【第99話】ちょっと平穏
入院から2回目の朝。診察を受けたミリアムは、検診衣からいつもの法衣へ着替え、今まで寝ていたベッドのシーツを整えていた。
昨夜からは食欲も戻り、頭痛も消え自分で歩けるまでになった。
入院当日を含めて2日、思っていたより早く退院出来る事に、ミリアム自身も驚いていた。普通、あれほど酷い魔力酔いだと、回復に4~5日は掛かるものなのだ。
ミリアムはふと顔を上げ、自分の右手を見つめた。
あの夜、シリューが両手で包んでくれた手。
“ お前が眠るまでこうしとくから ”
そう言ってくれたシリューは、本当に言葉通り静かに手を握ってくれていた。ミリアムはいつの間にか眠ってしまったが、それまで酷かった頭痛や吐き気が、随分と楽になったのは気のせいではない。
「……シリューさん……」
手を胸にあてて、もう一つの出来事を思い返す。
頬を染め照れながらも、真っ直ぐに見つめ返して可愛い、と言ってくれた。
「うふっ……」
その時のシリューの顔が浮かび嬉しさが甦って、ミリアムは思わず頬を緩める。
「何1人で笑ってるんだ?」
その時、こんこんっとドアをノックする音とシリューの声が、背後から同時に聞こえた。
「ひゃいっ!? し、シリューさんっ? ちょっ、ノックくらいしてくださいっっ」
振り向いたミリアムは、真っ赤な顔で入口に立つシリューに抗議した。
「いや、ドア開けっ放しだし。一応ノックしたろ」
そうだった。着替えも済み、後片付けの為に窓とドアを開け放っていたのを、ミリアムはすっかり忘れていた。と、言うより、こんな時間にシリューが来てくれるとは思っていなかったのだ。
「あの、こんなに早い時間に……どうしたんですか?」
「ん、昨日ヒスイが言ってたろ? 今日退院になるなら、手伝う事もあるかなって思ったんだけど……。でも、女の子の退院の手伝いって、ちょっと考え無しだったな……」
シリューはすまなそうに顔を背けて、ぽりぽりと頭を掻いた。
「そ、そんなことありませんっ。あの、嬉しいですっ」
ただ、実際に手伝うような事は殆どないのが事実だ。入院と言ってもほんの2日程度、荷物もなければ片付けるような物もない。それこそ、ベッドのシーツを畳んで整える程度だ。
「じゃ、まずは何か食べて、それから調査の続き、かな?」
「はいっ。あ、でも……その……」
ミリアムはもじもじと脚を擦り合わせ、身をよじる。
「ちょっとその前に、寮に寄っていいですか?」
「ん? ああ、別にいいよ。じゃあ行こうか」
特に意識することなく傍に歩み寄ろうとしたシリューを、ミリアムは引きつった笑顔でするりと躱し距離をとる。
「……?」
いつもなら横に並ぼうとするミリアムのその行動に、シリューは首を傾げた。
「あ、あのっ、1人で大丈夫ですっ。ちょっと時間かかっちゃうんですけど……」
ミリアムは後ろで手を組み、シリューが一歩近づく度につつつっと三歩下がる。何か不自然だったが、今回は何となくシリューにも察する事が出来た。ミリアムは丸二日ここに寝ていた訳で、その間はおそらく……。
「あ、ああ、大丈夫。そうだな、1、いや2時間後かな? また迎えに来るから、ゆっくり風呂に入って、着替えてくるといい」
察するまでは良かったが、シリューには若干デリカシーが欠けていた。
「……やっぱり……匂いますか……」
ミリアムは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯き、右手で襟元をぎゅっと掴み、左手でピンクの髪を押さえる。
「あ、ああっいやっ、そうじゃなくって、ほらっっ……2日も寝てたんだから、リフレッシュしたいだろうなって、だ、だから、そのっ」
あまり、フォローになってはいなかった。
「……もうやだぁ……ばか……」
「ご、ごめんっ。あの、じゃあ後で、神殿の前庭で待ってるからっ」
シリューは逃げるように病室から飛び出した。
目の前に置かれた白い皿。その皿を彩るのは、黄金に焼き色の付いたぷっくり厚みのあるふわふわのパンケーキ。雪のように振られた粉糖にホワイトチョコのソース。皿の端には白いホイップクリームと、鮮やかな苺の赤い色が絶妙なバランスでアクセントを添える。
交易の中継点としてにぎわうレグノスの街で、最も格調高いカフェ『リンデンバオム』。その2階にあるオープンテラスの席で、ミリアムは緊張に顔を引きつらせながら、運ばれてきたそのパンケーキを見入った。
庶民の、しかも孤児だった自分とは縁が無いと思っていた店の席に、今シリューと一緒に座っている。
「あ、あのっ、シリューさんっ。ホントに、いいんですか? ここ、相当高いんじゃ……」
恐らくミリアムの給料では、紅茶一杯でも相当奮発しなければならないだろう。
「別に、金の事なら気にしなくていいよ。ま、さっきのお詫びだ、遠慮するな」
「は、はいっ、じゃあ、いただきますぅ」
ミリアムはちょこんっと頭を下げた後、切り分けたパンケーキの欠片を口に運んだ。
「……お、い、し、い、ですっ!」
ナイフとフォークをもった両手を頬にあてて、ミリアムは肩を竦め幸せそうに目を閉じる。
その様子にシリューはふっと口元を緩め、自分の皿から少し大きめの一切れを頬張る。
「あ、ホントだ、甘さ控えめで美味しい」
治療院での騒動の後シリューは一旦宿に戻り、ロランにこの店の事を教えてもらった。ミリアムの嬉しそうな表情を見ると、やはりここに連れてきて正解だったようだ。
ただ、当然ではあるが、ここにデートをする為に来た訳ではない。もっぱらの会話は、これまでの調査の結果と今後の方針についてと、パンケーキのように甘いものではなかった。
「シリューさん……毎度思うんですけど、どうしてそんな事が……」
処刑の数日前、何者かが拘置所に侵入しランドルフに人工魔石を埋め込んだ……。
一通りの経緯を説明し終えると、ミリアムは目を見開いてシリューに尋ねた。
「まあ、そのうち説明するよ。それで、問題はそいつがどこからやって来たのか、なんだ。街の中か外か……」
事件の黒幕の目的が実験にあるのなら、魔石は製造場所から当日持ち出されたのではないか。それがシリューの推理だった。
人を魔人化してしまうような危険な物を、何日も前から持ち出して、他の場所に保管しておくのはリスクが高すぎる。
「夜中、ですよねぇ……街の外からは入れないと思いますけど……」
「え? 何で?」
ミリアムが特に考えもせずにそう答えた事に、シリューは驚きを隠せなかった。
「街の城壁には、魔法による結界がドーム状に張ってあるんです。魔物の侵入を防ぐ為の強力なもので、勿論、人も入れません、あ、出るのも無理です。それに夜間は、城門からの出入りも制限されますから」
「……ん? でも……」
ミリアムを神殿に送りとどけた後、シリューは翔駆で城壁を越えた。
「あれ……? そういえばあの白い人、普通に空から出て行っちゃいましたねぇ」
何か城壁を越える条件があるのだろうか。
【城壁に張られた結界は、魔力に反応します。よって無機物以外の物はこれを越える事は出来ません】
即座にセクレタリー・インターフェイスが反応した。
「って事は……」
元から魔力の無いシリューには、反応しないという事だ。
ミリアムはまだああでもないこうでもない、と首を捻っている。
「その白いやつは考えなくていい、無視しろ」
「え? はあ、そうですか……」
よく分からなかったが、考えても答えは出そうになかったので、ミリアムは素直にシリューの指示に従った。
「……外からは無理って事なら、この街の中に製造した場所があるのか……」
勿論可能性はあるだろうが、どうもしっくりこない。
「あ、でも自由に入れる人もいますよ?」
ミリアムが人差し指を立てて、ちょこんと首を傾げる。
「自由に?」
「はい、領主のカルヴァート様です。ああっもしかして、あの方が!? ってあれ? あの白い人も自由に出入りできますねぇ……え? ってことは、白い人がカルヴァート様? もしかしてっ私っいきなり核心ついちゃいました!?」
ミリアムはじっと見つめる、シリューの生温かい視線に気づく。
「お前さ……」
「はい?」
「相変わらず……ポンコツだな……」
シリューの顔から笑みが消え、憐れみを帯びた表情に変わる。
「あああ、やめて、そんな、かわいそうな小動物を見るような目でみないでくださぁいぃぃ」
ミリアムはシリューの視線を遮ろうと、両手をシリューに向かってあげ顔を背ける。
「まあ、とにかく、お前は余計な事考えるな。収拾つかなくなるから。さ、行くぞ」
シリューは大きなため息を零し、冷静に言い放って席を立つ。
「シリューさん……いけずですぅ」
ミリアムも立上り、置いて行かれまいとシリューのあとを追う。
2人が店を出た丁度その時。
何かが激しくぶつかる音と、朝の平穏を引き裂く、けたたましい叫び声が街に響いた。
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