【第109話】二人……

 開け放ったドアの前で、ミリアムは身じろぎもせずに、その光を見つめていた。


「シリュー、さん……」


 それは、見紛うことの無い治癒魔法の光。だが、ヒールにしては光が強すぎる。上位のキュアかそれ以上だ。


「ミリアムっ」


 声に気付き、シリューはドアの前に佇むミリアムを振り返った。


「ありがとうっ、なんとかヒール使えるようになったよ」


 何の臆面もなく笑うシリューには、もちろん悪気などある筈も無い。それはミリアムにもわかる、わかってはいる。が、心の中に湧き上がった感情を抑えきれない。それはもう、もやもやとしたものではなく、はっきりと胸に突き刺さり、残酷に心をかき乱す。


「使えるように、なった……?」


「ああ、ホントお前のアドバイスのお陰……? どうした?」


 俯いたミリアムからは、笑顔だけでなく、温もりのある表情さえ消えていた。


「……なんで……なんで、そんな嘘をつくんですか?」


 震えるミリアムの声は、何処までも冷たく静かに響いた。


「え? 嘘?」


 シリューには、ミリアムの言葉の意味が分からない。


「治癒魔法は、習得が難しいんです……それこそ、何か月も努力して……それでも覚えられない人もいるくらいに……」


 ミリアムは俯いたまま拳を堅く握りしめ、わなわなと肩を震わせる。


「ああ、お前の教え方が良かったんだ……」


「ふざけないで……」


「え?」


 シリューは、ミリアムの口から発せられた、明らかな拒絶の言葉に耳を疑った。


「使えるようになった? たった一日で? ふざけないでよ、そんな訳ないじゃない……最初から使えたんでしょう? 何のつもりですか?」


 1つの言葉がきっかけになり、更に感情を煽る。ミリアムには自分の言葉が、自分の耳に届いていなかった。


「ちょっとまってミリアム、俺は……」


「からかってるんですか? 私みたいな馬鹿な女の子をからかって、楽しいですか? たしかに、は天才ですよ、勇者に並ぶくらいね……でも、でも、私だって、私だって……たくさん努力して……いっぱい泣いて……」


 最初はごく小さな点だったように思う。異性として魅かれていく心の中に、少しずつ、ほんの少しずつその点が存在を主張するようになった。弾けてしまったその点は、今ミリアムの心をどうしようもない程に掻きむしり、醜く乱す。


「ミリアム、勘違いしてる、俺は本当に……」


 シリューは立ち上がり、ミリアムの肩にそっと手を添える。


「馬鹿にしないで……馬鹿にしないでよ!」


 だが、ミリアムはその手を激しく振り払う。


「なあ、ミリアム、聞いてくれ……」


「もういいです」


 ミリアムは、いっさいシリューと目を合わせようとしない。


「え……?」


「私……あなたに嫌われたくはないです……ここにいたら私、もっと嫌な娘になって、きっとあなたに嫌われる……。だからっ、もう、帰ります……お洋服の代金は、ちゃんと働いて返しますから」


 ミリアムの声は、今まで聞いた事が無いくらいに冷たく、乾ききっていた。


「そ、そうか……じゃあ、送って……」


「必要、ないです」


 これ以上ないほどの拒否を示し、背を向けたミリアムにシリューは戸惑う。


「ミリアム……俺は別に、お前を怒らせるつもりじゃ……」


 ミリアムは2歩3歩、歩いて立ち止まり、俯いたまま顔だけをシリューに向けた。


「あなたには……わからないのよ……」


 そしてもう、振り向く事も、立ち止まる事もせずに、部屋を出て行った。


「追い掛けなくて、いいのです?」


 いつの間にか目を覚ましたヒスイが、立ち竦むシリューの肩に降りたって、開け放したままのドアの向こうを見つめた。


「うん、何か、怒らせちゃって……」


「ミリちゃんは怒ってるわけじゃないの、です」


「え……?」


 ヒスイは肩から飛び立ち、シリューの顔の前に舞う。


「ご主人様。ニンゲンの心は複雑で難しいの、です。ちゃんと考えてあげてほしいの、です」


 しっかりと、子供を諭すような表情を浮かべたヒスイの言葉は、シリューの胸に何処までも優しく響いた。


には、分からない……か」


 シリューはミリアムが最後に呟いた言葉を、目を閉じて思い返した。


「そうだねヒスイ、ちゃんと考えてみるよ。でも、その前に……」


 昨日の今日で敵も何を仕掛けてくるかわからない。ミリアムを狙ってくる事も十分考えられる。とりあえずミリアムが何と言おうと、神殿まで無事に送りとどけるのが最優先だ。


「行こう、ヒスイ」


「はい、です」


 部屋を出て階段に向かうシリューのポケットに、ヒスイはふわりと飛び込んだ。






 あんな事を言うつもりじゃなかった……。


 宿を飛び出したミリアムの胸には、掴みどころのない不快感と、刺すような後悔の念がごちゃ混ぜに混ざり、自分ではどうする事も出来ないくらい苛苛が募っていた。


たった一言の非難の言葉をきっかけに、醜い感情が濁流のようにミリアムの心を押し流した。


「なんで……あんな嘘を……嘘なの……?」


 嘘だと思いたかったのかもしれない。1日のうちに治癒魔法を修得するなど、納得できるものではない。納得できない。


 シリューの才能が、自分のそれを遥かに上回っている事ぐらい、分かっていた筈だった。


 自分ではどんなに努力しても勝てない、それが分かってしまって、でも認めたくなくて。


 凄いと思った。羨ましいと思った。同時に悔しいと思った。追い付けない。届かない。それだけの高みに、あの人はいる。そして、そんな事を思った自分が惨めだった。


 ミリアムは溢れそうになる涙を堪えた。今泣いたら、もう戻れなくなるような気がして。


「私は、なんて言って欲しかったのかな……」


 努力が届かない相手。その相手にどんな言葉をかけてもらいたかったのか。


 いつの間にか神殿の正門を潜り前庭を抜けたミリアムは、寮母のコニーが心配そうに挨拶した事にも気付かず、そのまま自分の部屋に入っていく。


「もう……嫌われちゃったよね……嫌われ、ちゃった……」


 ミリアムは、ベッドに身を投げ出し、枕に顔を埋めて泣いた。






「もう迷わなかった、な……」


 少し離れて、ずっと後ろをついて歩いていたシリューは、ミリアムが一度も迷う事なく神殿に入って行くのを確認して、そっと呟いた。


「ご主人様、声をかけなくて良かったのです?」


 途中何度も声をかけようかと悩んだシリューだったが、ミリアムの泣いているとも、怒っているとも思える背中を見て、結局その機会を逃してしまった。


 そもそも、何と言ってやればいいのか見当もつかなかったが。


「……ああ、良かったんだ、多分、これで……」


 これからすぐにでもカルヴァートとの戦いが始まるだろう。いやもう始まっている。


 相手が貴族で領主である以上、たとえ勝っても無事に済むかどうかはわからない。


 だが、ここで投げ出すわけにもいかない。半分は意地だがもう半分は……。


そしてそれ以上に気になる勇者たちの動向。


 自分が生きていると知れた場合、彼らはどう動くのか。今のところさしたる情報も無い。受け入れてくれる、見逃してくれると思うのは、楽観的でナイーブ過ぎるのではないだろうか。最も考えたくないのは、彼らと闘う事になった場合だ。


 最悪、この国を逃げ出す事も考えなくてはならないだろう。そうなった時、自分の事はどうとでもなる。元々何も持っていなかったのだ。


 だが、ミリアムは違う。この世界で生まれて、これからもこの世界で生きて、そして幸せになる。彼女にはそうあってほしいと、心から思う。


 ならばこれ以上は、巻き込まない方がいいに決まっている。


「ヒスイ、これからは2人だけでやるよ」


 ヒスイはポケットの中からシリューを見上げた。


「はい、です。ヒスイは何処までもお供するの、です」


 既に、日常は終わりつつあった。


 シリューにとっても。


 ミリアムにとっても。

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