第8話 専属マネジメント契約
レッスン場での歌とダンスを披露したのち、ましろは一人応接室のソファーで待つように指示されていた。
初めは、扉がいつ開いてもいいように、緊張感を持ち、背筋をピンとのばしていたましろであったが、三十分を過ぎた頃には、集中力が途絶え始めていた。
さらに、それが一時間になる頃には、幾度かふっ、と穴に落ちこんだように眠りそうになった。
油断していると出そうになる欠伸をかみころそうとして、涙のにじんだ目をしばたたく。
このままでは寝てしまう、と危機感を抱いたましろは、あまりよくないこととは知りながら、部屋の中を見渡した。
未だ1月のまま止まっているカレンダー。
夏場に使用されるであろうサーキュレーター。
ガラス戸がついた棚には難解そうな本が立ち並び、下段にはいくつかのトロフィーや盾が飾られている。
そのような空間で、やはりひときわ目を引いたのは、額装されて壁に飾られている風景画であった。
(絶対、似たようなのどこかで見たことあるんだよね)
じっと見つめながら、ましろは記憶の水面に、自身の思考をゆらゆらとたなびかせる。
青緑色に濁っているその川の中のどこかで、ぽわりとあやかな光がともった。
ましろは思わず目をつむって、思考を沈みこませそれをつかみとろうとする。
あと少しで届きそうになった時、コンコン、とノックの音がましろの耳に飛び込んできた。
それにより、いちどきにわき上がった記憶の断片が、脈絡なく生じてすぐに消えた。
「失礼いたします」
封筒をたずさえた黄金が、声のあとに入室してくる。
ぽかん、としているましろを見て彼女は言う。
「どうかいたしましたか?」
「いっ、いえなんでもありません」
ましろは消えてしまった記憶に名残惜しくもわかれを告げ、目の前のことに集中しなければ、と背筋をただした。
「失礼いたしますね」
デスクに持っていた封筒を置くと、面接の時と同じく、黄金はましろの目の前のソファに腰を下ろす。
ただ、先程のように警戒心や冷やかさといったものはその顔には浮かんでいない。
「大変お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」
「いや、こちらこそ時間を割いていただき、ありがとうございました」
ましろは座りながら、頭を下げた。
「それで、結果の方なのですが、残念ながら、やはり戸田さんをSEXY NOVA アクターズアカデミー大阪校に所属させることはできません」
「そうですか……」
ましろは急速に自分の身体が冷えていくのを知覚した。
文字どおり目の前が真っ暗になったような気分に包まれる。
「大変申し訳ないんですが、つぶれた事業場をまた興すというのは現実問題不可能なんです」
額からすべりおちた汗が、首筋にひんやりと伝わる。
意識の抜け落ちた状態になっていて、どうすればよいかが思い付かない。
胸の中にわき上がる気持ちといえば、この部屋から今すぐにでも逃げ去りたいというぐらいのものであった。
「そもそも、再度興すことが可能であったとしても、ひとりだけのためにというのもまた、現実的ではありません。そのような観点から――」
「すみません」
これ以上、黄金が滔々と喋るのが耐えきれなくなったましろは、突然ソファーから立ちあがった。
「ありがとうございました」
頭を下げ、そのまま部屋から出ていこうとすると、トントンというデスクで紙を整えるような音が聞こえる。
「話が終わる前に席を立つのは早計だと思いますよ。私が申し上げたのは、あくまでもSEXY NOVA アクターズアカデミー大阪校に所属させることはできないということだけですよ」
「どういうことですか?」
扉の前まで来ていたましろは振りあおぐように、身体ごと黄金に向けた。
一枚の紙を自分へ向けて突きだす彼女の姿が目に映る。
「単刀直入に言います。戸田ましろさん、あなたさえよろしければ、弊社との専属マネジメント契約を当該内容で打診させていただきたいのですが、いかがでしょうか?」
ましろは、呆然としてしばらくの間立ち尽くしていた。夢をみているような思いであった。
あくまでも、アクターズアカデミーからスタートするだろうことを予想していたましろにとっては、その過程を省略するということがにわかに信じがたいことであったのだ。
聞き間違えではないか、と思い、ましろは間抜け面をさらしながら、訊ねた。
「もう一度言ってもらっていいですか?」
ましろの反応にくすり、と笑みをにじませる黄金。
「戸田ましろさん、弊社の専属アイドルになりませんか?」
つぎの瞬間には、ましろは飛び付くような口調で「はい」と答えていた。寸分の迷いもなかった。
そのために、関西の大学に入学し、実家を出てきたのだ。
「では、もう一度だけお掛けになっていただいてよろしいですか?」
再びソファーに腰を下ろすと、黄金は契約書をましろに見えるようにしながら、切り出した。
「弊社の専属マネジメント契約ですが――」
話の内容であるが、レッスン費用や交通費などの扱いなど、おおむね契約形態やマージンの取り分についてがほとんどだった。
しかし、ましろの頭の中にはその話の半分も入ってこない。
アイドルにならないか、と黄金が言った言葉を、いつまでも減らないキャンデーのように繰返し味わっていたからだ。
最終的にはそうなりたいと思っていたましろはいくつもの過程をすっ飛ばしたせいで、冷静な判断が出来ていなかった。
とはいうものの、冷静であったとしても結果はあまり変わらないのかもしれない。
ましろは、思いついたら実行せずにはいられない、ともすれば迷いに耐えることができない性格なのだ。
「――補足ですが、完全歩合制ですので、毎月報酬がお支払いされるとは限りませんので、留意願います。では、以上の内容で納得していただけましたら、こちらにサインをいただけますか?」
「はい」
ましろは躍り出しそうな勢いで、大きくうなずいた。
待ってましたとばかりに、契約書の乙欄に戸田ましろと記入する。
「印章は持ってきておりますか?」
「印象ですか? そうですね……キラキラ輝いているような印象を受けます」
「その印象ではございません」
すげなく返された。
「学生である戸田さんには、普段あまり聞き慣れない言葉かもしれませんね。戸田さんがわかるような言葉でいえば、印鑑ですかね。まぁ、実際問題、印鑑と印章は異なるものなんですが」
「印鑑なら持ってきてます。ただ、朱肉は……」
「朱肉なら、こちらで用意しておりますのでどうぞ」
ましろは、ショルダーバッグの中から出した印章を手に持った。
「では、印影をお願いいたします」
黄金にいわれるがままに、ましろは押印した。
契約書を手に取り、黄金が確認する。
「ったく、契約内容もまともにきかず、契約書も細かく読まねぇでサインするだなんてな。これが詐欺だったらどうすんだよ。うちは、んなことねぇけど、ひどいとこだったら、さらっと成人向けコンテンツへの出演とか盛り込んでるぞ」
「へっ?」
部屋には二人しかいないにもかかわらず、ましろは部屋中に視線をさまよわせた。
「あぁ、どうかしたか? んな、部屋見渡しても金目のもんなんてねぇぜ。うちは今や没落事業部って
カッカッカッ、と黄金が笑いながら、脚を組んだ。
彼女の言葉に、ましろの推量はごくふつうのこうした場合の想像範囲の中を、あちらこちらへと動き回る。
言われてみると合点がいく。
背の部分がえんじ色のビニールであるソファーは、やぶれたところから黄色のスポンジが少し飛び出している。
1月のまま止まっているカレンダーからは、世の中の流れやスケジュールをあまり考えていないようにも見えなくもない。
備品の状態からも、かつては栄華を極めていたアイドル事業部が没落したことがうかがえた。
「ってそうじゃありません! 明星黄金さんですよね?」
ましろは答えのわかっている問いをあえて投げ掛けた。
「そうだが、なんで、んなこと聞くんだ?」
「だって、さっきと違って口調が……」
「あぁ、口調か……」
黄金がにやり、と意地の悪い笑みを浮かべた。
「先程までの口調に関しましては、戸田さんがまだ、弊社の専属アイドルではなかったからですよ。……けど、今はちげぇ。内部の
「家族……」
言葉遣いは、つい数分前に比すると汚いものであったが、その黄金の言葉にましろは安心感に似た何かを抱いた。
「それはそうと、戸田ましろ」
「はい」
「てめぇはさっきアイドルにキラキラ輝いているような印象を受けるったな。その言葉は正気か?」
「はい。私のお姉ちゃんは、アイドルになって光を見つけたって言ってました」
黄金はましろの言葉に、わずかではあるが嘲笑に似た薄笑いを口許に浮かべた。彼女は両手の指を組んだまま、身体を少し前傾させてましろを見据える。
「輝赤が、んなこと言ってやがったのか、カッカッカツ」
笑いながらいい終えた彼女の顔が、次の瞬間、大きく変わった。
「それは、あいつが選ばれた人間だったからだよ。今の時代、んな甘くはねぇぞ。へたくそでも売れる時代は終わったんだよ。いや、そもそもうまいやつでも日の目を浴びずに、声優アイドルとかに負けちまってる。姉がしてたから、自分もなんつー軽々しい気持ちじゃ何も残せず、そのまま消えてく。あぁ、こう言やぁ語弊があるな。すぐに消えていきそうなやつならオレは
日差しを受け、壁に映っている影が揺れる。
部屋の空気を微妙に波立たせた。
さしものましろも、すぐに言葉が出なかった。
黄金からおういつするただならぬ雰囲気にのまれて、熱い石を素手でつかまされたようにひるんだ。
目を伏せると、指をそれぞれ交差させて握りしめた手が、血の気を失い、真っ白になっていた。
さらにそれは小刻みに震えている。
ましろは、身体の震えを見透かされまいと必死で堪えた。
「さらに現実を突き付けるようで悪いが、はっきり言ってやる。オレがてめぇと専属マネジメント契約を締結しようと思ったのは――」
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