第25話 緑の狸はどこですか?

 音もなくその者はそこにいた。

 扉を開けたことすら、ましろが気付かなかったくらいだ。


「聞こえていないのか? 君に言ってるんだぞ」


 赤い狐面の者が近づき、硬直しているましろの肩をポンとたたく。


「ひゃ、ひゃい!」


 ましろは後ずさりしながら、すっとんきょうな声を洩らした。


「そんなに驚かなくてもいいじゃないか。いったい君は何をしてたんだ?」

「えっと、私……」


 何をしているか、と訊ねられるとどう回答すればいいかましろ自身悩んだ。

 忍海がダンスしているのを見たいと言った結果、彼女は足の小指をしたたかにロッカーに打ちつけた。

 事実だけを切り取ればそうなる。

 しかし、その事をただただ語れば、どうしてそうなったかの経緯まで明らかにせねばならない。

 そうなると、口止め料としてダンスを要求した自分のあさましさが露呈するようで、すんなり言葉にはならなかった。


「答えられないようなことなのかい?」


 赤い狐面越しに疑惑のこもった目でましろの顔を見据えながら、冷やかに言い放つ。 


「そうではないんです」 


 ましろは身体を小刻みに震わせる。

 それを見て、赤い狐面の者ははぁ、とため息をついた。


「勘違いしているようだから言っておく。別に僕は怒ったりするつもりは毛頭ない。廊下を通っていたら、ガン、という音がして、扉を開くと君がいたから怪我でもしてないか心配しただけだ。見た目だけではわからないからな」

「私は怪我はしてません。でも、何をしていたかっていう質問は答えたくありません」

「別に答えたくないならいいんだ。怪我をしていないなら、それでいい」


 そう言うと、赤い狐面越しにましろを見る眼差しが唐突にやわらいだ。


「赤い狐さんはお優しいんですね」

「赤い狐?」


 アルトボイスが響く。


「すみません。装着しているのが、赤い狐の面だったので勝手にそう呼んだんですけど……」

「あぁ」

「差し支えなければ、名前を教えてもらえませんか?」


 ましろがもじもじしながら訊ねた。


「僕の名前かい? そんな情報を聞いてどうするんだ?」


 赤い狐はかすかに眉間にしわを寄せた。


「あの、その呼び方に困りますし……」


 ましろの言葉はだんだん尻すぼみになっていく。


「それなら、赤い狐でいいよ」


 嘆息するように赤い狐は言った。


「本当に怪我はしていないようでよかったよ。労災の件数が増加するのは僕としても避けたいところだからね。まぁ、君が労働者に該当するかについては、疑義が生じるところではあるが……。それはそうと、ここは更衣室だからこんなこところにまだ採用もされていない君がいると、人によっては泥棒か何かだと間違われる可能性だってあるんだからな。気を付けた方がいい」

「すみません」


 ましろは心底申し訳なそうに謝る。

 赤い狐は口が過ぎたと思ったのか、気が差した素振りで、ごほん、と咳払いした。


「いや、僕の方こそ怒らないと言っておきながら、怒ってしまってすまない。これは自分でも治さないといけないところだと僕も思ってる。と、また、話がそれてしまったね。ところで、君に少し聞きたいことがあるんだ」

「私に聞きたいことですか?」

「そうだ。さっきまで君と一緒にいた、さ……そうか、名前を言ってもわからないな。えーっと、薄茶色の髪をした狐面がどこにいるか、知らないかい?」

「忍海さんのことですか?」

「なんだ、名前を知っていたのか。彼女が初日から教えるとは意外だな」

「別に教えてもらったわけではないんですけどね」

「ふぅん、となるとファンか。でも、そうなると……」


 赤い狐があごの辺りに手を当てながら、ぽつりとこぼす。


「どうかしましたか?」

「いや、こっちの話だ。君は気にしなくていい」

「そうですか。で、忍海さんでしたら――」


 そこでましろは言葉を中断させる。耳元でかすかに声がしたからだ。


「ましろーん、ここはやりすごして」


 ましろにだけ聞こえるほどの声量で忍海が言う。


「ん、どうかしたのかい?」

「わ、私の案内をしてくれたあとは、ど、ど、どこかに消えてしまいましたね」

「そうか。だったら、君にもわからないということか。まったく彼女には困ったものだ」

「なんで赤い狐さんは忍海さんを探しているんですか?」

「実は僕たちは交代で休憩をとっているんだが、忍海の休憩時間がもう終わってるんだよ」

「そうなんですか」


 ましろは二重の意味で訊ねた。


「実際問題そうなんだけど、まだ五分程度しかたってないよん。頭固すぎだよね」


 また、ましろの耳元にふっと息が吹きかかった。


「そうなんだよ。もう既に五分過ぎている。彼女がこの場にいれば、たった五分程度でそう目くじらを立てないで欲しいという趣旨の言葉を述べるだろうが、規則は遵守すべきだ。仮にも仕事だぞ。僕たちが賃金をもらう労働時間分はきっちり働くべきだ。今後、君がここで働くことになるんだとしたら、そのことだけはゆめゆめ忘れないでもらいたい」

「わ、わかりました」


 そのまま、赤い狐が更衣室から出ていこうとする。

 ましろがホッと安心した瞬間、後ろででカサリと音がした。赤い狐がバっと振り返る。


「今、何か音がしなかったかい?」

「き、き、気のせいじゃないんですかね」

「いや、確かに聞こえたんだが……君の後方辺りで」

「私には聞こえませんでしたけどね」


 ましろは、さり気無く、忍海が隠れているであろう場所の前に立った。それが怪しかったのか、赤い狐が言葉を投げた。


「君の後ろになにかあるのか?」

「なっ、なーんにもないですよ。あははは」


 ましろ自身でも自覚するほど嘘が不自然だった。その反応に赤い狐は出口へ向けていた足を方向転換させる。

 一度拉し去ったはずの猜疑心が再び芽生えたようだった。ましろの目の前に赤い狐が仁王立ちした。


「少しのいてもらえないか?」


 一度目の言葉に対し、ましろは素直に従わなかった。


「何を隠してるんだ、君は。のきたまえ」


 ぞっとするほど冷たい声であった。

 流石に二度目は無視できなかった。

 言葉に従い、身体を横によけたましろは、万事休すかと目を閉じる。


「なんだ、使わなくなったステージ衣装やらなんやらじゃないか。なんでこんなところに落ちているんだ」

「えっ」


 ましろの耳に予想外の言葉が届く。赤い狐の言葉の中でまったく忍海に触れられていなかった。先刻まで彼女がいたはずの場所に視線を投じる。そこにはもう彼女はいなかった。ましろは安堵のため息をもらす。


「待てよ。これを隠そうとしていたとなると、先程の音は君がこれらを落としてしまったことと関係があるのか」

「……はい。実はステージで見たパフォーマンスに影響されて、踊ってたんです」

「ここでかい?」

「はい、私かなり影響されやすいタイプなんです。それで、テンションが上がりすぎてしまって、ロッカーやら棚やらに色々とぶつかってしまって……」


 嘘をつくのが苦手であることはほかならぬ自分が一番知っていたため、主体を自分に変えたうえでましろはすべて事実を話した。


「すみませんでした!」


 ましろは誠心誠意頭を下げた。


「顔をあげてくれたまえ」


 赤い狐は腕を組んだ。


「なるほど。だから答えられなかったのか」


 それで、赤い狐は納得したようだった。


「僕が後できちんと整理しておくよ。今回は結果として大怪我には繋がらなかったからよかったものの、こんな場所で本来ダンスは踊るものではない。今後は気をつけるんだよ」

「はい」

「それと、ひとつ質問してもいいかい?」

「質問ですか?」

「あぁ、君と忍海の関係はなんなんだ?」

「それってどういう質問ですか?」

「言葉どおりの意味だが」


 赤い狐が短く返した。そんな簡単なことがわからないのは、君がわるいとでも言いたげに。


「案内してもらっていただけですけど……」

「それ以上でも以下でもないか」

「はい。ただそれだけです」

「そうか」


 釈然としない様子で赤い狐はうん、と一つ頷くと、更衣室から出ていった。

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