第6話 毀れた人形

 扉の向こうは日中だというのに、薄暗い。

 ただ、外でましろが感じていたような薄気味悪さは、はらんでいない。

 廊下に電気がついていないだけである。


「すみません」


 いきなり中へとずんずんと勝手に入っていくことは憚られたため、ましろは一応声をかけた。

 しかし、しばらく待ってもなにも返ってこない。


「すみません!」


 先刻よりも少し声を張って、ましろは言った。

 やはり何も返ってこない。

 人がいないのか、と思いつつ、きょろきょろと視線をさまよわせた。


 その最中、壁にかかっていた一枚の絵が目を引いた。

 ましろはそれに近付く。

 ためつすがめつしていると妙な気分になった。

 どこかで見た光景に思えてならなかったのだ。


 精緻な筆遣いで描かれた風景画。


 構図的にはたいしたものではない。

 青空を背景にして、屹立きつりつしたいくつかの石のようなものとともに、キャンパスの大半には生い茂る野草のたぐいが描かれている。

 描写に技量は示されているものの、キャンバスにこれでもかと要素を取り込もうとしているためにバランスを失い、結果として統一感のない絵となっていた。


 ましろ自身よく美術館巡りをするため、その中のどこかで見たものだと、はじめは考えていた。

 しかし、子細に眺めると間違いだと気付いた。

 なにかそれだけでは納得のいかないものがある。

 きちんと立派な建物の中に飾りつけたものではなく、もっと身近で粗雑に扱われたそれを見たようなそんな気がしたのだ。


 だが、どこで、いつとの記憶とまでは特定できなかった。

 そして、さらに検分すると、記憶の中のそれに比べて、たった今目の前にある絵画は似て非なるものだと漠然と感じた。


 ましろは無意識に深呼吸した。


 高名なイラストレーター兼デザイナーであった父親に連れられて美術館に行った時、「本当に素晴らしい絵からは匂いが感じられる」と聞いてから、半信半疑で続けているうちについた妙な癖であった。


「ん?」


 ましろの肺に空気が流れ込む。

 その中に、たしかに匂いがまぎれこんでいた。

 とは言っても明らかに絵から発せられたようなものではなかった。

 今までに嗅いだことがない、花や食べ物の匂いとは明らかに異なる。


 たとえるなら、甘ったるさと懐かしさと埃っぽさがない交ぜになったようなものであった。 


 そう羅列してしまうと、あまりいい香りとは言えないのかもしれない。

 しかしながら、ましろにとっては、どこか心の鎮まる匂いであった。


 あとで取りに戻ろうと、とりあえずキャリーバッグを端に寄せて、置いておく。

 匂いを鼻に感じながら導かれるようにして、歩を進める。


 匂いの発生源とおぼしき部屋に足を踏み入れたましろは立ちつくした。

 せりあがった動悸が、それ以上足を進めるのを止めていた。


 なにかを口にしたいのだが、その言葉をたとえようのない思いが呑み込んでしまう。

 ましろの目はそこにいた女性へと釘付けになった。


 斜めから射し込む真珠色の光に横顔を照らされながら、彼女は車椅子に腰かけ、両手を膝の上で重ね、額装された一枚の写真をじっと眺めている。

 ましろは、彼女の視線の先を追った。


「あっ」


 ましろの口から声が漏れた。車椅子の女性が見ていた写真の被写体は、かつて世間をにぎわせたアイドル、VOTの面々であった。

 ライブ衣装であろう格好で、7人が仲睦まじくにこやかな表情を浮かべている。

 と、声に気付いた女性がましろの方へと肩越しに目を向けた。


「こんにちは」


 目が合ったましろは、笑みを浮かべてごく普通に言った。

 しかし、内心は顔がひきつるほど驚きを禁じえなかった。

 動揺を隠すのに必死だった。

 なぜなら、相手は、写真にも写っている伝説のアイドルVOTの一員でもある美旗紫歩みはたしほだったからだ。

 このようなかたちで会おうとは夢にも思わなかった女性である。


 少女のようなあどけない顔をしていたが、そこにはなんの表情も貼りつけられていない。

 片眼には眼帯がはめられ、もう片方はガラス玉のようにただ目の前にあるものだけを映し出しているかのようであった。

 肌は決めこまかく色白である。

 ともすれば血が通っていないビスクドールといってもいいくらいであった。


 ステージ上では輝いていた星も、いざ地上に落ちればイメージがだいぶ異なっていた。


 ましろは、なんとなく怖気をおぼえた。

 無感情な瞳の奥に底の見えない闇を一瞬感じたからだ。


 紫歩はそんなましろの顔を、値踏みでもするように、じっと見つめた。

 ましろの頬が紅潮してしまうほど、無遠慮に。

 やがて、彼女は膝の上に置いていたスケッチブックに文字を書いて、ましろへと見せた。


『不審者?』


「私は不審者じゃありません!」


 ましろは、震える声で全力で否定した。


『嘘。裏口から入ってきた。非常に怪しい』

「裏口!?」


 どおりで廊下に電気の一つもついていなかったわけだ、とましろは一人納得する。


『不審者でないなら入口から堂々入ってくるはず。本当にあなたは何者?』

「私は、――」

「紫歩、どうかしたか?」


 ここにきた目的を話そうとした時、背後で声がした。


 ましろはビクリと肩を震わせ、振り向いた。

 そこには、顔のほとんど右半分を仮面で覆った女性が立っていた。

 右手を形の美しい腰に当て、ましろを見据える彼女からは大人の色香が漂っており、気高さを感じる。


 仮面越しの目が、数秒のあいだましろの上に静止した。

 その後、彼女が尋ねるような視線を紫歩に向けた。


『不審者』


  紫歩が?マークをペンで消した上で、先程書いたスケッチブックを黄金に見せた。


「こほん。紫歩さん、こんなかわいらしい人が不審者のはずがありませんよ」


 わざとらしい咳払いをした後、穏やかな口調で、仮面の女性がそう言葉を紡ぐ。

 そして、何かを思い出したような顔をする。


「あのー、もしかして、新人さんですか?」

「はい」


 アイドルになるためにここへ来たことを考えると新人、という言葉にあながち間違いはないため、ましろはそう答えた。


「そうでしたか。初めてだと場所等わからないでしょうし、案内いたしますね」


 面接の場所だろうか、と思いながら、ましろは女性についていった。


「いつもの時間に来られず、連絡もなかったので、少し心配していたのですが、本日はおか――ほう山寺ざんじさんではないんですか」


 何か違う、と気付いたのはそう言われてからのことだった。


「宝山寺さん? 電話は一応アクターズアカデミーの方にはかけたんですが、現在使われていなかったみたいで。つぶれているのなら、当然ですね」


 女性がぽかんとした顔でましろを見た。


「アクターズアカデミー? つぶれている?」


 かみ合わぬ会話を交わした後、ようやっと事態が判明した。

 彼女はましろのことを、事務所を定期清掃しに来た人間と勘違いしていたのだった。


 初めに、女性と出会った部屋へと戻る。


「許可なく事務所に入られては、困ります」


 仮面の女性の目の奥で、探るような、疑うようなまなざしが動いた。

 紫歩が掲げているスケッチブックをチラ、と見る。


「もしかして、本当に不審者なんですか?」

「違います、違います!」

「まぁ、そのなりで不審者とはいささか考えられませんけど、許可なく事務所に入られては、そう間違われても仕方ないですよ」

「その点については、すみません。けど、私も目的があってここに来ました」

「目的、ですか」


 女性が鷹のような一重まぶたを細めた。


「はい」

「目的とは、先程お話しされたアクターズアカデミーが関係あるのですかね?」

「はい。私はアクターズアカデミーに入会するためにここに来ました。さっき、もうつぶれたという話を聞きました。けれど……けれど、諦められないんです」


 女性は左手の指先で顎のあたりを弾きながら、思案する素振りをみせる。

 仮面ごしに、彼女は見なければ気がすまない、とでも言いたげな鋭い視線をましろに寄越した。


「私、どうしてもアイドルになりたいんです。話だけでも聞いてもらえませんか?」


 ましろが畳み掛ける口調になったのは、せっかくここまで来て門前払いだけは避けたいという思いからであった。


「いや、ただアイドルになるだけじゃだめなんです。VOTを生んだここでアイドルにならないと意味がないんです。そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ……。お願いします」


 ましろは一息にそう言って、頭を下げて懇願した。

 その思いが少なからず伝わったのか、やや間があって、女性は胸郭きょうかくにたまっていた湿った空気を、長い息にのせて吐き出すと、言葉を紡いだ。


「わかりました。少し話を聞きましょう」

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