【第110話】すれ違う心

 それは、中学で初めての大会だった。


 1年生の僚と拓馬は、同じ800mに出場した。


 小学生からずっと一緒に陸上を続けてきた2人は、『絶対2人で県大会に行こう!』と誓い合った。


 結果、拓馬は地区予選を軽く突破し、県大会で見事1位に。僚はといえば、地区予選すら勝ち残れなかった。


 僚はひたすら練習を重ねた。同じ練習では才能のある者に追いつけない、だから僚は多少身体に負担が掛かっても、人の3倍は走った。


 夏が過ぎて秋の大会。


 その練習が実り、地区予選を自己ベストで突破し県大会への切符を手に入れた。ただし最下位で。当然、拓馬が1位だった。


「やったな僚、前回から4秒も縮めたじゃん、すげーよ!」


 拓馬は、自分の事のように喜んでくれた。その事については僚も素直に嬉しかった。


 ただし、拓馬とのタイム差は8秒。決定的に、致命的に、そして絶対的な差。いくら拓馬との差を詰めたとはいえ、その事を喜ぶ事は出来なかった。


 それから僚は短距離へと転向した。


 どんなに努力しても、拓馬には勝てないし追いつけないと悟ったからだ。


 短距離は僚に向いていたのだろう。地区大会では比較的たやすく1位をとる事が出来た。


 だが、そこでも壁は立ちふさがった。僚が死にもの狂いで縮めた0.1秒を、事もなげに、軽く超えてゆく者たち。


 才能の壁。


 それは薄氷のように薄く、ガラスのように透き通り、壁の向こうの存在がはっきりと見える。手を延ばせば届きそうなほど近く、壊せると思い込み何度も何度もぶつかってみる。


 やがて気付くのだ。その壁は絶対な強さを持ち、才の無い者を無情に弾き返す事に。そして、壁の向こうの背中に、この手が届く事は永久に無いのだと。


 ミリアムはあの時、あなたにはわからない、と言った。


「わかるさ。ミリアム……俺も同じだから……」


 わかるからこそ、かける言葉が見つからなかった。


 傷つけるつもりは無かった。一緒に喜んでくれると思ったのは、シリューの都合のいい我儘だった。


 ミリアムは多分、相当な努力をして今そこにいる。


 それをあっさり、事もなげに超えられたら……。


「同じ……だよ……」


 絶対に諦めない、諦めたくないと誓う心。才能を自覚して、正直に負けを認める心。相反する二つの思いに揺れ、諦めずに足掻くと決めたからこそ、苦しみ続ける。


「俺も……同じなんだ……」


 なのにあの時、気づいてやる事が出来なかった。


 幸運にも手に入れた力をごく普通に使ううち、それを当たり前のように感じて、他者に対して傲慢になっていたのかもしれない。


「ごめんな、ミリアム……」


 明かりを消した部屋の窓から、夜空に瞬く星を眺め呟いたシリューのその言葉は、何に対しての謝罪だったのか。






 次の朝。


 朝食をとるために食堂へと降りてきたミリアムは、寮母のコニーからきれいに畳んだメモを受け取った。


 シリューは朝早くに神殿の寮を訪ね、コニーにミリアム宛のメモを預けていた。会っていかないのかと尋ねたコニーに、シリューはただ頷いただけで早々に立ち去ったらしい。


「顔……見たくなかったんだ……」


 昨日の今日では顔を合わせづらい。そう思いメモを開いたミリアムは、ふらふらと椅子にへたり込んでしまう。


 メモには短く『今日から1人でやる、神殿から離れるな』、とだけ書いてあった。


 その文字にはもう何の感情も読み取れず、冷たく突きつけられた現実に、ミリアムはただ声を震わせて泣くことしか出来なかった。


 コニーがそっと肩に手をおいてかけた慰めの言葉にも、ミリアムはいやいやをする子供のように、首を振るだけだった。


 当然だが、シリューにはミリアムを傷つけるつもりなど毛頭無かった。


 暗殺者がシリューを狙ってきた事を考えれば、次に狙われるのはミリアムかもしれない。神殿にいれば外よりは安全だろうし、カルヴァートを敵に回すにしても、シリューとの接点が薄ければ、ミリアムは教団が守ってくれるだろうという目算があった。その為にミリアムをこれ以上係わらせず、自分1人でケリを付ける。


「ご主人様、ヒスイも一緒なの、です」


「ああ、そうだね。よろしく頼むよ」


 そういう意味では、昨日の件はいいタイミングだったのかもしれない。普通に説明してもミリアムは納得しなかっただろうし、あのままずるずるいけば、結局彼女の社会的な地位と命を、危険に晒す羽目になっていただろう。それは、カルヴァートや勇者との問題だけではない。


 シリューが最も恐れているのは、自分自身の存在だ。


 ギフト『生々流転』、消えてしまった『覚醒』。


 正体不明の『メビウス』、そして……『魔神』。


 ミリアムの傍にいて、同じ物を見て、同じ空気を吸って、忘れそうになっていた事実。だが現実にそれはそこにあり、なにも解決はしていない。


「……これで、良かったんだ……」


 シリューは、心を縫い止めようとする糸を無理やりに引きちぎった。


 ただその細い糸は、切れても切れても元に戻り、けっしてシリューを離してはくれなかった。


 その糸の名は未練……だがそれは、希望でもあった……。






 その後、シリューはかなりの距離をとり、一日中望遠テレスコープモードでカルヴァートの城を監視した。


 相手を誘い出す必要のあった前回と違い、今度は相手の出方を窺う為だったが、その日は何の収穫も得られなかった。


 冒険者ギルドからの情報によると、カルヴァート伯爵はこの2週間、街に帰っていないらしい。


 夕暮れ、もう帰ろうかという時になってからだ。


「あれ? まてよ、そういえば……」


 ある記憶がふとシリューの脳裏に甦った。


 人造魔石の欠片を取り込んだ魔獣と戦ったあの日。


 翔駆で一旦街の外に出たシリューは、さりげなく北門をくぐった。その時、丁度街を出ようとした馬車に道を譲ったのだが、その馬車の扉に付いていた小さな紋章。


 人の顔や名前を覚えるのが苦手なシリューだったが、状況や気になった事は意外と良く覚えているほうだった。


「あれって、カルヴァート家の紋章……」


 城に掲げられている旗の紋章と同じもので間違いない。


「って事は……あの時の戦いを見てたって事か……」


 そしてその戦いの後、すぐに城へと引き返した。それがあの重なった車輪跡の意味だ。


「なぜ、そんなに急いで戻った? あの戦いを見たから? じゃあなぜ戻る必要があったんだ……?」


 そこには何らかの意図があった筈だ。


「城……研究施設。誘拐された人たち……人造魔石……魔人、魔獣……ん?」


 何かがシリューの思考に触れた。それは水の中、静かに揺らめくルアーをついばむ魚のあたりに似た、僅かな、それでいて確かな生きた感覚。


「まてよ、もしかして……」


 翌日、レグノスの朝は大いなる混乱とともに始まる。


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