第39話 ゲーム好きの成功者

「ストック・オプション」


 その言葉は黄金が想像していた考えと一致していた。

 身体中が緊張しているのがわかる。

 ショックを受けながらも、耳だけは聞きたがっているようだった。


「就業規則にも載っているので、当然ココちゃんは知ってますわよね」 


 黄金は無言で顎を引く。


 いささか言葉足らずな説明になってしまうが、ストック・オプションとは、市場での株価の如何にかかわらず、契約締結時にあらかじめ定めた価格で株を購入できる制度のことだ。

 権利を付与された者が売却益キャピタル・ゲインを得るためにインセンティブをより一層高め、もって業績を向上するために発行されるものでもある。


 例えば、ストック・オプション契約締結時、割り当てられたA社の株価の発行価額が1,000円とする。

 その後、割当日より数年がたち、その際のA社の株価が市場で3,000円になったとしよう。

 通常、この株を購入するには1株当たり3,000円を支払わねばならない。

 しかし、ストック・オプションを割り当てられた者は、市場の株価がたとえ3,000円であったとしても、契約締結時の価格、つまり1,000円でその株を購入することができる。

 そして、その株を売却すると3,000円と1,000円の差、つまり1株当たり2,000円の売却益を得ることができる。

 もちろん、そこから税金等控除されるものもある。


「わたくしが行使しようとしたストック・オプションの権利行使価額は1株1,000円」

「1,000円だと? んな安いわけがねぇ。うちのストック・オプションは税制適格のはずだ。んなら、1株あたりの権利行使価額はストック・オプションの契約締結時の株価以上にしなきゃなんねぇんじゃねぇか?」

「権利行使期間は、割当日より2年を経過した日から10年間ということは知ってますわよね」

「あぁ」

「わたくしが、今回権利を行使したストック・オプションの取締役会決議日の前日の終値は989円だったのですわ……一時的に」


 針中野は息を深く吸い込み、吐き出す息とともに言った。


「一時的にだと?」

「今から13年さかのぼった、取締役会議日の1週間ほど前に弊社の取締役とアーティストが覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されましたわ」

「記憶にはねぇな」

「かもしれませんわね。13年前といえば、まだココちゃんは高校生ですし、同時期に猟奇的な遺体遺棄事件が起きたので、そこまで話題にもなりませんでしたし」


 その事件なら、黄金の中にぼんやりと記憶があった。

 若い男女の遺体がバラバラで見つかった事件だ。

 連日ニュースでも大騒ぎになっており、逮捕の際、犯人に一人娘がいると報道しており、ひそかに同情したものだった。

 けれども、覚せい剤事件はみじんも記憶にない。

 その時はまだSEXY NOVAグル―プに入社しておらず、興味の対象でなかったというのも大きな理由かもしれない。


「あまり話題にはなっていないと言っても、弊社の株を持っている方々にとってはそのスキャンダルは死活問題ですわ。その結果、弊社の株は売り注文が殺到して、急激に下落しましたの」

「それで1,000円ってわけか」

「理解してもらえたみたいですわね。そうでもなければ、ココちゃんが言ったように権利行使価額が1,000円だなんて通常ありえませんわ。割り当てられた前年でも市場の株価は2,000円代だったんですもの。この価額はほうっておいても誰でも少なからず売却益を得ることができますわね。でも、そんなわかりきった結果のために権利を行使するのは面白くありませんわ」


 黄金の中で、面白くない、という言葉が妙に引っかかる。


「話を元に戻しますわね。わたくしに充てられたストック・オプション個数は120個。1個につき100株なので、12,000株。権利行使価額は1,200万円。ぎりぎりですわね」


 うふふ、と笑いを漏らし、針中野が続ける。


「売却時の弊社の市場での株価は1株当たり9,334円」


 黄金は頭の中でそろばんをたたく。

 その額――


「1億とんで8,000円。これがわたくしの得た金額ですわ。もちろん、税金で20%程度は控除されましたけどね」

「ちょっと待て。あいつらが亡くなってから、株価は急激に下がったはずだ。アンタが言ったみたいに、んなに売却益を得られるわけがねぇ」

「視野が狭いんですわね。いつわたくしが彼女たちが亡くなった後に権利を行使したと言いましたの?」


 黄金の汗ばんだ肌が冷えてくる。


「……それこそあり得ねぇだろ。あの頃のあいつらは人気って言葉で片付けられねぇレベルにまでなってた。誰もがまだまだ売れると思ってた。だからよぉ、普通はまだまだ上がると思って、権利行使をしねぇはずだ。事実、オレも権利を行使しなかった」

「ストック・オプションを売却益のためだと思ってる方は、そう考えるのかもしれませんわね。ただ、わたくしの場合、別にお金なんて興味なかったんですの」

「なに?」

「わたくしにとってはゲームでしたの。あのアイドル氷河期に落ち目と言われたアイドルを用いて、株価をどれだけ上げられるかの」


 黄金は全身を耳にした。


「けれども、恥ずかしながら途中から最終着地点が変わってしまいましたわ」

「どう変わったんだよ」

「いかにして彼女たちを有名にするかの方が最終着地点になってしまいましたの。そうなってくると、売れた時点でゲームはクリア。実際、老若男女が注目するぐらい彼女たちは売れましたわ。クリアしたゲームに価値はありませんの。だから、美旗社長にあげましたわ」


 針中野は老獪な目の上に、半ばまぶたを下ろした。


「話が合わなくねぇか? その理論ならアンタが統括を外れたときに売りゃいい話だろ。なんで、すぐに売らなかったんだよ。それにさっきの居場所うんぬんの話はなんなんだよ」

「一つ目の質問に対する答えは簡単ですわ。単に忘れていましたの」

「忘れてただと?」

「えぇ、ゲームの最終着地点を変更した時点で、わたくしの頭からすっぽりとストック・オプションという存在が抜けてましたの」

「なんでいきなり思いだしたんだよ」

「新しいゲームを始めるためにお金が必要になったからですわ」


 針中野は涼しい顔で続ける。


「長く続けていたゲームもクリアし、他人に譲った後、新しいゲームを探していましたの。そうしていると、わたくしが楽しめそうなゲームを見つけましたわ」


 直接は言葉にしないが、それが声優アイドルファンドのことだと、黄金には容易に予想がついた。


「ただ、わたくしが目をつけたゲームは時間はともかくとして、意外とお金がかかりそうでしたの。そこでお金に変えられそうなものを探していたら、ストック・オプションを見つけたんですわ」


 針中野は数回まばたきをした。


「そして、もうひとつの居場所うんぬんの話は言葉どおりですわ。あのままクリアしたゲームをし続けていると、彼女たちの心地いい居場所を奪ってしまいかねないと思いましたの」

「……馬鹿にもわかるように説明してもらえねぇか」

「わたくしはクリアしたゲームに熱意を向け続けられませんの。あのままプロデュースを続けていたら、わたくしの気持ちは彼女たちにも伝わり、傷つけ、ともすれば、居場所さえ奪ってしまうと純粋に予想したって話なだけですわ」

「って話なだけですわ、って言われても、全然話が見えてこねぇんだが」

「仮にわたくしの真意に気付けば、彼女たちがショックを受けるのはわかりますわよね?」


 黄金自身そこまでは理解できたが、それが居場所を奪うということにつながるまでは理解できなかった。

 そんな彼女の様子を見て察したのか、針中野は言葉を続けた。 


「そこまで理解していたら少し考えればわかりますわ。なぜなら、自分たちをゲームのキャラクターとしか思っていない者が用意した居場所ってことなんですわよ、VOTってユニットは。わたくしの真意を知った後でも、活動が今までどおり続けられると思いますの?」


 説明されればそのとおりであった。

 一緒に働いていただけにすぎない黄金自身でも、たった今聞かされ、床が音もなく崩れ、暗い底知れない穴のなかに落ち込んでいくような、目眩すらおぼえているのに、それを当事者が聞かされた、あるいは知ったときの反応は想像するに難くない。


「んで、彼女たちにはメンバー思いの統括プロデューサーだって思わせ続けたのか、最後まで。随分と優しいじゃねぇか」


 オレにはその事実を告げてるのにな、という言葉を黄金はのみこむ。


「当たり前ですわ。自分が育成したキャラクターを壊す馬鹿がどこにいますの。育成したキャラクターには愛着があるものですわ」


 自分の手柄を自慢するような口調で誇らしげであった。

 針中野の説明はつけこむ隙もないくらい明快だった。

 狂おしく跳梁する胸の鼓動だけが、黄金の耳を打つ。


「結局、アンタにとってあいつらってなんだったんだよ?」


 黄金は震える声で問う。針中野はまぶたを開いた。

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