第26話 接近注意報

 赤い狐が更衣室から出ていくと、再びましろは衣装の類がごちゃごちゃとなっている山に視線をぶつけた。

 やはりそこに忍海の姿はない。

 ましろが不思議に思っていると、


「だーれだ」


 柔らかい声が届くと同時に視界が何かに遮られた。

 フローラルの爽やかな香りが、ましろの鼻の中に入り込んでくる。


「忍海桜桃さんですよね」

「ぶっぶー」


 忍海が不正解音を口で作る。


「どこからどう聞いても声が忍海さんなんですけど……」

「ぴんぽん、ぴんぽん! それなら正解だよん」


 忍海が今度は正解音を作る。

 とたん、ましろの視界に、つい先刻まで見ていた更衣室の変わらぬ光景が広がった。

 首だけ振り向かせる。

 そこには、素顔の忍海が頬の横辺りで小さく手を振りながら、立っていた。


「やっぱり忍海さんじゃないですか。って、いつの間にそこに移動したんですか?」

「んー、ましろんがかばってくれた時にはもう移動してたかな」

「全然気付きませんでした。それより怪我は大丈夫なんですか」

「一時的にはしびれるような痛みがあったにはあったけど、もう今は完全に回復した感じ」


 忍海はその場で足踏みを始める。


「あぁ、無理しちゃだめですよ!」

「だから、大丈夫だってば。ほんと今はなんともないし。ましろん、心配してくれるのはありがたいけど、少ししつこすぎるとちょっと、ね」


 言って、忍海はうるさそうに顔の前で小さく手を振る。


「それにしても」


 忍海がキラんと目を輝かせ、正面からましろに飛びつく。


「ましろん、誤魔化してくれてありがとね」

「お、忍海さん」


 突然の彼女の行動に、同性ながらましろはどぎまぎとする。

 それがまったく伝わってないのか、彼女は言葉を続けた。


「いやー、ほんとアイツにあそこで捕まってたら、かなーりメンドクサイことになってたと思う。うん、いや、絶対なってたわ。ましろんにあんな質問したぐらいだしね」


 何かを言ってることぐらいは理解できたが、話の半分もましろの耳には入ってこない。

 先刻よりもいっそう彼女と密着した結果、くらくらするぐらいフローラルの香りがましろの鼻腔に流れ込んでくる。


「アイツもまぁ、悪い奴じゃないんだけど、アタシのこととなると、ほんとにもう、ね。まぁ、そんな一途なところにアタシは惹かれたっていうか……ってアタシなに言ってんだろうね。なにはともあれ、ほんとましろんありがとね……って、あれ、ましろん?」


 あまりに反応がなかったからか、そんなましろの只ならぬ様子にようやっと忍海が気付く。

 一瞬、ぽかんとしたが、彼女は唇を三日月の形に吊り上げながら、ニヤニヤと笑った。


「もしかして、ましろんドキドキしてる?」


 ましろは何も返さない。


「すっごい心臓バクバクしてるのが伝わってくるよん。もしかして、あんまりこういうことしたことない?」


 依然としてましろは何も返さない。完全に図星だったからだ。


「初心な反応。このまま食べちゃいたいぐらい」


 忍海が舌舐めずりをする。本能的に危機を察知して、ましろは腕をつっぱった。忍海と身体が離れる。

 ましろは二、三歩後ずさりして、彼女の気をそらそうと心に留まっていた問いを投げ掛けた。


「さっきのってどういうことですか?」

「何のこと?」

「私が『忍海桜桃さん』、と言った時にぶっぶー、って言って、『忍海さん』って言った時にはぴんぽん、ぴんぽん、って言ったことです」

「そのまんまの意味だけど」 

「『忍海さん』なんですよね?」

「うん」

「『忍海桜桃さん』ですよね?」

「今のアタシは違うよん」

「いやいやいや、忍海桜桃さんですよね?」

「だから違うってば」


 ましろはじっと忍海に視線を注ぐ。

 彼女の瞳は吸い込まれそうなほど真っ直ぐで、嘘などついていないようだった。

 けれども、今、目の前に立っている彼女は黄金に見せてもらったCDの忍海桜桃と瓜二つである。

 くわえて、ましろが彼女の狐面の中の素顔を見た時は、バレてしまった意味合いの言葉を吐き、あまつさえ、口止めをしてきた。

 そのことからも彼女が忍海桜桃であることは間違いない。

 であるにもかかわらず、正反対の忍海の返答に、ましろの頭の中には際限なく疑問符が生まれ続ける。

 そのようなましろの表情を見て、彼女は苦笑した。


「そんな考えるようなことじゃないよん。んー、簡単に言っちゃったら、忍海桜桃はアイドル活動用の名前で本名は違うってこと」

「そういうことだったんですか」


 言われて、ましろは合点がいった。

 姉のことは例外ではあるものの、アイドル等の芸能活動をしているものの多くは、偽名で活動している者が多いと聞いたことがあるのをふと思い出したのだ。


「もうバレっちゃったから言うけど、アタシの場合は忍海って姓は本名と同じで、名前だけ違うの。相方は本名だったんだけどね」


 それだけ言って、忍海は自身の唇の前で人差し指を立てて、言外に秘密であることをにおわせる。


「なるほど」


 納得していると、忍海がその場からそっとましろに近付いた。

 ましろは無意識のうちに身構える。

 彼女がましろへ向け、腕を伸ばす。何かされる、と思い目を瞑る。しかし、いつまでたっても彼女が触れるような気配は感じられない。

 ましろがおそるおそる目を開けると、忍海は伸ばした右手の小指だけを立てていた。不思議に思って、彼女に視線をぶつける。


「指切りげんまん。今の話とさっきの約束破られちゃうと困るから」


 無邪気にそんなことを言われて、よりいっそうましろの中で罪悪感がつのる。

 言ってしまえれば、と思うものの、口は糊付けされたかのように動いてくれそうにない。


「まーしろん、早く、早くー」


 躊躇いながらましろは忍海が差し出す小指に自身の小指を絡める。

 と、彼女の潤いのある唇がはにかむようにほころび、言の葉を紡いだ。


「ゆーびきりげんまん、嘘ついたらましろんのこと食べちゃう――」

「なんか私の知ってるのと違うんですけど……」

「細かいことを気にしちゃダメだよん、ましろん。針千本は痛いでしょ」

「食べられちゃうのも痛いと思うんですけど……」

「ほんとに食べるわけじゃないから、大丈夫、大丈夫」

「それって――」


 想像して、ましろの頬が紅潮する。


「その反応、本当にいいわー。ましろんはからかいがいがあるなー。はい、ゆーび切った」 


 指を解くと、忍海は頬を緩ませながら、バックステップを踏んだ。

 途中、床に転がっていた衣装に足をとられ、よろめきかける。


「本当に忍海さん、足は大丈夫なんですか?」

「もぅ、ましろんはさっきから疑り深いなぁ」


 忍海が唇を尖らせる。


「そんなに言うんだったら、証拠見せてあげる。ほーら、このとおり」


 忍海がその場でとんぼを切ってみせる。

 が、少しは指をぶつけた影響があるのか、着地点がほんの少しずれた。


「あれっ」


 忍海から予想外の声がもれる。

 着地点がずれた結果、彼女は衣装の類が散乱となっていた地帯に降り立った。

 二、三歩たたらを踏むようによろめく。


「おー、ましろん避けて!」

「そ、そんな急に言われても」


 忍海が忠告の言葉を吐くも、ましろはあたふたとなり逃げ遅れた。

 結局、彼女はそこに立っていたましろに正面から抱きつくような形になった。

 結構なスピードが付いていたからか、ましろは受け止めきれず、二人は重なり合うように倒れ込む。


「イタタタ、失敗、失敗」

「だ、大丈夫ですか!?」


 下敷きになっていたましろが首だけ起こす。

 すぐ近くに忍海の顔があった。もうあと数センチも近付けば、唇が触れあう距離である。


「アタシは大丈夫だけど、ましろんの方こそむしろ大丈夫?」

「私も下に衣装とかがあったんで、直に頭はぶつけてません」

「それなら、よかった」


 忍海がほっとした表情になると、ガチャリ、と突然扉が開いた。

 少し遅れて誰かの足音がわく。

 下敷きになっているましろには誰が入ってきたのか見ることが叶わない。

 代わりに忍海の視線が、そちらへ動く。


「えっ」


 忍海は情けない声を漏らした。


「嘘でしょ」


 彼女の瞳には純粋に困惑だけが浮かんでいた。

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