【第108話】魔法
「それじゃあ、一度使ってみせますね。よく見てて下さい」
ミリアムは、アローチェの葉にナイフで小さな傷をつけ、手をかざして治癒魔法の呪文を詠唱する。
「生命の輝きよ、かの者の傷を癒したまえ、ヒールっ」
ミリアムの手から発せられた、淡く柔らかな光がアローチェを包み、今つけたばかりの傷を元通りに塞いでゆく。
何度見ても、どこか神秘的な光景にシリューはため息を零した。勿論それは、アローチェの傷が治った事に対してだけではない。
いつだったか、ころんだ子供の怪我を癒して微笑んだミリアムの姿。今もその姿は慈しみの光に溢れ神々しく輝いて、シリューはその美しさに心を奪われるように見とれてしまった。
「……すごいな……やっぱり……すごい」
シリューの口から、心から感嘆の声が漏れる。
「……いえ、私は……」
そのあと何と言おうとしたのか。ミリアムは無意識のうちに発せられようとした言葉を、口の中で噛み潰した。
「あの、シリューさん。これも言いづらい事なんですけど、治癒魔法は聖系の親和性があっても、修得に時間が掛かります。普通は1年くらい、早い人で半年です……」
ミリアムはざらつく心に戸惑いながらも、魔法の説明を続けた。
「お前は? かなり早かったんだろ?」
「は、はい。2ヶ月、です」
ミリアムは遠慮がちに答えたが、それは神教会でも過去に例をみない早さだった。勇者の血を引くという聖女を除けば、おそらく史上最短。普段はポンコツ具合が顕著なミリアムだが、自他共に認める天才であるのは紛うことの無い事実だった。
「では、どうぞ」
ミリアムは、にこやかに手を向ける。
「はい?」
シリューは意味が分からず、ミリアムを見つめ返す。
「ん?」
それに対して、ちょこんっ、と首を傾げるミリアム。
まったく埒が明かない。
「ええと、ミリアムさん。俺はどうしたらいいんでしょう?」
「ええっ!? もお、シリューさんっ、魔力の錬成ですよぉ。魔法習得の基本じゃないですか、やだなぁ」
ミリアムは、シリューの冗談に手をぱたぱたと振った。そう、本気であるはずがない、と。
「あ、ああ、魔力の錬成ね」
「はいっ」
ミリアムは、こくこくと頷く。
「で、どうやるの?」
「ふぇ?」
「俺、魔力無いんだけど」
暫しの沈黙。2人とも顔を見合わせ、朗らかに笑っている。
いつまでたっても動く気配のないシリューに、やがてミリアムはしびれを切らし真顔にもどる。
「や、シリューさん……ボケは要らないです」
「うん、知ってる、ボケてないから」
再び沈黙。静寂を破ったのはミリアムの叫び声。
「えええええええ!!!」
「声でかい」
「いや、まってまってっ。シリューさん、魔法使ってましたよっ! それなのに魔力が無いっておかしいですっ。アホの子ですかっ」
「最後は余計だな」
大きなアーモンドの瞳を更に大きく見開いたミリアムの脳裏に、あの洞窟で見せたシリューの戦いが蘇る。あの時シリューは、無詠唱で魔法を発動していた。しかも3系統を同時に。
「もしかしてシリューさん、特殊な性癖が……?」
「無いわそんなもん。なんだ特殊な性癖って。それを言うなら体質とか技能とかだろ、って聞けよっ」
ミリアムは、ツッコミを無視してシリューの胸に両手を添え目を閉じる。
「魔力の流れを見てみます。魔法、使ってみてください」
「え? あ、ああ……。ヒスイ、離れてて」
ヒスイが、肩から飛び立ちソファーのひじ掛けに降りる。
だが、返事はしてみたものの、ここで攻撃魔法を使う訳にもいかない。思いついたのは一つ。
「セイクリッド・リュミエール!」
部屋の中に、銀の光が満ちる。
「あっ……」
瞼を閉じていても感じるその眩さに、ミリアムはおののき喘ぐ様に息を漏らす。
「何か分かった?」
「……はい、いえ……」
煮え切らない返事だったが、実はミリアムにもよく分からなかったのだ。
「ごめんなさい、よく分かりません……。はじめは確かに、シリューさんの中に魔力を感じることが出来ませんでした。でも魔法を発動したと同時に大量の魔力が流れ込んで、一気に放出されたような感じでした……」
あり得ない……。魔法発動のシークエンスをまったく無視している。魔力の錬成も無く、呪文による術式の形成も無い。
「シリューさん、どうやって魔法を発動してるんですか?」
ミリアムは眉をひそめてシリューを見つめた。
根本的に何かが違っている気がする。
「ええと、そうだなぁ……イメージ? 金属の弾丸とか、鏃が飛んで行く、みたいな?」
そう答えたシリューにも、実はよく分かっていなかった。ただ、一番近い言葉で言えば、『思考を直接具現化する』だろうか。
しばらくうんうんと唸っていたミリアムが、不意に目を開き納得したように大きく頷いた。
「……分かりました、シリューさんはおそらく変態です」
「うん、なんでそんな結論に至った? てか何そのドヤ顔」
「あ、性的な意味ではないです」
「お前さっき特殊な性癖とか言ってたろ。てかいつまで続くのこれ? まだツッコまなきゃダメか?」
ミリアムの言う性的な変態には興味をそそられるが、このままでは話が進みそうにない。
「魔力や魔法の生成過程において、その形状や形態が変質する現象の事です。理論上のものと教わりましたけど、多分メタモールファシス……」
意外にも真面目な話だった。
「メタモールファシス……昆虫や甲殻類の?」
シリューは、目を見開いて呟いた。
ミリアムの口から、そんな難しい用語が出てきたのは驚きだったが、何となく思い当たる出来事がある。
龍脈からの復活。
あの時、体内の何かが変質したのは確かだ。
「とにかく、通常の訓練で治癒魔法を習得するのは無理っぽいです。私に指教出来るか分かりませんけど、シリューさんに合った方法を考えましょう?」
「な、何か、お前がホントの先生に見えてきた」
射貫くような視線で笑みを浮かべるミリアムに、シリューは思わずしり込みする。
「じゃあ、やってみましょうか」
ミリアムはアローチェの葉に、さっきよりも小さく薄い傷を付けた。
「呪文、詠唱した方がいいのかな?」
「いえ、呪文は正確な術式を理解していないと意味はありません。いつもの通りでいいと思います」
首を振るミリアムに、シリューは小さく頷いた。
「じゃあ……」
アローチェの葉に向けて手をかざす。目を閉じて、頭の中にイメージを創る。ミリアムが見せた淡く柔らかな光。
「ヒール」
だがやはり、何も起きない。これまで何度も試してきたが、どんなに強くイメージしても発動する事はなかった。
「……だめ、か……」
肩を落とすシリューに、ミリアムが慰めるように笑顔を向ける。
「すぐには無理ですよ、これからじっくり、時間をかけて覚えればいいんです。シリューさんなら、ひょっとして私なんかよりずっと早く覚えられるかもです」
ミリアムは、ほんの軽い気持ちでそう言った。軽くても、本気で言った事に変わりはない。ただしそれは、シリューに向けたものだったのかどうか、随分と曖昧な感覚だった。
もしかすると、それは自分に対しての言葉なのかもしれない。シリューが存外に早く習得しても、傷つかないで済む為にかけた保険のように。
そしてその試みが、けっして自らの心を守る盾になり得ない事を、ミリアムは思い知るのだった。
1階の食事処で一緒に昼食をとり、午後からも熱心にミリアムのアドバイスに耳を傾けていたシリューだったが、魔力の反応すら起こす事が出来ずにいた。
「……なんかさっぱりだなぁ……」
「シリューさん、少し休憩しましょう? 下でお茶を頂いてきますね」
見かねたミリアムは、紅茶を貰いに1階へと降りて行った。
退屈さに飽きたのか、ヒスイはベッドの枕の上ですやすやと寝息をたてている。
「魔力の錬成……自然治癒力か……何か間違ってるのかな?」
他の魔法は、発動の過程からを見ただけで覚える事が出来た。
パティにエマーシュ、そしてミリアムと、3人の魔法を目にして、その淡い光のイメージは完全に出来上がっている。にもかかわらず、治癒魔法だけが覚えられない、覚えられる気がしない。
これは、何か根本が間違っているのではないか。
「だいたい自然治癒力ってなんだ……?」
シリューは答えを探すかのように天井を仰ぎ見る。
「治癒……ん? まてよ……」
一般的な受傷から治癒までの過程。
出血による凝固塊が欠損を塞ぐ止血期。好中球、単球、マクロファージが傷に遊走し、壊死組織などを攻める炎症期。それから線維芽細胞が遊走し細胞外マトリックスを再構築、血管新生と肉芽組織が形成される増殖期。最後に表皮細胞が遊走して創が収縮・閉鎖される再構築期。
「って事は、そうか……他の魔法みたいに、光とか大きさとか強さとか、そんなイメージじゃダメなんだ」
シリューはもう一度アローチェの傷に手をかざす。
「イメージは……」
細胞の活性化と再生。要するに、傷が徐々に塞がっていくイメージ。
すると、シリューの手に淡い光が集束して、蝋燭大の大きさになる。
「いくぞっ今度こそっ、ヒールっ!」
蝋燭のように儚かった光が一気に爆ぜ、アローチェどころか部屋全体を包むほどに広がる。
「……出来た……」
光が消えた後、アローチェの傷も綺麗に消えていた。
「シリューさん、紅茶はすぐにロランさんが持ってきて……」
ドアを開けたミリアムは、その光景を目の当たりにして息を呑んだ。
「し、シリュー、さん……」
【治癒魔法ヒールを習得しました】
セクレタリーインターフェイスが、シリューの視界に新たな魔法の習得を表示した。
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