第41話 困っていても所詮、あかの他人

 膝から本が滑り落ちた。

 黄金はハッとして、本を拾い上げ、机上に置く。


 東京から大阪に帰る道すがら、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようだった。

 ぼんやりと窓の外に視線を漂わせる。

 行きかう人々と『静岡駅』という文字が視界に入る。


 濃い疲労感がガラスに映った顔に浮かんでいる。

 色の異なる紅がかすかに自身の唇についているのに気付き、舌で軽く舐めとった。

 眠りから覚めたばかりで脳が完全に働いているわけではないが、東京の本社に行って針中野と交わしたやりとりは夢ではなく、現実でまず間違いなかった。


 夢であればどれだけよかっただろうか?


 本社を出発してから眠りの中でまで、針中野のことを考えてしまっている。

 それが詮ないことに綿々と、思いを巡らせるうしろ向きな時間であることを、黄金自身十二分に気付いていた。

 気付いていてなお、想わずにはいられなかった。

 いつまでも残っている思慕の念を消し去ることはできない。


 身体の中の濁った空気を入れ替えるように、黄金は鼻から大きく息を吸い込んだ。

 針中野が目の前にいるわけでもないのに、白檀のにおいが鼻腔に染み込んでくる。

 苦い唾液が奥歯の向こうからじわりとしみ出してくる。


 黄金は、バッグの中から取り出したペットボトルのカフェラテを口に含んだ。

 ごくり、と彼女の白い喉をカフェラテが落ちていく。

 その液体は飲んでいる最中、苦みを打ち消し舌の上で甘みを主張し続けた。

 しかし、口腔からなくなるとまた苦みが顔を出した。

 苦みはいつまでも消えない。

 一度、口をすすぎたくなる。


 黄金はペットボトルをバッグにしまい込み、腰を浮かせた。

 しかし、またすぐに席に着く。

 黄金と同じラインの通路側に座っている者と話をしているのか、一向に席に着こうとしていない男がいるため、化粧室への道がふさがっていたからだ。

 少し通路を通りたいので、男に退いてもらうよう、通路側にいる者に声を掛けようとして、黄金は隣を向いた。

 その時にまた白檀の香りが匂い立った。

 その香りを嗅いだとき、黄金はふと不安をおぼえた。


 罠?


 そんな言葉が頭をよぎった。

 香りを振りまいている者をちら、と見る。


 サングラスを掛けており、表情のすべてが見えたわけではなかったが、まだ少女といってもさしつかえないような年頃だった。

 おそらく15、6歳。

 多く見積もっても18歳は越えないだろう、と黄金は見当をつける。

 前髪と耳の脇の髪だけを垂らし、あとは頭の上のほうで二つの団子みたいにまとめられている。

 身体は小造りで童顔。

 口紅にはサンセットオレンジのようなものを用いち得るような気がする。

 グロスは少々抑え気味だ。

 華やかな色合いではないが、彼女によく似合っていた。


 恰好は着物、おそらく結城紬と予想する。

 時代を超越した服、悪く言えば時代錯誤にしか見えない服を平然と着ていた。

 ただ、彼女にその服はとても似合っていた。

 似合わない高級品を無理して身につけている人間は痛々しいが、彼女にはその無理している感じがしない。


 黄金は彼女の姿を認めて、安堵の溜息を洩らした。

 当然のことながら、針中野ではなかった。

 彼女という存在に敏感になりすぎていた。

 落ち着いて考えれば、いるわけがないのだ。


 黄金はほっとして再び彼女に声を掛けようとする。

 が、どうやら様子がおかしい。

 彼女は顔を青ざめさせ、わたわたとあわてふためいている。

 もしかして、知り合いではないのだろうか。

 そう思って、黄金は男を観察した。


 無精髭がややのびている白人であった。

 身長は一メートル八十以上はありそうだ。

 大型トランクを持っていることを考えると、おそらく観光にでも来たのだろう。

 関係ないがいったいどこの国の人間だろうか、とふと疑問に思った。

 しかしながら、顔つきだけで国を当てるというのは困難だった。

 ただ、ひとつだけ言えるのは彼が日本人でないということだ。

 そうなってくると隣にいる女性との関連性は薄いように黄金には感じた。


 彼が話している言葉に聞き耳を立てた。

 英語で話している。

 日本語になおすと、そこは自分の予約した席だから、すぐに退いてほしい、といったところだろう。

 それはどことなく乱暴な口調だった。


 あたりをそっと見回したが、見とがめる人は誰もいない。

 それどころか、困っていても所詮、あかの他人だ、といった様子がひとりひとりの顔に刻みこまれている。

 普通の人間は、わざわざ火中の栗を拾いにいくことはないということをまざまざと思い知らされる。

 皆、車掌か何かがその諍いをなだめてくれるとでも思っているのだろう。


 父親がここにいたらなんと言うだろうか。


 黄金はふとそんなことを思ったが、彼が口にするであろう言葉が思い付かなかった。

 最終的には彼女自身も矛先が向いてきたら面倒だと考え、そのまま窓に視線を寄越した。

 出発を知らせるアナウンスが流れても、隣で行われているやりとりは終わらない。

 男は執拗に英語で迫り、それに対して彼女の方は、「うちは日本語しか話せません」とテープレコーダーみたいに同じことばかり繰り返している。


 そうこうしているうちに列車はついに走り出した。

 すぐ右横で続いている不快な現象が窓に映る。

 不快のわけは、いわば自己嫌悪のようなもの。

 何か後ろめたいような、ひどくいやな気分だった。

 一方的だった。

 標本箱から逃げ出した虫でも見ているかのようだった。


 男の身振り手振りは非常に激しい。

 興奮しやすい性質らしい。

 女性が席から立たないからか地団駄を踏みながら、顔を真っ赤にしている。

 と、腕を振ったとき、男のシャツの袖がめくれ、刺青が現れた。


 女性の背中が緊張した。

 萎縮しきって、完全に硬直していた。

 彼女の明眸が潤みはじめる。

 狼狽ぶりが度を越えて黄金の目に映った。


 窓越しに黄金と彼女の視線が接触する。

 その瞳には、なぜか見過ごしがたい訴えが込められている予感がした。

 彼女の顔に針中野の面影が二重写しになる。

 男がしびれをきらして、女性に手を伸ばした。

 危ない、と思うと同時に身体が勝手に動いていた。

 男が女性の手首を掴もうとする寸前に、黄金の手が追いついた。

 とっさに彼の腕をむんずとつかむ。


 男の目がゆっくりと黄金に向いた。

 彼女自身面倒ごとにかかわる気は毛頭なかった。

 その気持ちに偽りはない。

 しかし、身体が心を追い越してしまっていた。

 黄金は諦観混じりの短いため息をついた。


 決して流暢とはいえない英語で指定席特急券の席番号を見せてほしいと言う。

 それで伝わったのか、男は黄金に見えるように特急券を差し出した。

 差し出しながら、自分はこの席で間違いない。間違っているのはこの女の方だ、とまくしてていた。

 ざらついた声だった。

 確認したところ、座席番号は黄金が今座っている隣の席を示していた。

 黄金自身いつも乗る席がきまって同じであるため、間違いない。

 しかし、時間が異なっている。

 彼が本来乗るはずの列車は今黄金たちが乗っているものより一本前であった。


 それを説明すると、彼は自らの非を認め、謝罪をした後その場からそさくさと去っていた。


「邪鬼より助けていただきありがとうございます。うちは英語というものが大の苦手で、あの方がどうして怒っているのかがわからず、非常に困っていたところでした。本当にありがとうございました」


 男が去っていくと彼女は頭を下げ、縷々礼を述べた。


「うちは、小さい月と書いて小月と申します。うちを救ってくださったあなた様のお名前をお伺いしてもよろしいですか」


 決してにこにこしているわけではなかったが、表情がどうぞよろしく、と雄弁に語っていた。

 相手が名乗った後に名乗らないのもおかしいと思い、黄金も名乗る。


「のぶれば、明星様は――」


 のぶれば?


 その言葉が引っ掛かり、小月がなにやら喋っているのもそっちのけで、言葉の意味を考えてしまう。

 あぁ、陳者のことかと黄金はすぐに思い直す。

 見た目のわりにずいぶん難しい言葉を知っている、と舌を巻いた。

 と、同時にほほえましい気分になる。


 陳者は手紙の最初に使用するもので、通常会話では用いないはずだ。

 というよりも使ってもいいのかもしれないが、口語で使っているものは見たことがない。

 日常会話で拝啓を用いないのと一緒だ。

 背伸びをしたい年頃なのだろう、と黄金が考えていると、小月は顔をのぞきこんできた。


「苦手なものはなにかございますか?」


 話を聞いていなかったため、質問の意図が汲み取れずに、黄金が目をぱちくりさせていると、小月はほほ笑んだ。


「少々お待ちくださいね」


 そう言って、彼女は近くにいたパーサーらしき者に声を掛けた。

 何度か言葉のやり取りをした後、離れていく。

 すると、小月の顔が紅潮した。


「車内販売のものを何か購入してお礼にさしあげようと思っていたのですが、この列車には車内販売がないようですね。知りませんでした」


 申し訳ありませんというように、小月は首をすくめた。


「お礼なんて大丈夫ですよ」

「なにかお礼がしたいのはうちの気持ちなんです。だからなにかしないと、うちが耐え難いんです」


 小月が頬を軽く膨らませた。

 その顔にまた針中野の顔が重なった。

 舌の付け根から苦い唾液がわいてくる。


「けれども、他になにか差し上げられるものっていったら……。そうです、そうです」


 小月はなにか思い出したように、自身の鞄を漁り始めた。

 しばらくして取り出したなにかを黄金に差し出す。


「これは何ですか?」


 黄金は小月が差し出した透明のビニールでパッケージングされたそのなにかを見て困惑しながら、そう訊ねた。

 小月がいたずらっぽく笑って答える。


「ランジェリーです」

「………………は?」

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