるにも関わらず、ハーティアはイライラするどころか、彼女のペースの心地よさに乗せられてしまう。
「午後は理論魔法学だけなので、終わり次第行きます」
「良かったぁ、ごめんなさいね、呼び止めてぇ」
「では、失礼します先生」
ハーティアはヴィオラにくるりと背を向け、廊下の端の階段を急いで駆け下りると、誰もいないのを確認して階段下のスペースへ駆け込んだ。
「んっ……」
右の背中に、ジワリとした痛みが起こる。薬が切れる予兆だ。
急いでマジックボックスから茶色の小瓶を取り出し、黄色味を帯びた丸薬を口へ放り一気に飲み込む。
「はあ……」
大きな溜息を零した後で、ハーティアは薬の入った小瓶を目の前にかざした。
「残り……八十二個……」
レグノスでニーリクスに貰った薬は一日一回一錠、体内の魔力が最も活性化する正午ごろに飲むようにと指示されていた。
そして、今のところ薬の効果は絶大で、飲み続ける限りはたいした痛みを感じる事もなく、ごく普通の生活を送る事ができる。
もちろんそれはハーティアの身体に、病気への耐性が強いエルフの血が流れている事も大きな要因の一つだった。
ただし、その薬も病の進行を僅かに遅らせ、身体を襲う痛みを和らげるにすぎない。根本的な治療の為ではなく、死への苦しみを紛らわせるだけの、それはハーティアにとって、幸せの意味を問う選べない選択肢に等しかった。
「長くても……八十二日っていう事ね……素敵な話だわ」
確実に訪れる死を、そして死への恐怖を、薬は消してはくれない。
虚空を見上げるハーティアの虚ろな瞳に涙が溢れ、頬を伝って零れ落ちる。
一度は諦めたと思っていた生きる事への希望が、じわじわとハーティアの心を蝕む。
「いっそ……壊れてしまえればいいのに……」
何度そう思った事だろう。
今は、壊れてしまわない自分の心の強さを、もしくは弱さを、ただただ恨めしく思うだけだ。
ニーリクスに貰った薬は、三か月分。
つまり、それ以上は必要ない、という事だ。
「いっぱいあるじゃない……まだ、いっぱい……」
オルデラオクトナリアに襲われたあの時。
本当の自分の心に気付いてしまった。いや、本当の望みを思い出してしまった。
〝生きたい〟
そして、それを思い出させたのは……。
「シリュー・アスカ……」
凍えるような冷たい光を瞳に宿し、ハーティアは憎らし気にその名前を呟く。
「絶対に……後悔させてあげるわ、シリュー・アスカ……」
険しい目つきで宙を睨んだハーティアの笑顔には、彼女の心の闇が浮かんでいた。
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