第65話 たすけて! シリューさん!!

「ご主人さまぁぁっ」


 すっかり暗闇に染まった空に、光の残影をなびかせてヒスイが戻って来た。


「良かった、無事だったね」


 ヒスイの姿を目にして、シリューはようやく胸を撫でおろした。


「で、どんな様子だった? その、ミリアムは……」


 出来るだけ冷静に、と思っていたが、はやる気持ちを抑えきれなかった。


「言葉で説明は難しいの。ヒスイが見たものをご主人様にも見せるの、です」


「え?」


 ヒスイの羽が虹色に輝く。幻惑の一種だろうか。


「目を閉じて、ご主人様」


 言われた通りシリューが目を閉じると、ヒスイは右手をシリューの額にかざした。


「わっ」


 ピクシーの持つ幻惑の能力の一つ、印象共有イメージシェア


 ヒスイの見たものを、映像として任意の他者と共有する。


 まるで今自分が見ているかのように、洞窟の様子がシリューの瞼に映し出される。


 高い天井、ぶら下がった縄梯子。松明の炎に壁に掛かったランプの明かり。石組みのかまどに煮立った鍋。


 ナディアを襲った見覚えのある男達と、クロエの姿。


 そして、ロープに繋がれ、ぐったりとした様子の……。


「み、ミリアム……」


 シリューは言葉を詰まらせた。


 少しだけ幼さの残る美しい顔は無残にも晴れ上がり、赤黒い痣がいくつも目につく。口元と鼻には乾いてこびり付いた血の跡。


 ふと、顔を上げたミリアムと映像の中で目が合う。そして、ミリアムはこちらに気付いたようにそっと微笑んだ。いや、はっきりとは分からなかったが、微笑んだ気がした。


「ミリアム……」


 腹の底から、今まで経験したことが無い激しい怒りが込み上げてくる。どろりと淀んだ空気に喉が焼けるようで、感情を抑えきれない。


「皆殺しにしてやる……」


 拳を強く握りしめシリューは唸るように呟く。


 地の底から響く様な声に、ヒスイが慌ててシリューの眼前に飛んだ。


「ご主人様っ、落ち着いてなの! ご主人様とっても怖い顔なのっ。怒ってもいいけど、それはダメなの、ですっ!!」


 ヒスイの必死な様子に、シリューははっと我に返る。


「……何だ、今の……」


 怒りは収まらない。だが、さっきのような抑えきれないものではない。


 まるで、別の何かが自分の中に生まれてくるような感覚。心がその何かに支配される錯覚。


多分印象共有イメージシェアのせいなのっ、ヒスイのせいなのっ、ご主人様ごめんなさい!」


 ヒスイは大粒の涙を零し、何度も頭を下げる。


「印象共有の……」


 だが、それだけでは無い気がした。それは只のきっかけに過ぎないような……。


「ヒスイ、もう大丈夫落ち着いたよ、ありがとう」


 シリューは笑顔を浮かべ、ヒスイの頭を指で優しく撫でた。両手で涙を拭いヒスイはこくこくと頷く。


「……冷静に考えてみれば、そうだな……」


 奴らに闘って死ぬ栄誉など与えてやる必要はない。


 もっと屈辱的に、もっと恥辱的に、衆人環視の元で惨めに処刑されるべきだ。


 もしくは自由を奪い、犯罪奴隷として死ぬまで過酷な労働に従事させる。


 それが奴らにはお似合いの末路だ。


「ヒスイ、少し早いけど、始末をつけよう」


 ヒスイはいつものようにシリューのポケットに収まる。


「無事に助け出すよ、子供たちも……ミリアムも」


「はいっ、です!」


 シリューは真っ暗な空へ、翔駆を使い駆けあがった。






 近づいてくる悪意に気付き、ミリアムはそっと顔を上げた。


「なあ、ホントにいいのかディエゴ」


 3人並んだ右端の、金髪を短く刈り上げた男が、真ん中を歩く髭の男に言った。


 ディエゴと呼ばれたのは、クロエやカミロと共にレグノスの街に潜み、誘拐を担当していた髭面のがっしりした体躯の男だ。


「ああ。お頭も怪我をさせるなと言っただけだ。適当に楽しむ分には構わねえってな。それにザルツさんの許しも貰ってる」


 ディエゴが振り向くと、少し離れた位置を歩きながらザルツがにやりと笑った。


「けど、ザルツの兄貴は、いいんですかい?」


 右側を歩く、茶色の髪を後ろで束ねた男は訝しげな表情で尋ねた。


「ああ、構わねえさ。俺は見て楽しませてもらう」


「見てるのが楽しいだなんて、おかしな趣味ね」


 ザルツの隣でクロエが笑う。


「お前だってそうだろう?」


「私は、あの娘がぐちゃぐちゃにされるのを見たいのよ」


「相変わらずだな、お前も」


 ザルツが呆れたように肩を竦めた。


 ……ああ、やっぱり……。


 男たちとクロエの会話は、しっかりとミリアムの耳に入ってきた。


 こうなる事は、捕まった時に予想はしていたし、覚悟もしていた。


「いつまでそんな澄ました顔でいられるかしら?」


 ミリアムは動揺と心の不安を悟られないよう、出来るだけ平静を装い落着き払った声でクロエに返した。


「……そんな事で、私は折れたりしませんよ」


 ミリアムにはささやかな夢があった。


「そう? 何人目までもつかしらね? ほらガキども、しっかり見ときなさい」


“ 力なき人々や、親を亡くした子供たちのために、自分が生まれながらに授かった力を使おう。 ”


「おい、足を押さえろ……」


 ディエゴが両脇の男たちに指示する。


「ああ、任せとけ」


“ そんな人たちがいつも笑顔でいられるように、全力で頑張ろう…… ”


 男達がミリアムの足首を掴み、大きく左右に広げる。


「……っ」


 声が漏れそうになるのを必死で抑える。


「あら、思ったよりもちそうにないけど?」


“ そしていつか、本当に愛した人と…… ”


 ミリアムの心に浮かんだ、1人の少年。


 ぶっきらぼうで意地悪で、でも本当は優しくて。年下のくせに生意気で、だけどとてもかわいい男の子。


「動かねえようにしっかり押さえてろよ」


 ディエゴが、無残なくらいに開かれたミリアムの両足の間にしゃがみ込む。


「ふっ……」


 ミリアムは全身に力を籠めようとして歯を食いしばり、だが逆に弱弱しい息が零れてしまう。


 穢されてしまった自分を、シリューはどんな目で見るのだろう。


 それとも見てくれないのだろうか。


 心臓が今にも飛び出しそうなほど早鐘を打ち、激しいめまいを感じるくらいに視覚と思考が混乱する。


「こいつは邪魔だよなあ」


 ディエゴの手が、ミリアムのスカートの裾を掴みゆっくりとずらしてゆく。


「いっ……」


 子供たちの見ている前で……。


 ミリアムの中で、何かか弾けた。


「い……や、だ……」


 押しとどめていた感情が、堰を切ってあふれ出す。


 嫌だ。嫌だ。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだっ。


 なぜこんな所で。なぜこんな男たちにっ。


「いやああああああ! 助けてっ!! たすけてっっっ、シリューさんっ!!!」


 ミリアムは激しく首をふり、大声で叫んだ。


 それが、クロエの思惑通りだったとしても、もう取り繕う余裕は無かった。


「あははは、意外ともろかったわね。でも残念、幾ら呼んでもあのガキは……」


 その時、一瞬世界から音が消える。


 その場にいた全員がそう感じた。


 刹那。


 空気を震わせる轟音と共に、ミリアムを取り押さえていた男たちが吹き飛ぶ。


「は?」


 クロエにも、ザルツにも、吹き飛ばされた男達にも、そして、捕らわれた子供たちにも、何が起きたのか理解出来なかった。


 理解出来ていたのは、この場でたった1人。


 涙で滲んだミリアムの瞳に揺れて映る。それは……。


 それは、ミリアムのささやかな夢を守る、圧倒的な力。


 穢す事を決して許さない、絶対的な意志。


 そしてそっと、限りなく優しい声が囁く。


「……遅くなってごめん。よく頑張ったな……」


「はい……はい、信じてました、きっと……きっと来てくれるって……」


 ミリアムの心からありったけの気持ちが溢れる。


「シリュー……さん」


 零れ落ちる涙を指で拭い、シリューは涼し気な笑みでこたえる。


 それからミリアムの縛めを解くと、やにわに立ち上がり、未だ茫然としている野盗達に向き直る。


「さあ、覚悟はいいか?」


 これから始まるのは……戦闘ではない。

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