第28話 思い付きで行動すると大抵は失敗する

「……ありません」


 動揺をひた隠し、ましろがそう答える。

 赤い狐はたった今差し出した紙片とましろの顔を何度か見比べて、小さくつぶやいた。


「心当たりがない、か」


 紙を見えるようにしながら、赤い狐はましろにじっと視線を注いだ。


「君のスカートのポケットから落ちたものなんだけどね」

「えっ」

「心当たりはないか、とさっきは聞いたけれども、お手洗いを出てすぐ君のスカートのポケットから落ちたところを僕は見ているんだよ。試すような真似をして悪かったね」


 ゆったりした言葉だったが、喉元に突きつけられていた刃先がさらに近づいたような錯覚をましろはおぼえる。


「もう一度聞くよ。本当に心当たりがないのかい?」


 やや間があってましろが答えた。


「……すみません。実は心当たりがあります」

「だとすると、いったいこのメモはどういう意味なんだい?」

「わかりません」

「わからない?」

「はい、それはさっき私が拾ったものですから」

「拾った?」

「忍海さんに案内してもらってるとき、紙が落ちててゴミかなにかかなって思ったので、あとで捨てようとポケットに入れておいたんです。お店にあるポスターにも清潔さや清掃は大事って書いてましたし」

「たしかに君の言うとおり、清潔、清掃これに整理、整頓を併せた4Sは職場の安全衛生を保持するために重要な要素だ。これにしつけ、も加えて5Sともいわれることもある。飲食業というと危険の多くは、調理時に調理器具や包丁で指を切ったりすることのように思われているが、その実最も多い危険は転倒災害なんだ。そして、この転倒災害というのは4Sをすることによって少しは危険のリスクを減らすことが可能だ。そのほかにはリスクアセスメント、ヒヤリハットも――」


 ちんぷんかんぷんな話を聞いて、ましろが押し黙っているにもかかわらず、赤い狐は一方的に喋る。とめどもなく言葉があふれてくる。


「――ハインリッヒの法則とは……ン、ンン」


 我にかえったように、突然赤い狐が咳払いする。


「と、また、脱線してしまった。すまないね。となると、君は拾ったものをゴミだと考え、ポケットに入れた、そういった認識で問題ないってことだ」

「はい、間違いありません」


 果たして、赤い狐面はましろの返事をいぶかしく思ったらしかった。


「それにしては、君の履歴書の文字と特徴が一致しすぎている。というよりも同じにしか見えないんだよ、僕には」

「偶然じゃないんですかね。私の文字自体特徴的ってわけでもないですし」


 追い込まれて、つい、返事が曖昧なものになる。


「それにしてもここまで一致することはまずありえないと思うよ」


 誰が見ても一目で分かるほど目が左右に泳いでいた。

 ましろはため息を吐くしかなかった。

 どう言い繕えばいいかさっぱりわからない。

 そもそも、いつの間に目の前の人物は履歴書を見たのか。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 幾度となく、自分自身にそう問い質す。

 しかし、一向に答えは出てこない。

 なんと迂闊なことだったか、紙さえ落とさなければ、こんな疑いがかけられなかったことを考えると、自分に腹が立つ。

 そんなましろの心中など歯牙にもかけず、赤い狐は構わずたたみかけた。


「君は純粋にここで働こうとして応募したんじゃない」


 声を一オクターブ低くする。


「理由はわからないが、君はここに二人がいることを知っていた。そして、二人に近づこうとしてこの店で働こうとした。そんなところじゃないのかい?」


 赤い狐は自信に充ちた口調で明言した。

 ましろの背筋にツーと冷たい液体が走る。

 滴が流れたのに反応してはいけない、と身を固くした。

 一度目をつむってからゆっくりと口を開く。


「お礼を言いたかったんです」

「お礼?」

「私はさっき、忍海さんのファンだってことを言いましたけど、正確に言うと、riwegのファンなんです。私は彼女たちの曲に過去救われました」

「ファンがそもそも好きなアイドルの名前を、メモするかな」

「私、ライブに行ったことがなくて、CDしか持ってないので、名前を忘れたらどうしようって心配しちゃって……。お礼を言うのに名前を万が一忘れてしまったら失礼じゃないかな、と考えるとメモしないとなって思ったんです」

「ライブには行ったことがない? それは事実かい」

「はい、行ったことありません。CDを聴いてファンになりました」


 ましろがそれだけ返すと、赤い狐が押し黙った。


「……赤い狐さん」


 赤い狐の様子をいぶかしげに思ったましろが声をかける。

 赤い狐面の下で不敵な笑いがこぼれた。


「戸田ましろ、君はたった今墓穴を掘った」

「何か変なことを言いましたっけ?」

「あぁ、CDだけだとこのメモを書くことは不可能なんだよ。ジャケットに書いているおしみゆすらのゆすらは桜に桃じゃなくて梅なんだ」

「えっ」


 ましろの声が裏返る。


「そして、riwegはその一枚を出してからはCDを出していない。だから、CDの知識だけで桜桃の字が出てくることはまずあり得ない」

「でも私が見たのはHPで――」

「ちなみにHPの誤字表記も訂正されていない。プレスリリースの段階で忘れられたのかは定かでないけれども、各種CDショップや通販サイト等も梅のほうだ。ライブではMCで本当は桃であることを話したけれどね。しかし、さっき君はライブには行ったことはないと言っていた」


 鋭い洞察力に皮膚が粟粒を立てる。


「それだけ嘘に嘘を塗り固めているとなると、お礼というのもたぶん嘘だろう。そうなると、君は一体なんのためにriwegの二人に近付こうとしたか。そもそも、なぜこの二人がここで働いていることを知っていたのか。思えば、ちょうど忍海が誰かに見られている気がすると言い出したのは、最近のことだったよ。君はこのこととなにか関係があるんじゃないか? もしくは君自身がそのストーカーなんじゃないか?」


 ましろは唇を噛んだ。

 赤い狐が語ったことに心当たりはなく、そもそもストーカーではない。

 間違いなくそれは事実である。

 けれど、それを否定するためには、ましろがアイドル事業部に所属しており、黄金から頼まれていたことを説明しないわけにはいかない。

 そうでもしないと目の前の人物は納得しそうになかった。


「だんまりってことは認めたのかな?」


 ましろの身体の底から鼓動が突き上げてくる。

 なんとかアドリブで頑張ったが、やはりある程度の台本がないと、自分の手には負えない。

 そう思うと足は更衣室の出口を目指していた。

 いきなり突進すれば、赤い狐も避けるだろうという予想のもとでした行動であった。

 事実、更衣室の扉前に陣取っていた赤い狐は身をひらりとかわす。


「話を聞かせてもらえないか」


 ましろの手がドアノブに触れようとした瞬間、耳元に声が飛び込む。

 と、同時に、足が動かなくなり、腕には痛みが走った。

 助けを求める声が喉のところまででかかったが思いとどまる。

 気が付けば、ましろは腕を後ろ手にねじあげられていた。


「声をださないとは、正直おそれいったよ」


 赤い狐は力を緩めることも、それ以上締め上げることもしなかった。


「大人しくするんだ。さぁ、スト―カーとの関連性を自分の口から白状したまえ」

「私はストーカーじゃないです」


 納得しないだろうことは予想しながらもましろはそう主張した。


「であれば、あのメモの意味を教えてもらえないかい?」

「だから、忘れないようにって」

「それ以外にあるだろう」


 説得はあきらめるほかないようだった。

 力での説得を試みようと、そこそこの筋肉に力を入れても、拘束している力が強いため、逃げられそうにない。

 不審者と間違われ、挙げ句今度はストーカー呼ばわりされ、腕を拘束される。

 不幸をにかわで固めたような今日この頃に、どうしてこうも神様は追い討ちをかけてくるのか。

 ましろはぼんやりとそんなことを考えた。


「必ず自白させてみせる。そして、さ……忍海を安心させる」


 赤い狐が少しだけ力を入れた。

 鈍い痛みがましろに伝わる。

 手足をじたばたと動かし、必死に抵抗した。

 申し訳程度の筋肉に力を入れても、やはりびくともせず、逃げられるはずもない。


「強情なやつだね、君も」


 赤い狐が機械的に発音する。

 表情は見えないが、呆れているだろうことは、ましろ自身容易に予想がついた。

 あきらめずに拘束されていないほうの手をじたばたさせていると、振り回していた手が何か固いものに当たる。

 直後、言葉にはならない声が、赤い狐面の下からほとばしった。

 と、ほとんど同時に拘束されていたましろの腕がゆるむ。


 逃げようと必死にじたばたしていたせいか、ましろの身体はそのまま前に倒れ込んだ。

 床がましろをのみ込もうとするかのように、近付いてくる。

 本能が大慌てで防御機能を総動員するも間に合わない。

 実際の時間は床と衝突するまでは数秒程度であった。

 しかしながら、ましろの体感では倒れている間に数十秒が経過しているような気がした。

 すべてがひどくゆっくりと流れている。

 異様に静かであった。


 ふいに更衣室のドアが勢いよく開いた。

 そこから忍海が顔をのぞかせる。

 ましろの方を見ながら、何か叫んでいるらしいのだが、声はまったく聞こえない。

 床には、今の今まで赤い狐が付けていた仮面が転がっている。

 何もかもがあまりにもはっきりと見え、冷静に状況を分析している自分自身がひたすら不思議であった。

 ふと、真空状態に近くなった頭の中で囁くものがあった。

 ましろが地元を出るときに友から言われた言葉だ。


『もう少し考えてから行動しないと、いつか後悔することになる』


「ういちゃんの言うとおりだったね」


 そう自嘲気味につぶやくも、頭の中の彼女は笑ってくれそうもない。

 ましろの鼻柱にめりこむような激痛が走る。

 そのまま、なにかが弾けたように、意識は溶け込んでいった。

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