第24話 かもしれない、を解明することこそ至上命題なのかもしれない

「やっ、へっ、あっ」


 忍海がペタペタと自身の顔を触る。

 現状を把握した彼女は、地面に転がった狐面をぼんやりと見た。

 次いで、ましろの顔を眩しそうに眺める。

 血の気がサーっと引いたような表情を作ると、バッと顔を覆った。

 その動作があまりにも勢いをつけてしまっていたせいか、身体を反らした不安定な体勢になる。


「えっ」


 そのまま、彼女は脚立から落ちそうになった。

 気付いたときにはましろは行動を起こしていた。

 少し離れて突っ立っていたところから、すぐさま走り出す。

 忍海の身体が宙に投げ出された。

 (間に合って!) 

 祈りながら、受け止めようとすべりこんだましろの腕にはいつまでたっても、衝撃が伝わってこなかった。

 代わりに少し遅れて、トン、という乾いた音がましろの耳に届く。


「やー、焦ったわー」


 顔を手団扇で仰ぎながら、今まさにその音を発生させた張本人たる忍海はましろを見た。


「ん、ましろん、なにしてんの?」


 地面に寝転がりながら、腕を前に出し、ましろはまじまじと忍海を見つめ返す。

 黒いストッキングに包まれた、彼女の形のよい足が空気にさらされており、スカートがほとんど太ももぎりぎりまでめくれていた。


「あぁ、スカート引っかかっちゃったのか」


 ましろの視線に気付いたのか、きゃっ、というわざとらしい声とともに忍海はそう言って、スカートを元に戻した。


「ましろん、いつまでそんな格好してんの? サービスは終了したよん。もしかして、その角度だったら、見えちゃうのかな?」

「見えません! って、そうじゃないですよ! 今のなんですか!」

「えっ、ブランド? ちょっと忘れちゃった。何、ましろん、あのパンツ気にいったの?」

「今、パンツの話はしてません!」

「じゃあ、何の話?」

「さっきの空中での動きですよ!」

「あれ? 普通にとんぼ切っただけだけど」


 言って、軽々と忍海はとんぼを切って見せた。

 今度はスカートを引っかけるなんてへまは見せない。

 ましろはまたもや探るように彼女を見た。

 ただの宙返りというレベルではない。

 まるで背に羽根でも生えてるかのように、長く空中にとどまっていた。

 それは、ましろがさっきPieuvreで見たパフォーマンスに似てるようでもあり、似ていないようでもある。

 しかし、やはりどこかしら似ているような気がした。


「見惚れちゃうのもいいけど、もうサービスはしないよん」


 フリルのあしらわれたスカートをひらひらとさせながら、忍海が白い歯を見せた。


「……さっき、ステージで見たっていったの忍海さんだったのかもしれません」


 ましろは忍海のおふざけはスル―して、彼女の目を見ながらはっきりと言った。

 予期せぬ返しだったからか、忍海がマスカラをした大きな目を、さらに大きくさせる。


「そっか。もしそうだったら、結構うれしいかな。……ねぇ、もしかして、アタシのファンだった?」

「えっ」

「忍海桜桃の名前を知ってるんでしょ、ましろん」

「はい」


 忍海が舌の先をわずかに出して、軽く噛む。


「やーやー、アタシの人気も捨てたもんじゃないってことかな?」


 忍海ががわざとおどけた調子で言った。照れくさそうでもあった。

 しかし、それだけを言うと、表情を顔から消す。

 そうして、電池の切れかけたおもちゃのように、突然寡黙になった。

 彼女は床に投げ出された狐面を拾うと、顔を半分だけ覆った。


「アタシがここにいるっていうのは秘密にしておいてもらえるかな? お店に迷惑掛かっちゃ嫌だし」


 忍海の耳に揺れる翡翠がきらりと光った。


「もちろん、ただでとは言わないよ。ましろんのお願いをひとつだけ聞いてあげる。あっ、アタシにできる範囲のことね」


 ましろは、出ない唾を無理にのみ込もうとした。言葉が出てこない。

 それは黄金の頼みごとと相反することだったからだ。

 彼女は、かもしれない、の真実を確実に突きとめるよう、ましろに依頼したのだった。

 明らかにしたい理由までは知らなかったが、それがメンバーを探す上で重要であることは間違いないというような言いぶりであった。

 ましろが突っ立っていると、忍海は床に散らばった衣類を拾い集め始めた。

 バスケットボールをゴールにいれるかのように、備品であろう衣装の類を次から次へとポンポン棚の上と投げ込む。

 終わると、脚立をたたみ、しまいこんだ。


「私、言いません」


 ましろがつぶやいた。

 言葉が耳に入っていないのか、忍海はましろの前を横切り、ロッカーの前に立つと扉を開いた。

 バッグの中から何かを取り出すと、扉を閉める。そのまま、歩いて、ましろの目の前に立った。


「ましろん、手出して」


 ましろは言われるがままに手を出した。手のひらの上にチョコレートが置かれる。


「ありがとう。ましろん」


 忍海の言葉を聞きながら、ましろはどことなくおさまりの悪い気持ちを奥歯で噛み締めていた。

 舌の付け根に苦いものが広がってゆく。


「で、ましろんのお願いは何?」


 その言い方には、これまでにこういったやりとりを何度かしたことがあるような雰囲気が滲んでいた。


「あの……」


 ましろはその先を口にしたものかどうかと、躊躇った。

 約束を守れない自分のありようを考えれば、言えた義理ではないと自制する。


「なになに、ましろん?」


 けれども、頭の隅に引っかかっているましろ自身の、かもしれない、を解消したい気持ちが勝った。舌が上の歯から離れた。


「だったら、ここで少しパフォーマンスをみせてもらえないですか?」


 忍海が唇にチョコレートをねじ込みながら、きょとんとした表情でましろを見た。


「そんなんでいいの?」


 あきれた口調の中に楽しげな音色が跳ねている。


「忍海さんには、そんなん、なのかもしれませんが、私にとっては重要なんです」

「そっか。んじゃ、幻滅させちゃわないようにしないといけないね。でも、歌は勘弁してねん」


 忍海が片眼をパチンと閉じ、ましろに微笑みかける。

 次の瞬間、そこには飄々とした彼女は立っていなかった。

 それを目にした瞬間、ましろの中のかもしれない、は確信に変わる。

 疑いようがない。

 忍海こそがましろがPiuvreで見た者に違いなかった。

 『しれーぬ』という言葉の意味をましろ自身未だにわかっていなかったが、彼女にピッタリな称号だと純粋に感じた。


 ただの更衣室であるにもかかわらず、彼女をスポットライトが照らしているようにさえ、ましろは錯覚した。

 そんなことはないのだが、跳ねる度に空中高く吸い込まれ、消滅してしまうようかのようだ。

 それぐらい儚い。

 けれども、見る者に昂りを届ける、そんなダンスだった。

 スカートが、あとからふわりと彼女の腰元に舞い降りた。

 それが、ましろにはひどく扇情的に思えた。


 この様を見た人間なら、やはり、心動かされたりもするだろう。

 そんなことをしみじみとましろが考えていると、忍海からひっ、という引きつったような声が漏れた。

 途端、彼女の身体が硬直する。

 心なしか顔が青ざめているようだった。


「どうかしましたか?」


 訊ねると、忍海は震える腕で、ましろがいる方を指差した。


「私が関係してるんですか」


 忍海が顔を左右に振る。


「どういう――」


 ましろは途中で言葉を切った。忍海が何を指差していたがわかったからだ。

 目を凝らすと、黒っぽいものが視界に入る。

 足は短く、艶のある腹部が丸々と肥えた存在感のあるそれはーー


 --蜘蛛のようであった。


 次の瞬間、素早い動きで彼女が後退する。

 その先にはちょうど、彼女自身がぽんぽんと投げ込んだ衣装の類が載せられた棚があった。

 きちんと箱に入っていなかった衣装の類が、ぶつかった衝撃で次々と彼女の上に落下してくる。


「おぉっ、ましろん!いきなり目の前が真っ暗に……って首カサカサって! これ絶対蜘蛛、蜘蛛!」


 さっきまでの憧憬の念が、一瞬で霧散するようなポンコツっぷりだった。


「これ蜘蛛だって、ましろん、ましろん!」


 衣装の類を頭に被ったままわめきながら、忍海がふらふらと彷徨う。

 しばらくすると、ガン、という音がして、彼女がしゃがみこんだ。


「忍海さん!」


 ましろがあわてて駆け寄る。すると、小指の先を打ったのだろうか、靴の上から足を押えながら彼女は悶絶していた。


「おい」


 と、突然、ましろの背後で声がした。振り向く。

 そこにはあの赤い狐面を着けた者が腰に手をあてて、たたずんでいた。

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