第5話 不気味な建造物
「はぁ」
ましろの口から自然とため息がもれる。
初めは、みみずが這ったような地図をなんとか解読しようと、ウンウンと頭をひねっていたが、途中からはギブアップしたのだった。
せめて、建物の名前くらい聞いておけば、それをたよりに道行く人々に案内してもらうという方法もとれたのだが、聞いていないためそれもできない。
あてどもなく、ふらふらとしていると、ゲームセンターから出てくる緋色の髪の女性に偶然にもまた会った。
彼女は、ましろのことを壊れた人形でも見るような哀れんだ目で見た。
「目的地には無事辿り着いたのかしら?」
問いに対し、あはは、と乾いた笑いを漏らすましろ。
「あなたってもしかして方向音痴のかしら? 地図だって描いてあげたでしょう。その通りに行けばいいじゃない」
「あな――」
「あな?」
ましろは、喉元まで出かかった言葉を必死に飲み込んだ。
言いかけたのは、あなたが描いた地図がわからなかっただけです、という言葉である。
「ですね。地元でも、お母さんにもしょっちゅう言われました」
「やっぱりそうだったのね。ただ、こんなところで道に迷っているようじゃ、大阪では生きていけないわよ。大阪駅や梅田駅近辺なんてもっと迷宮だもの」
女性が言った地名がわからなかったが、ましろは
彼女はひとつ大袈裟にため息をついた。
「ついてきなさい」
「えっ」
「二度は言わないわよ」
女性はましろからきびすを返すと、歩き始めた。
「待ってください」
ましろが呼び止めるのも無視して、女性は早足で歩いていく。ましろは考える暇も与えられず、転げそうな勢いで彼女の後を追った。
立ち並ぶ店には、春のフェアや大安売りといった
ブティックの店先では、女性たちが、真剣な表情でセール品のかごを次々とかきまわしている。
ましろはそんな風景を見て、一人田舎から出てきたことをあらためて実感し、何か大人びたことをしているように思えた。
商店ひとつない無人駅しか知らなかったましろにはすべてが新鮮であった。
ましろの地元は見渡しても道路と山ぐらいのものであったのだ。
商店街の喧騒を歩きながら、ましろは胸いっぱいに埃っぽい空気を吸い込む。
「活気があっていいところですね!」
「そうかしら、無駄な雑音が多くて、息が詰まるところよ」
女性は、商店街に眼を向けながら、つぶやくように言った。
「でも、私が住んでたところには、こんなににぎやかなところがなかったので、新鮮なんです」
人々が、鮮やかないろをまとって
「にぎやか、かしら? 人や店は多いけれど、買う人自体はあまり見かけないわよ」
ましろの視線を追った女性は、興味なさそうに言い捨てた。
話しながら、ましろはもう少し取っ掛かりが得られたなら、思い切って彼女に名前を訊ねてみようと考えた。
まだ、大阪に出てきたばかりで知り合いの一人もいないため、ともすればせっかくの縁にお近づきになりたいと思ったのだ。
「危ないわよ」
そんなことを考えたまま、ましろが歩いていると、言葉とともに腰に手が回され、彼女にぐいと引き寄せられた。
横道から不意に乱暴な自転車が飛び出してきたためであった。
「いろいろとお世話になりっぱなしですみません。そういえば、名乗り遅れましたけど、私、――」
ましろが自己紹介をしようとすると、女性が手を動かして制止した。
驚いたように相手を見つめる。
「いらないわ。もうあなたと会うこともないでしょうし」
そこから先はほとんど口もきかずに、二人は商店街を進んで行った。
隣を歩きながら、ましろは、女性の横顔をもの悲しい思いでみつめていた。
三叉路をひとつ越すと、立ち並ぶ商店の種類が違ってくる。
ただしすべてシャッターが下りていた。
それも昨日、今日閉められたものではない。
更に行くと、古ぼけた建物がしばらく続き、商店街の喧騒がうそのように、かき消えてしまう。
服の裾を軽やかに翻しながら、女性はさらに道の奥へと入っていく。
そこは人気がなく、空気もひんやりとしていた。
とてもではないが、ましろが目的としている場所がありそうにない。
(ひょっとしてだまされたのかな)
ましろはそう思ったりもしたが、我ながら馬鹿げていると内心で苦笑した。
どう考えてみても、初対面であるこの女性が、そんないたずらのために、わざわざ時間を割くメリットが思い浮かばなかったからだ。
そんなことにましろが意識を傾けているとふと、女性の足が止まった。
「ここの三階よ」
「ここが……」
ざらついた塗装に入った細やかなひび。
目の前には周りの建物から飛び抜けて大きな廃ビルのような建物があった。
看板などなく、普通であれば気付かずに通り過ぎるような場所だ。
「ありがとうございます」
ましろはペコリと頭を下げた。
女性はそのまま去っていこうとしたものの、なにか心境に変化があったのか、ふと立ち止まり、振り返った。
「ひとついいかしら?」
「はい、なんですか」
「こんなところにあなたは何の用があるのかしら?」
「実は、私、アイドルになりたいんです。そのためにアクターズアカデミーに入会したかったんです」
淀みなく出た言葉だった。
女性の目がまじろくこともなく自分へと注がれているのに気づき、ましろはなにかとんでもないことでも口にしたのかと思った。
女性が長嘆息した。
「まさかと思ったけれど、本当にそうだったとはね……」
真顔になって、
言葉の響きは何らの感情も含まれていない硬質で無機質なものだったが、彼女の眉根に、自身に向けられた憐みをましろは読み取った。
「あんな薄汚い世界に自ら飛び込むなんて、あなたはよっぽど物好きみたいね」
「それってどういう――」
「世の中には知らないままのほうがいいものが多いってことよ。それじゃあ」
女性はそれだけを告げると、まったく取り合う気配も見せなかった。
「ありがとうございました」
今度こそ本当に女性が去っていったので、彼女の背に向け、ましろはもう一度折り目正しい礼をした。
足取りも軽々と、毅然とした後ろ姿だった。
再び建物に視線を投じる。
銃眼のような小窓。
コンクリートの壁の表面には、ひび割れが生じ、一部一部に黒や黄色っぽいをしみを幾条も付着させている。
窓際の壁には室内の空調機と室外のモーターとをつなぐ白い管が出ていた。
まだ寒い季節ではないのに、冷え冷えと濁った空気が沈みこんでいた。
駅前や商店街に確かにあったざわめきや活気が感じられない。
「こんなところにありそうにはないけど……」
しかし、ここまで来て帰るのもしゃくである。
ましろは自分にそう言い聞かせ、階段をのぼりかけて足を止めた。
背後に人の気配を感じたからだ。
しかしながら、そこには誰もいなかった。
次いで、前に視線を向けなおすと、静まり返っている。
ましろは緊張して、ショルダーバッグのひもとキャリーバッグの取っ手を、改めて握りしめた。
階段の一段目に足をかける。
ふと手すりなどを見ると、ひび割れがあり、錆がこびりついているのに気付いた。
とともに何度か嗅いだ覚えのある
「これは?」
匂いの正体は手すりに付着していた、比較的新しい、誰かがかみ終えたであろうガムであった。
「ひゃあ」
幾羽ものカラスが、すぐそばの電柱で鳴いた。
まるでこの先に行くのは辞めた方がいいと警告するような鳴き方であった。
ましろは驚き、目をつむり、耳をふさいでしゃがみこんだ。
しばらくたって、おそるおそる目を開けると、カラスがばさばさと羽音を立てて、飛んでいったのが視界に入る。
ごくり、と喉を鳴らした。
一歩一歩、慎重に階段を上がっていく。
カラスが飛び立ってからというもの、動きそよぐ物はなかったが、どこか張りつめるものがあった。
ましろは階段の途中でふと立ち止まって、何気ない風に後ろを振り返る。
見えない境界線が厳然とあることを確かに感じた。
常の世ならぬ異界に紛れ込んだような感覚に襲われ、息をのむ。
急いで向かいたいはずだったのに、足が重かった。
引き返した方がいい、と本能がささやく。
だが、もはや引くことはできない。
再び階段を上り始め、三階に到達した。
扉の前に立つ。
鋼鉄製の扉のあちらこちらに錆が浮いている。
塗装の剥落もひどい。
何かこの世ならざるものがでてきたら、どうしよう。
そんなことはばかばかしい考えであることはわかっていた。
しかし、ましろの腕には無意識のうちに鳥肌が立っていた。
ひとつ深呼吸すると、おそるおそる扉を開いた。
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