第29話 これって、ラッキーすけ〇……ですよね

 シリューの右側に座ったクリスティーナの更に右、2m程の場所で短い草の葉が微かに揺れる。


 大きさからいって魔物では無く、小動物か昆虫の類だろう。だが暗い上にクリスティーナの影になってよく見えない。


「し、シリュー殿?」


 じっと見つめるシリューに気付き、クリスティーナの声が上ずる。


「動かないで……」


「え? あっ、でも、そんな……いきなり……」


 クリスティーナは壮大な勘違いをしていた。


「何かいます……じっとして」


「え?」


 クリスティーナはシリューの視線が自分を通し越し、少し先の地面に向けられているのに改めて気が付いた。


「ば、ばかみたい……」


 クリスティーナは小さな声で呟いて顔を背け、シリューの視線の先を追った。



【暗視モード起動】



 シリューの目に映る景色が、夜の闇から一転、昼間の様に色づく。


 草の影に見えたのは、緑色で細長い一匹の……。


「ひゃあああ!」


 喘ぐような息を呑む声と同時に、シリューの視界が真っ暗になった。


「いやっヘビヘビヘビっ! ヘビだめ、いやっ、だめぇ!」


 パニック状態のクリスティーナは、馬乗りになって飛びついたシリューの頭を両腕でひっしと抱き、これでもかと言うほど、たわわに実った胸を押し付けていた。


「ちょっ、クリス、もごっ、ティーナさんっ、お、ぷはっ、落ち着い、てっ」


 顔をずらそうとしたシリューだったが、クリスティーナにがっしりと頭を抱えられ、まったく動かせない。




〝あれ? これって、なんか前にも一度あったような……〟




――あれはたしか、夏休み期間中に週一で行われる養護施設内の清掃作業で、美亜と一緒に建物の裏手で草むしりをしていた時――。


「やだあっ‼」


 突然、美亜の叫ぶ声が背中から聞こえて、振り向くと同時に抱きついてきた美亜は、僚の顔にその柔らかい双丘をこれでもかっ、というほど押し付けた。


 今のクリスティーナと同じように。


「へびへびへびへびへび! だめ、来ないで! いやっっ、だめぇ!」


 パニックを起こした美亜は、僚の頭を抱える状態で馬乗りになり、胸の事など一切気付いていないようだった。


「む、ぐっ、み、美亜……落ち着いて……」


「ど、どくへびっ、やだっ」


 その時、どうにかして美亜を引き剥がそうと動かした僚の手が、水風船のように弾むふくらみを掴んだ。というか、揉んだ。どさくさ紛れにおそらく二、三回、いやもう少し多かったかもしれない。


 それは手から少し溢れる、ほどよく実ったリンゴ。


 僚がなんとか顔をずらして、美亜が作業をしていた所に目を向けると、そこに1mほどの真っ黒なヘビが、うねりながら垣根をくぐって逃げるのが見えた。


「み、美亜っ、もう大丈夫、もう逃げたからっ」


「え? ふみゃあっ⁉」


 我に返った美亜は、非常に危ない部分に、非常に危ない姿勢で馬乗りしている自分の姿に、もう一度小さな悲鳴をあげた。


「ご、ごめんね僚ちゃんっ、私っへび、苦手でっ、そのっ、だって手も足も無いのに、うにょうにょ動いてっ、それにあの目っ、背筋がぞっとしてっ」


 大慌てで立ち上がった美亜の瞳には、溢れるくらいの涙がに滲んでいた。




〝あ、これ、ヤバい〟


 美亜の時とまったく同じ状況だが、一つだけ大きく違う事が……。


「い、息、が……ぐむっ」


 まったく隙間が無い。鼻も口も完全に押さえられて、息ができない。


〝クリスティーナさんって、美亜より……で、でかい……〟


 その二つのりんごは、美亜のものより明らかに一回り以上大きい。


「いやっ、あっ、だめっ、いや」


 シリューはクリスティーナを引き剥がそうとして、だがすぐに手を止めた。


 あの時美亜はパニックを起こしていたから、手が触れた(正確には揉んだ)事に気付いていても、たいして怒らなかった……気がする。




「……それはそうと、僚ちゃん……揉んだよね」


 あの直後。


 立ち上がった美亜は、自分の胸を覆い隠すように腕を組み、僚をねめつけたのだった。


「え?」


 まさかあのパニック状態のなかで、気付いていたとは。僚は美亜の意外な冷静さに、冷や汗が背中を伝うのを感じたのを覚えている。


「揉んだよね?」


「え、いや、あの……」


「揉んだ、よね」


「は、はい……ごめんなさい……」


 真っ赤な顔で瞳を潤ませる美亜に、僚は言い逃れができなかった。




〝……いや、けっこう怒った、かな?〟


 だが今回はあの時とは違う。このまま放置しては、いろいろ不味い。いろいろ……。


〝ああっ、そうだヒスイ!?〟


 シリューを現実に引き戻したのは、ポケットで眠るヒスイの存在。


 なんとか身体をずらし、シリューはクリスティーナのお腹が当たっていた胸のポケットを離す。


「う、ん……」


 ポケットの中でヒスイが小さく呻いたのが聞こえた。潰されてはいないようだ。


 ただしこのままでは、押し付けられて潰れた二つのりんごに、自分の理性が潰されそうだった。


〝とにかく……〟


 息と理性が続くうちに、クリスティーナのパニックの原因を排除するのが先決だ。



【探査開始】



 PPIレーダースコープに、ヘビを表す輝点が表示される。



【ストライクアイ起動 ロックオン 魔法発動可】



 まさかヘビを相手に、ストライクアイを使うとは思ってもみなかった。


 問題は、発動する魔法の種類。


 フレアバレットやマジックアローでは大騒ぎになる。


「待てよ……そうか、よし」



【特殊技能 エレクトロキューション】



 威力を極限まで弱く、電子ライターのスパークのイメージで。



【殺撃放電(エレクトロキューション)が麻痺放電(ショートスタン)に変化します】



「よし、ショートスタン!」


 パンっと風船の割れる様な音が響き、50cm程度の青いスパークがヘビを撃つ。



【目標を撃破しました】



 白い煙を上げて、ヘビが絶命した。


 人間なら一時的な麻痺で済むのだろうが、小動物にとっては致命傷になるようだ。


 とにかく、原因の排除は終わった。後は……。


「クリスティーナさんっ」


「やっ、助けて、だめっ、やだぁ」


 事態の把握出来ていないクリスティーナは、更にしがみついて来る。


 クリスティーナの胸に顔を挟まれて息がしづらい。


 香水と少し汗の混ざった甘い香りが、鼻腔をくすぐる。


 もう、限界だった。


 色んな意味で……。


「クリスティーナさん……も、もう大丈夫です、ヘビ、やっつけましたからっ」


「……え……?」


 シリューの声に、クリスティーナはようやく腕の力を緩めた。


「……ホント?」


 シリューを見下ろす目には溢れそうなくらい涙が滲んでいる。


「ほんとです、もう心配ありません。ほら、ね」


 シリューは動かなくなったヘビを指さして微笑んだ。


 クリスティーナは無言でこくりと頷いた。


「あ……」


 一旦落ち着きを取り戻したクリスティーナは、自分の状態をみてぴんと背筋を伸ばし、これ以上無いくらいに大きく目を見開いた。


 そして……。


「やだっ」


 ぱちんっ。


 左腕で胸を覆い、右手でシリューに平手打ちをした。


「え……?」


 シリューは叩かれた意味が分からず茫然となる。


「あ……」


 クリスティーナは自分の右手とシリューの顔を、涙を浮かべた瞳で交互に見比べる。


 無意識の行動だったのだろう。


「ご、ごめんなさい!」


 よろけながらも立ち上がったクリスティーナは、それ以上何も言わすに駆け出した。


 こうやって、走り去る彼女を見るのは二度目だ。


 シリューはふと、彼女が座っていた地面に視線を落とす。


 余程慌てていたらしく、飲みかけのカップが倒れ置き去りになって転がっていた。


「蛇の嫌いな人って、同じような反応するのかな?」


 あの日の美亜をまるで再現したかのような、クリスティーナの取り乱しよう。まさか、と思いかけてシリューは首を振った。


「いやいや、そんなに都合のいい事、あるわけないよな」


 それにしても。


 シリューはもう一度クリスティーナの後ろ姿に目をやり、叩かれた頬に手を当てた。


「……なんで……叩かれたんだろう……」


「それは、シリュー殿が中途半端だったからです」


 背後から憐れむ様な声が聞こえた。


「な、ナディアさんっ? いつの間にっ」


 振り向くと、ナディアが腕を組んで立っていた。


「そうですね……『あ、いやっ、だめっ』……クリスが甘い吐息を零し、シリュー殿の手が、その豊満なクリスの胸を激し……」


「ナディアさんっ!!」


「え?」


「え? じゃないでしょ!! 何誤解を受けるような解説してるんですかっっ!」


 ナディアは頬に人差し指を当て、とぼけた顔で小首を傾げた。


「あれ? 違いました?」


「……分かってて言ってますよね……」


「…………」


 無言のまま満面の笑顔を浮かべるナディア。


「で……一応聞きますけど、中途半端ってどういう事ですか?」


「あ、やっぱり聞いてしまいますか? そうですかっ、では……」


「待った、やっぱやめとこうかな……」


「いえいえ、ここは言わせてください。女として」


 どことなくいたずらっぽい笑みを浮かべるナディアに、嫌な予感がするシリューだった。


「シリュー殿」


 ナディアはシリューの目の前に人差し指を突き出し、じっと見つめた。


「は、はい」


「あそこで止めたら、ただのヘタレです。クリスでなくても怒ります。やはりあの後は、勢いに任せて押し倒し彼女の唇をう……」


「ナディアさん!!」


「冗談でっす♪」


 いいように遊ばれている気がする。明らかに年下の筈のナディアに。


「……まさか……あの蛇……。ナディアさんの仕込みじゃないですよね?」


 ナディアは笑顔を引きつらせる。


「……シリュー殿。いくらいたずらの為とは言え、生ヘビは私も無理です……」


 本気で嫌がった。


 でもこの人ならやりかねないとも思った。


 どちらにしても、大人なのか子供なのか分からない、掴みどころの無い女性であるのは確かだ。


 憎めない人物であるのも確かだが。


「それでは、おやすみなさい、カップ預かりますね」


「あ、はい、おやすみなさい」


 ナディアは空になったカップを受け取り軽くお辞儀をして、クリスティーナが走り去った方へ歩いて行った。


「……あの人……一体何のために来たんだろう……」


 シリューの呟きは、誰が聞くでもなく、夜の闇に溶けていった。

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