第38話 当たり前のことを当たり前のように出来る人間は案外少ない

 過去にとらわれた人間を現在に引き戻す警報装置のように、エレベーターの到着音が響き渡った。

 ゆっくりと扉が開く。


「アンタの声優ファンドの話はわかった。たしかに、アイドルより人気の声優をアイドルとして売った方が、会社には利益をもたらすのかもしれねぇ。けど、なんでその話をわざわざこと細かく関係ねぇオレにした?」

 

 針中野の性格から言って、絶望をもたらすためだけに、あるいは自慢するためだけに言ったとは考えられなかった。

 なにか他に目的があって言ったとしか思えない。

 だから、黄金はそう問いかけた。


「その答えは簡単ですわ」


 言いながら、開いたエレベータから針中野が外に出た。ちょうど喫煙ルームがある階だった。

 エレベーターの外に出た彼女は歩きながら、首だけ黄金に振り向かせた。


「わたくしの懐刀になってもらいたいのですわ」

「……懐刀だと?」

「そうですわ。先刻、異動の話は嘘とわたくしは言いましたわね」

「あぁ」

「あのときはそう言いましたけど、結構本気だったんですわ。本社でわたくし専属の秘書として欲しかったんですの」

「そうかよ。けどよぉ、自分で言うのもなんだが、グループ全体で言やぁ、もっと優秀な人材がいるだろ。どうしてそこまでオレにこだわる」

「あなたが好きだからですわ」

「……はっ?」

 

 張り詰めた空気が一瞬にして弾けた。

 場にそぐわない、いきなりの告白に黄金が困惑していると、すぐに針中野は「ビジネスパートナーとして」と、付け加える。

 まったくいい加減にして欲しい。

 そう思っていると、針中野は身体ごと黄金に向け、一歩一歩彼女に詰め寄るかのように近づいて、問いかけた。


「ときに、仕事をするうえで一番大切なこととはなんだと思いますか?」


 針中野の声が、急にあらたまった響きを帯びる。


「常人離れした能力」


 靴音だけが廊下に響く。


「コミュニケーション能力」


 その音はだんだんと黄金に近付いてくる。


「独創性」


 黄金の眼前に針中野は立った。


「そんなことなんかより一番重要なことは、相手の立場に立って物事を考えられることですわ」


 言って、針中野は閉まりそうになるエレベーターのボタンをやさしく押した。


「正直に言ってココちゃんより優秀な人材はグループ内にいますわ。けれど、ココちゃん以上に相手の立場に立って物事を考え、人の顔をたてる技術にたけてる人材はいませんの」


 ビジネスの世界において、「でも」や「けど」を多用し、相手の言葉を受け入れず、いちいち正論を振りかざしていても埒があかない。

 相手の性格や出方を見極めたうえで、態度を調整していく柔軟さが求められる。

 四角四面、人は必ずしも「正しい回答」を求めているわけではない。

「自分に正しいと思わせてくれる回答」あるいは「自分が正しいと思っている回答」を求めているのだ。

 それらを念頭においたうえで、仕事を行うように留意するように。


 すべて芸能界に入る際に、父親から教えられたことだった。

 黄金はその教えを守りやってきただけだった。

 それが当たり前のことで社会人なら誰もがしていることだとばかり思っていた。


「それがアンタがオレを欲しがっている理由ってわけか」

「そうですわ」

「……ただ、それだけの理由なのか?」


 針中野はきょとんとし、何を言われたか分からない、という顔をした。


「それ以外にココちゃんを欲しがる理由がありますの?」


 言葉に逆に教えてほしいというニュアンスがにじんでいた。

 黄金は顔を伏せた。

 出口を得られぬ激情が、指先にまで溜まり、渦巻く。 

 それを見て針中野は、なにかを悟ったかのような顔をしていた。


「もしかして、わたくしが欲しがった理由が、過去に一緒に働いていたからだとか、一緒に働きたいという感情から言ったものだと思ってましたの?」


 黄金の指がピクリと動く。


「ビジネスをするうえで、そんな感情的なものに左右されるのは、馬鹿ぐらいですわ。単に、ココちゃんがわたくしにとって役に立つと判断したから欲しいだけですの。声優も今の時代、ビジネスをするうえで役に立つから欲しいんですわ」


 針中野は黄金に一段と冷めた視線を向け、続けて言った。


「わたくしは役に立つ人間が好きなんですわ」


 針中野の声が木枯らしのように胸の中を吹き抜けた。

 おそらく針中野には全部お見通しなのだろう。

 自分自身のこんな気持ちが。

 黄金は大声を出したくなる衝動を、必死で抑えつける。


「たぶん、ココちゃんの場合、相手の立場に立って物事を考えるという能力は役者時代を通じて、身に着いたものだと思いますわ」


 いきなり役者時代のことを言われ、黄金は顔を上げた。


「わたくし、あなたの演技を見たことがありますの。演技すらも画面の向こうの人間を意識しすぎて、求める『答』だけを意識した。わたくしが一番嫌いなおりこうさんの演技でしたわ。だから、役者の道を諦めて正解だったと思いますの」


 ずかずかと近づき、平手打ちを食らわせるようなその言葉。

 黄金はもう怒りすら湧かなかった。

 針中野はさらに言葉を紡ぐ。


「先刻、ココちゃんは紫歩さんを守るために異動の件を蹴ったと言いましたわね。それならば、ふたりして本社に移ってくればいいんですわ。なんなら、紫歩さんには声優アイドルとしてデビューしてもらえばいいんですの。彼女はアイドル時代から人気でしたし、声優アイドルとしてもきっと人気が出ると思いますわ。あっ、でも、紫歩さんはいま声が出ないんでしたわね。……そうですわ! 紫歩さんに声をつければいいんですの! 美旗紫歩、CV――」 


 それまで、ひたすら黙って聞いていた黄金は、気付けば針中野の小袖の襟を掴んでいた。

 掴まれた針中野は動じず、口元に笑みを浮かべていた。

 黄金は、眼前にある濃褐色の瞳にただひたすら視線を注ぐ。


「ココちゃん、わたくしの顔に何かついてますの?」


 針中野はぺたぺたと自身の顔を触り、黄金に訊ねた。


「……なんもついちゃいねぇよ」


 ふっ、と襟を掴んでいた手がゆるむ。


「何がアンタをそこまで変えたんだよ。……本当にアンタはあの針中野千草か?」


 針中野はじぃと黄金を見つめた後、ワントーン下げてつぶやく。


「うふふ、ばれては仕方ありませんわね。実はわたくしは針中野千草と入れ替わった偽者で、本当の正体は――」


 針中野は片頬を右手で引っ張って剥がす真似をする。


「――なんて馬鹿なことはありませんの」


 心底おかしそうに笑う。


「わたくしは今も昔も変わってませんわ。わたくしが変わった、とココちゃんは言ってますけど、ココちゃんはたぶん、わたくしのことなんてもとから全然知らないと思いますの」

「アンタのことを全部知らないってこと自体否定はしねぇが、少なくともVOTも含めたアイドルに対してのアンタのスタンスは知ってるつもりだ」

「わたくしのスタンス?」


 幽艶な針中野の面差しに、針の鋭さが加わった。

 下がり目は静かに、そして不気味な光り方をした。

 周囲がにわかに暗くなったように黄金は感じる。


表面うわべだけを見て、理解したつもりになっていますの?」


 口吻に棘が忍びこんでいた。


「本当に、わたくしがただの善意で、数千万円にもおよぶお金を費やしていたと思いますの? 何のメリットもなく」


 鋭いメスで切り裂いてくるのを彷彿させるような迫力があった。


「わたくし、過去に言いましたわね。『完璧な青写真を描いている人間はお金を惜しまないものですわ』と」


 そう言った針中野の頬に、薄気味の悪いほど穏やかな微笑が浮かんだ。


「こうも青写真どおりに進むと気持ちがいいものですわね。VOTは本当にわたくしの役に立ちましたわ。やはり、わたくしの目に狂いはありませんでしたわ。予想以上でしたわ」

「……何を言ってやがる」

「もっと活躍すると思って、権利をすべて行使しなかったのが後悔ですわね。事故の後に急落してしまいましたし」


 そら恐ろしい思いつきが黄金の頭を掠める。


 そんなはずはない。

 流石にそんなことがあってはならない。

 本当にそうであれば、過去の思い出はすべて虚構でしかなかったことになってしまう。


 黄金は胸中でいくつか言葉を転がし、否定するが、それは奇怪な怪物の幼生のように次第に肥大していく。

 身体の中を血が脈打ち始めるのを感じる。

 いま、その考えを一刀両断し、切り捨てたく思った。

 けれども、それは掻き消しても掻き消しても次の瞬間にはすぐに現れる。


「それでも、わたくしが費やした倍以上のお金は返ってきましたし、よしとしますわ」


 唇が痙攣するように震えている。

 身体中が緊張しているのを知覚する。


「頭の回転が早いココちゃんなら、もうわかってますわよね? SEXY NOVAグループで働いている者だけに与えられている権限を」


 唾液を飲み込むことさえ苦痛だった。少しずつの頭のうしろがしびれてくる。

 考えが黄金の脳全体に侵食し始めたとき、針中野が口を開いた。

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