第32話 かつての上司の無茶苦茶さ
「まったく聞こえておりませんでしたの」
そう言いながら、針中野は袂から煙草を取り出した。
「統括、ここは禁煙ですよ」
「あら、そうだったのですわね。存じ上げておりませんでしたわ。この建物に喫煙してもいい場所はありませんの?」
袂に煙草を戻しながら、針中野が訊ねた。
「喫煙ルームなら別の階にあります」
「でしたら、案内してくださる?」
黄金はその言葉に対し、無言で応じた。
針中野の性格は嫌と言うほど知っているため、それがお願いではなく決定事項だと瞬時に悟ったからだ。
黄金がエレベーターへと足を向けると、針中野がちょこちょことついてくる。
そして、扉が開くと、彼女は黄金より先に乗った。
次いで、黄金がエレベーターに乗る。
喫煙ルームのある階のボタンを押そうとして、戸惑った。
すべての階が赤く光っていたのだ。
犯人が誰かは容易に予想がついた。
どうしてこんなことをするのか、という言葉を黄金は呑み込む。
聞いても意味がない。
理由はあってないようなものなのだ。
黄金はひとつため息を落とすと、黙って閉のボタンを押した。
密室空間が作られたかと思うと、数十秒もすればすぐに扉が開く。
誰もいないのを確認すると、黄金はすぐに閉のボタンを押す。
しばらくはそれの繰返しであった。針中野に背を向けたままであるため、黄金には彼女の顔が見えない。
払い除けても払い除けてもしつこくまとわりついてくるような、威圧的な静寂が続く。
「どこに御不満があったんですの?」
ふいに耳元でささやかれた声に、心の臓が飛び出るように驚いて黄金は振り返る。
「あなたにとってどちらも好条件でしたのに」
針中野の目が黄金にぴたりと据えられた。
「給料が増えるですとかは興味がないとは思ってましたが、日本一の役者になることはあなたの夢ではなかったんですの?」
主語を省かれていたため、一瞬、何の話をしているのかわからなかった黄金であったが、そう言われることによりようやく人事のことであると気付き、言葉を紡いだ。
「かつての私でしたら、おそらくその条件に食いついていたと思います。統括がおっしゃった、日本一の役者になることは私の夢でしたので。ですが、今は違います。私があそこを離れてしまうと紫歩さんをひとりにすることになってしまいます」
「ひとりにはなりませんわよ。あなたの代わりにどなたかを配置すればいい話ですわ」
「わたしの言っているひとりは、一人とは違います、独りです。たぶん、子会社にするということは、親会社からの出向社員がくると思いますが、その方は紫歩さんの痛みを理解できないでしょう」
「あなたなら理解できると言いますの?」
針中野が小首を傾げて言い添える。
「少なくとも、新しく来る方よりかは」
片仮面に手を触れながら、黄金はそう返した。
「それに子会社にしたら、至極社長いわく声優アイドルを売り出すんですよね。そんな中に彼女ひとりを残すことはできませんよ」
「……それで紫歩さんを伴って退職するってわけですのね」
やはり盗み聞きされていたか、と黄金は心の中で舌打ちする。
「でしたら、異動はなしにしますの」
針中野は、自身の顎の下の辺りで手をパン、と合わせた。
「……はい?」
「と言うよりも、そもそも、わたくしはあなたを異動させるつもりなんてありませんでしたの」
まぶたをしばたたく黄金に向け針中野がにっこりと笑う。
タイミング悪く、また扉が開いた。
針中野が閉のボタンを押す。
「もし、本気で異動させるつもりなら、勝手にこちらで選んで、本人の意思なんて無視しますわ」
「たしかに私自身もわざわざ本人に選ばせる人事なんて珍しいと思ってはいましたが、でしたら、どうして二択を迫ったんですか?」
「その方が断然面白くなると思ったからですわ」
針中野は一切悪びれずにそう言った。
「それに声優アイドルの話も嘘ですの」
「えっ」
「そもそも、声優をマネジメントする事務所はSEXY NOVAグループ内に既にありますもの。新しく作っても意味はないですわ」
「だったら、どうして社長を通じて、私にそんな話をしたんですか?」
「そうした場合に黄金さんがどういう反応をとるか、気になったからですわ」
「……相変わらず発想が無茶苦茶ですね」
黄金は呆れたように声を裏返らせた。
「それがわたくしですもの」
針中野がふっとほほ笑む。
「それはそうと――」
扉が開き、黄金が閉のボタンを押そうとするのより前に、脇から手が伸びて針中野が閉のボタンを押した。
「その口調はどうしましたの?」
扉が閉まりきると同時に針中野が切りだす。
「口調とは?」
黄金がそらとぼけた声を出した。
「はじめは緊張されてるのかと思ってましたが、そうではないみたいですわね。それともあの時のようにココちゃんと呼べばよろしいですかね、『……』黄金さん」
黄金はその場で凍り付いた。
唐突に自らの本名を呼ばれたからだ。
「……相変わらず、人が嫌がることを平気でしやがるな」
「それでこそ、ココちゃんですの」
当時の記憶でも呼び起こしたのか、針中野は舌なめずりした。
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