第42話 ランジェリーとファンデーションの違いを説明せよ
「歯ではありません。ランジェリーです」
小月が再び繰り返す。
歯ではないことぐらい黄金もわかっている。
そこまで目が悪いわけではない。
そもそも、そのふたつを見間違うレベルであれば、もはや目が悪いではなく、頭のどこかに異常が生じているのを心配したほうがいい。
歯ではなく、もちろん戸惑いから出た『は』だ。
彼女自身、これはなにかと小月に訊ねたにすぎないが、欲しかった回答はwhat、つまりなにに対するものではなく、why、なぜの方であった。
持ってまわった言い方であったが、状況が状況なだけに黄金はそれだけで伝わると思っていた。
が、現実は無情で、小月は言葉どおりにとらえてしまったのだ。
思った回答が得られず黄金が困惑していると、彼女は再び思いついたような顔をみせた。
「もしかして、同業者でございましたか? これは、これは失礼いたしました。正確にはファンデ―ションでございますね。世間一般の方々の多くはランジェリーを下着と混同しておりましたので、そう言ってしまいました。配慮が足りませんでしたね。すみません」
黄金を置き去りにしたまま、小月はひとり納得し、キラキラした視線を寄こす。
「でしたら、再び問いますが、このファンデ―ション受け取っていただけますか」
「なぜですか」
黄金は頭の中に浮かんだ言葉をそのまま舌にのせた。
「なぜって……」
黄金の反応に、小月はあごを右手の親指と人差し指で摘まみながら、眉をハの字にさせぶつぶつとつぶやく。
「この見れば喉から手が出るほど欲しくなると言っても過言ではないファンデ―ションを前に、そのような発言をなさるとは予想外すぎて、うちには理解が追いつきません。考えられる原因としては……ま、まさか色が気に入らないとかですかね? たとえそうだとしても、他の色はありませんし……待ってください。そうです、そうです。もうひとつなら用意できるじゃないですか。たしか、今日はこの色ではなく……」
色が気に入らないなんてことを黄金はひとことも言っていないのだが、小月は勝手に突っ走る。
そもそも、色以前の問題である。
理解が追いつかないと言いたいのは黄金の方であった。
かような心情など知る由もなく、小月の中でひと通りの脳内会議でも終わったのだろう、ひとつうなずくと、黄金の方を再び向いた。
「本来であれば、この色以外に三種類ご用意しているのですが、あいにく新品の状態で今ご用意できるのはこちらだけでして」
「はぁ」
「そこで、もう一色だけなら、開封品をご用意できるのですが、ご覧になられますか? お気に召されたら温かくてもよろしければそのまま差し上げますが……」
温かい?
唐突なランジェリー、いや正確に言えばファンデーションの登場だけでもはっきり追いついていない黄金の頭に、また新しい言葉がねじ込まれる。
彼女が知らないだけなのかもしれないが、ホットランジェリーもアイスランジェリーも聞いたことがなかった。
黄金が頭に疑問符を浮かべているような表情をしていると、小月はズイ、と顔を寄せた。
「いきなりそんなことを言われてもわかりませんよね。ご覧になっていただいた方が早いと思います。少しお待ちくださいね」
そう言った小月の頬にはどうしてだか知らないが、かすかに朱が刷かれていた。
まるで羞恥に耐え忍ぶ乙女のように。
なぜそのような表情をするのだろうか、と黄金が不思議に思っていると、小月は和服の襟元を少し緩めた。
「見えますか?」
何が見えると言うのだろうか?
黄金の眼下には、今、小月の下腹部までもがあますことなく映ることには映ってはいた。
白い肌の下には静脈が浮きあがり、薄い肋骨は呼吸している。
その途中には膨らみのようなものもあるにはあったが、隆起と呼ぶには貧弱であった。
同性の黄金から見ても、そこに到底色気は感じ取れない。
つい先頃、自身の胸の大きさにコンプレックスを持っている女性と出会っただけになおさらだった。
「見えていませんか? もう少し開いた方がよろしいですかね?」
色気が感じとれない理由はそれだけでない。
何かの違和感が視線の先に滑り込んでいた。
その何かについて、黄金は思考を働かせるが、答えは出てこない。
「見えてますよね? これ以上は痴女になりかねないので、うちとしてもご勘弁願いたいのですが……」
現時点でも痴女とさして変わらない行動を起こしているという言葉を黄金はぐっと飲み込み、別の言葉を言った。
「何が見えているか訊ねてるんですか?」
「何って、うちが今身に着けてるファンデーションですよ」
「え、えーっとどうして私にファンデーションを見せる必要があるんですか?」
「色が気に入らずにお断りなされたと思いましたので、お気に召されれば差し上げようと思ったからです。うちは好き好んで人様に肌を見せるタイプではございませんので、それ以外の理由などないと思うのですが……」
真剣な目をした回答に、黄金はこの小月という人間の頭の部品がひとつ欠落しているとしか思えなかった。
黄金はある種の特殊性癖を持っている人間ではないため、人が身につけた下着をもらってもなんらうれしくない。
まともな思考をもっていればその辺りは分かるはずだが、と黄金は思うも、まともなら車内で会って間もない見知らぬ女性に下着を見せることはない、と思い直す。
どう返答すればよいか、彼女が悩んでいると、小月の顔が曇った。
「もしかして、二色とも気に入りませんでしたか?」
「色っていうよりも……」
「色ではありませんでしたか。では色ではないとしたらどうしてでしょうか?」
「ほんとうにわかりませんか?」
黄金は冗談めかしたのだが、小月は真剣な表情を崩さなかった。
こちらに向ける静かに澄み切った目を見つめ返すことができず、黄金は目を背ける。そうするしか術がなかった。
うまく言葉が出てこなかった。彼女の反応に小月は、色白な顔を伏せた。
「はっきりとは言いにくいですよね。……そうですか。明星様にはデザインが合いませんでしたか。すみません。余計なことをしましたね。お見苦しいものもお見せし、本当に申し訳ございません」
しゅんと目に見えて落ち込みながら、小月は緩めた襟を元に戻していく。
空白の時が巨大な刃と化して、胸を切りつけてくる。
そんな反応をされ、黄金はなにか自分が悪いことをしているようにさえ、思えてきた。
「……デザインが気に入らなかった、ということでもありません」
黄金が絞り出した言葉に、小月はますます混乱したような表情になる。
「でしたら、どうしてなのでしょうか? ご教示願えましたら幸いなのですが……」
小月の円らな瞳が、ほんの少し潤んだ。
彼女は黄金が思う『常識的回答』を心底欲しているようであった。
ふぅ、と吐息を漏らし黄金は口を開く。
「仮に、仮にですよ。私が小月さんの今身につけているファンデーションを気に入って、欲しいと言っていたらどうしていたんですか?」
「お気に召されたなら、差し上げましたよ」
ほぼノ―タイムでの返答だった。
「それだと小月さんが下着もなにも着けていない状態になるじゃないですかっ!」
「別に明星様にうちが身につけているコを差し上げたなら、うちが今手に持っているコを身につければいいだけですから。さすがに差し上げるなら、お手洗いかどこかで脱いで差し上げることになりますでしょうし」
言われてみればそうであった。
たしかにそのような方法を取ると、彼女が下着をまったく身につけていないという最悪の事態は避けられる。
妙に納得してしまいそうになり、黄金は慌ててぶんぶんと顔を横に振る。
「ってそうじゃありません! 私のことは置いておいて、小月さんも自分がたった今まで身につけていたものを、他人につけられるのは嫌でしょうに」
「うちは嫌ではありませんよ。むしろうれしいぐらいです」
「うっ、うれしい!?」
黄金の頭の中に自然と置かれていた痴女という言葉が、変態へと姿を変える。
彼女の発言に、黄金は心底小月という人間の頭に不足している部品は、ひとつどころでないと思い直した。
しかしながら、黄金とは対照的に、当の本人はその言葉に特別な意識など持っておらず、ごく自然に口にしたといった風であった。
「おかしいですかね?」
小月はわずかに小首をかしげる。
やがて澄んだ珠のような声で、彼女はこう続けた。
「他の方はどうかわかりませんが、うちが心血を注いだコを喜んで身につけていただけるなら、うちには至上の喜びです」
「心血を注いだ?」
「はい。うちがデザインしたんです、そのコ」
「デ、デザイン……?」
「そうなんです。こう見えてうちはデザイナーで、一応このコを取り扱っている会社の副社長でもあるんです」
小月の白桃を思わせるような唇が、満足そうな笑顔の形になった。
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