Chapter1.コウフクの緋い鳥
第29話 長時間労働による書類送検
「さっみーな、おい」
SEXY NOVAと白で刻印された自動ドアを通り抜けた黄金が、誰にも聞こえないようにぽつりとこぼす。
まだ4月中旬だというのに、SEXY NOVA株式会社本社ビル内には既に冷房が効いていた。
さすがに早すぎないか、と黄金が思っていると受付嬢が挨拶をしてくる。
「おはようございます」
黄金が名乗って本日の要件を告げると、受付嬢は笑みを浮かべた。
「ただいま確認いたしますね」
一言断ると、パソコン上でスケジュールが管理されているのか、受付嬢は傍らに置いているPCを操作し始めた。
液晶画面を見ながら、不思議そうな顔をする。
「すみません。明星黄金様でお間違いないですか?」
「はい、SEXY NOVAエンターテインメント株式会社、大阪営業所アイドル事業部部長、明星黄金です」
「そうですか。おかしいですね……アポイントの日程等お間違えはないでしょうか」
「再三、確認もいたしましたので、日程に間違いはないかと思います」
「わかりました。もう少々お待ち下さい」
言って、受付嬢は備え付けの電話でどこかへ連絡を取り始める。
ややあって、受付に一人の女性が現れた。
彼女は黄金の姿を認めると、一瞬表情を固くした。
「おはようございます」
黄金が挨拶をすると、引きつった笑みを浮かべながら、女性は挨拶を返した。
「平端係長、本日のアポイントなんですが……」
「明星黄金という名前の人間は予定に入ってないのよね」
平端と呼ばれた女性は、液晶画面を見ずに受付嬢の言葉を引き取った。
受付嬢が驚いたように口をぽかんと開く。
彼女のそんな様子など歯牙にもかけず、平端は黄金に向け、作ったような笑顔を浮かべた。
「明星部長、たしかにお約束されておりますね。ご案内いたします」
平端が社員証を手に取り、黄金に手渡した。
そうして、案内しようとする。が、それを受付嬢が遮った。
「平端係長、この時間のアポイントはこい――」
「いいのよ。この人で間違いないわ。黄金という名前はおそらく一致してるんでしょう」
「はい、黄金という名前に間違いはないんですが、名字が異なっておりますので」
「この方はそういう方なので、気にしなくていいわ。あとは私が案内しておくから、お願いね」
平端は受付嬢にそう告げると、自身の社員証を機械に読み込ませた。
黄金も同じようにして、彼女についていく。
運が良かったことに、エレベーターは一階で静止しており、誰かが乗るのを待っている状態だった。
黄金と平端はそれに乗り、社長がいるフロアの数字を押した。
扉が閉まる。
エレベーターが上昇し始めるとともに、平端が口を開いた。
「まだアイドル事業部にいらっしゃったんですね」
「ええ、あなた方が異動されてからも一人でやっていますよ」
黄金は義理で微笑んだ。
先刻から彼女がやりとりをしていた平端は、アイドル事業部が花形と称されていた時期に、当該事業部で経理等を一手に担っていた者であった。
「私が異動してから、どなたか所属はなされたんですか?」
「あなたが知っている2名を除くと、最近新しく1名入りましたね」
「そうですか。いつの時代も物好きはいるものですね」
「物好きがいなければ、おそらく私達の仕事はないんじゃないでしょうか」
「たしかにそうかもしれませんね。そういう点では物好きに感謝しないといけないのかもしれませんね」
二人が言葉のやり取りを繰り返していると、エレベーターが止まった。
しかし、扉の向こうには人がいる様子はない。
誰も乗ってくる気配がないのを確認すると平端は閉のボタンを押した。
再び、二人だけの空間になると、彼女は切り出す。
「部長、ひとつよろしいですか?」
「なんでしょうか」
「もう芸能人でもなんでもないあなたが、本名ではなく子役時代の芸名を使用するのは辞めていただけませんか? 先程のように、あなたのことを知らない人の混乱を招くことになりかねないので」
平端の言葉に黄金は何も返さない。
「過去の栄光にすがりつきたい気持ちもわからないでもありませんが、今のあなたはただの一社員にすぎないんですから、その辺りご理解していただけませんでしょうか?」
やはり黄金はすぐに返答しなかった。
少し間があって、彼女が口を開く。
「今の私は明星黄金に間違いありませんよ」
短いながらも確固たる意志が込められた口調であった。
「昔からそればっかりですね」
平端はこれ以上何を言っても理解は得られないと言いたげに、ため息をつく。
それからは二人とも一言も発さなかった。
しばらくすると、社長室があるフロアにエレベーターが止まった。
「あとのことについては、秘書がおりますので、そちらにおうかがいください」
開のボタンを押しながら、平端が言う。
黄金がエレベーターから出ると、扉はすぐさま閉められ、上部に書かれている光る数字はだんだん大きくなっていった。
「くっそ、てめぇに何がわかるっつーんだよ」
周りに誰もいないことを確認すると、黄金は外面用の仮面を一瞬外し、小声で愚痴った。
「今のオレは明星黄金なんだよ」
誰に言うでもなくそうつぶやくと、黄金はその場から歩き始めた。
社長室のすぐそばまでいくと女性が控えていた。
黄金は本日アポイントを取っていることを彼女に話す。
「社長なのですが、先のアポイントが少し延びているようです。もうしばらくこちらでお待ちください」
黄金は社長室に隣接した応接室に導かれた。
「おやおや、大阪営業所の事業部長さんじゃないですか。珍しいですねぇ」
応接室には先客がいたようで、入った瞬間、黄金はそんな言葉を投げ掛けられた。声の主に視線をぶつける。
大体歳は四十代後半ぐらいの男で、灰色の背広を着ていた。よく言えばふくよかで、悪く言えば肥えている。
ごま塩頭で、額と言わず顔中が脂ぎっていて、彼女は不快感すらおぼえた。
会った記憶が思い出されない。そもそも、この肥満漢の名すら出てこない。
仕事をするうえでさほど重要でない人間はすぐに忘れてしまうため、たぶんこの人間も所詮、その程度なのだろう。
黄金がぼんやりとそんなことを考えていると、男が口を開く。
「さぁさぁ、立っていてもなんですから座ったらどうですか」
「そうさせていただきますね」
黄金は、にこりとわざとらしくほほ笑んだ。
彼女がソファーに浅く腰を掛けるなり、男がまた声を掛けてくる。
「いやぁ、景気がいいんですかねぇ。それ値が張りそうじゃないですか」
「このバッグがですか」
黄金は困惑した。男が言ったのは、彼女が身体の横に置いたグレージュカラーのナイロントートバッグのことだった。
「どこかのブランド品ですかねぇ」
「忘れてしまいましたが、そんなに高いものではなかったですよ」
「いやいや、女の高くないは、我々みたいな男にとっては高いって思ってしまうんですよねぇ」
本当にそんなに高いものではなかった。
なんなら、ブランド名すらわからないレベルのもので、価格も確か2980円ぐらいだった。
こんなものを見て、高いというのは目が腐ってるのだろうか。
顔には出さず、黄金は純粋にそう思った。
男が大袈裟なそぶりで腕時計に視線を落とす。
「それにしてもなかなか終わらないですねぇ」
「そうですね」
「やはり、エンターテインメントの本社の件で送られるのが決まってるんで、その間にいろいろしておきたいんじゃないですかねぇ」
「そうかもしれませんね」
黄金は他人事のように答えた。
先般、東京の本社で過労死した社員が出てきたのを受けて、厚生労働省が立ち入り調査を行ったところ、何名かの過重労働が常態化していることが明白になった。その結果、本社の幹部陣に対し、聴取が行われていることは社内文書で回覧されてきていた。
そうなると、書類送検は時間の問題だと黄金自身薄々考えてはいた。
「エンターテインメント本社のマネジメント業は特に忙しいって評判でしたからねぇ。まっ、名古屋も十分忙しいのは忙しいんですがねぇ。大阪はどうなんですか?」
黄金がどう答えたものかと迷っている最中に、次の質問が飛んでくる。
「あぁ、すみません。大阪のアイドル事業部は他の事業部とは別のところにあったんでしたっけ、それじゃあわかりませんよねぇ。失礼しましたねぇ、で、アイドル事業部は忙しいんですか? うちにはもうアイドル事業部なんてものはないので非常に気になるんですよ」
黄金は男を見た。
人をいびるのに生きがいをもっているのだろうか。
爬虫類を思わせるような嫌悪感を抱く目をしていた。
質問もどうやらわざとのようだった。
名前は未だ思い出せないが、思い出す必要もないと黄金は考えを改める。
「名古屋ほどではないですよ」
「そりゃ、たかだか一事業部が一営業所ほど忙しかったら、それこそ問題ですよ」
男が小馬鹿にしたように笑う。
「あっ、でも同じ管理職なので、給料は一緒なんですよねぇ。いやぁ、あまり働かずに同じだけもらえるなんて、羨ましい限りですよ」
「アイドルはあまり所属してませんけど、プレスリリースの関係などで結構本社からお願いされることが多いので、暇ってわけでもないですよ」
黄金は怒りを抑えて、努めて冷静に返した。
と、彼女の身体が無意識にぶるっと震える。
併せて、下腹部の辺りにこみあげてくるものがあった。
男がちらちらと彼女を見ながら何やら話しているが、耳に入ってこない。
黄金は突然バッグを持って、無言で立ちあがった。
男が驚いたような反応をする。彼は未だに額といわず顔中に汗を浮かべていた。
(こんな寒い部屋で汗かくとかおっさん何者だよ)
黄金は心の中で突っ込みを入れながら、急いで応接室から出ていった。
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