第31話 時は動き出した
たった今、声を発したその人物は、至極が座っている輪転椅子の後ろからひょっこりと現れた。
大きく湾曲した二筋の流水が流れ、やや離れて桜が染め抜かれたあざやかな色彩の小袖が目を惹く。
痩身で、ところどころに白が混じった髪。
薄く紅を引いた唇が色気をたたえている。
「針中野……統括」
やっと出た言葉がそれだった。黄金は混乱の極みにあった。
一応体は微笑んでおこうとするものの、顔がこわばり裏腹の表情しか作れない。
黄金の目の前に姿を現したのは、かつてVOTの統括プロデューサーを務めていた
約十年ぶりに会うというのに、彼女の姿は白髪が増えたくらいで容貌そのものは、なんら変わりない。
黄金はかつての上司と至極を交互に見て、やがてかつての上司に視線を固定した。
「久しぶりですわね、黄金さん。今は統括ではなく取締役ですのよ。それはそうと元気にしていましたかしら?」
「元気でなければ、ここに来ることなくおとなしく家で寝てますね」
「まぁ、約十年ぶりに会うというのに、ずいぶんと淡白な反応ですわね。わたくしだけが楽しみにしていたみたいじゃありませんか。わたくしはこの日のために着物まで新調したといいますのに」
針中野は小袖の全貌が見えるようにその場でまわる。
「それに髪だって少し染めてきましたのよ」
針中野が髪の中に指を滑り込ませながら言う。
まるで、子供が珍しい玩具を見せびらかすような具合だった。
「ひとまず、そういう態度も照れ隠しの反応だと受け取っておきますわ」
優しく弧を描く眉。
そろそろ年増と言われる部類になるのだろうに、針中野は若さに満ち溢れていた。
「黄金さん、どうしてわたくしがここにいるのか戸惑っているような顔をしてますわね」
針中野がくすりと笑う。
「そういえばまだ説明を聞いてませんでしたものね。わたくし、少し席を外しますわ」
「おかまいなく」
針中野は黄金の遠慮を無視して、さっときびすを返すと、社長室からつむじ風のように出ていった。
彼女が出ていくと黄金の唇から、知らず知らずにため息がこぼれ落ちる。
「どういうことか説明していただけますか?」
至極が遠い目をしながら、唇を湿らせた。
ようやく押し出した彼の声は、不甲斐なくかすれていた。
「本社の過労死の件は知っているだろう」
「はい」
「おそらく会社は数日中に書類送検される。そうなれば、マスコミはこぞって書き立てるだろう。そうなると、何もしないでは示しがつかない」
「そういう風におっしゃるということはなにかお考えがあるのですか」
黄金の問いに、至極は弱くうなずいた。
「私の会社の社員を過労死させてしまったことは事実だ。だから、その責任をとり、次回の株主総会をもって、代表取締役の役職を退く」
「社長の後はどなたが就かれるんでしょうか?」
黄金にとって純粋な疑問だった。
至極のひとり娘であり、紫歩の母親であるその人は、既に他界していた。
婿入りした父親の方はというと、彼女が亡くなってしばらくしてから再婚し、美旗家と縁を切っていた。
そうなってくると、重役の人間がなるのであろうが、主要な重役たちは過労死事件にかかわっており、その者たちが後釜についても意味がない。
しかし、それ以外で社長にふさわしいと思えるような者は黄金には思いつかなかった。
「まさか、紫歩さんですか?」
「紫歩には無理だろう。アレは過去に生きている」
「でしたら、社長の後にはどなたが就かれるんでしょうか?」
「君の元上司だ」
「私の元上司とは?」
返事はなかった。分かりきったことを聞くな、という意味だろう。
黄金の上司は、後にも先にも針中野千草ひとりしかいなかった。
至極はひとつ咳払いをした。
「針中野は海外で取締役として目に見えて業績を伸ばした。そして、彼女は過労死事件の最中も海外でかかわりがない。うってつけの人材だ」
至極の言うことはたしかに筋が通っていた。
ただ、至極の言葉に、淡い翳りが落ちるのを黄金は感じる。
「針中野統括の人間性は抜きとして、確かに仕事に関しては素晴らしい人だと思います。ただ、そのことだけをもってして、次期社長にまでなるのは、はなはだ疑問があるのですが。そもそも、社長からのご指名もないと次期社長にまでなりにくいと思うのですが……」
黄金の言葉に、至極は眉間に三本のしわを刻んだ。
「私は彼女を指名した。私は彼女に弱みを握られている」
代表取締役社長の声とは思えない、弱々しいつぶやきがもれた。
「それは穏やかではありませんね」
「そうだ、穏やかではないんだ。これで彼女が優秀でなければ社長になんてまず出来ない。取締役会や株主からも不満が出るだろうからな。けれども、彼女は本当に出来るんだ。能力があるんだ。だから、私の指名が鶴の一声になってしまった」
至極の喉仏がぎこちなく上下する。
「弱みとはVOTのことと関係があるのですか」
至極がうなずく。
「わかってくれ。これは紫歩を守るためでもあるんだ」
瞳に切実な色があった。黄金は目を細めた。
「紫歩さんのためだなんてよくもいけしゃあしゃあとおっしゃいますね。アイドル事業部が子会社になる時点でまったく守れていないと思うのですが」
「否定はできんな。だが、彼女は当初そもそもアイドル事業部すら廃止しようとした」
「……信じられませんね」
「事実だ。彼女は復讐しようとしているのかもしれない」
「復讐? 社長がVOTを奪ったからですか?」
至極から反応はなかった。
「とにかくだ、紫歩を守るためにも異動してくれ、頼む」
至極は机に何度も額を押しあてて、それだけを言った。
「あまりにもムシが良すぎませんか? どうしてあなたの尻拭いを私がしなければならないのでしょうか?」
「いまさら、ムシの良い話だなんて重々承知している。……だったらどうすればよかったんだ」
低いつぶやきだった。
「あの時のことはずっと後悔していた。しかし、紫歩を守るためにはああするしか方法がなかったんだ。逆にどんな方法があった。教えてくれ、私はどうすればよかったんだ」
至極は顔を両手で覆う。彼の唐突な崩れようは異様なほどだった。
頭を抱えて、何度も髪をくしゃくしゃにしながら、大きなため息をつく。
「すまない、取り乱してしまった」
至極は長く息を吐く。
「君と私の紫歩を守りたいと言う気持ちは一緒だと思うのだが……」
言ってる意味が理解できたか、と言わんばかりに至極は黄金をじっと見つめた。
「わかりました」
「わかってくれたか! これで紫歩を守れる」
「退職いたします」
至極は渋面をつくり、唇を引き結んだ。
「退職いたします」
黄金は同じ言葉を口から漏らし、至極の顔を穴のあくほど凝視した。
「馬鹿なのか? そもそも、君が異動の条件をのまなければ、彼女はアイドル事業部を子会社にすらしないんだぞ。守る以前の問題だ」
「社長、あなたの方こそ馬鹿じゃないんでしょうか。統括は言ったことは絶対します。アイドル事業部を廃止すると言ったんでしょう。だったら、子会社にしてもゆくゆくは廃止するおつもりだと思います。紫歩さんおひとりであの方の謀略に立ち向かえると思えません。だったら、私は紫歩さんを連れて、新しい会社でも興します」
「新しい会社を興して意味があるものか。紫歩の時はあの日から止まったままなんだぞ」
ずっしりと重い声を腹から出して、至極は黄金を睨み付ける。
足先がいらだたしげにリズムを刻んでいるのか、机まで震えている。
黄金は貧乏揺すりから目を背け、腕時計に視線を落とす。
「そろそろ、新幹線の時間がありますので、この辺で失礼いたしますね。退職届は就業規則にのっとって後日提出いたします」
黄金は突き放すようにそう言い捨てると、くるりと至極に背を向けた。
「これで紫歩を守る手立てはなくなった」
至極の声には非難の響とまでは言わないまでも、軽い苛立ちとじれったさがこめられていた。
それを無視して、黄金は出口まで歩き、不意に何かを思い出したかのように振り返った。
「そうそう、紫歩さんの時は動きだしましたよ」
捨て台詞をひとつ残して部屋を出る。
至極が何か言ってるような気がしたが、シャットアウトした。
もちろん、『失礼いたしました』の言葉なんて言わない。
扉から出た黄金の姿に気付いた瞬間、壁にもたれかかっていた針中野は唇の片端を上げてにっと笑った。
二人の女性は、二メートルほどの空間を隔てて見つめあう。
「盗み聞きとは、マナーがなってないのではないでしょうか」
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